SPA Panic! <7>
「き、聞けって何をよ!?」
声に脅えの膜が張っているのを悟られまいと、理子は真正面の二重人格者を強気の視線で見る。
コウの真紅の瞳に変化は無い。だが、なぜかその表情に貼りつく歪んだ笑いは消えていた。
「俺はお前に乱暴したくない。お前が嫌がると、ここら辺りが苦しくなる。なんでか分かんねぇけど」
コウは苛立った表情でそう語ると、自分の鳩尾辺りを親指で指した。そして低い声で先ほどと同じ台詞を再び口にする。
「だから二度と抵抗するな。黙って俺を受け入れろ。分かったな……!?」
低音の中に潜む押し殺したような凄み。そのプレッシャーが理子の全身を余すことなく威圧する。
「わ、分かったわ……。もう暴れない」
全身にのしかかる重力に負けた理子は小さく頷く。
しかしそれは本心から出た言葉ではなく、あくまでもコウに一瞬の隙を作らせるためだ。だがその隠された本意に気付かないコウは、満足そうに片側の口の端を小さく上げると理子ににじり寄る。そして理子の耳元に口を寄せ、小さく何かを呟いた。
「エ……?」
耳元で告げられたその言葉があまりにも意外で、理子は目を瞬かせる。しかし今の言葉の意味を確かめる前に、コウは素早く理子の背中に手を回し、その細い身体を抱きしめようとした。
( ── い、今だ!)
コウの視線が自分からずれたその一瞬の隙をつき、理子は急いで手の中に握りしめていた武蔵の向きを変える。そして続けざまに唐草文様側の左下にあるスイッチを押した。
するとその動きを見たコウの表情が驚きに変わる。
「……リコ、なんでお前、武蔵の起動回路の位置を知ってるんだ……?」
さぁこれで形勢は一気に逆転だ。
消沈していた理子の声にも威勢が戻る。
「武蔵に教えてもらったのよっ!」
「なに、武蔵が……!? 専属操作者の俺に断りもなく……か?」
コウの表情は強張っている。
「それが何!? ねぇ武蔵! これでいいんでしょ!? さっさと起きなさいよ!」
しかしなぜか手の中の武蔵は起動する様子を見せなかった。
「ど、どうして!?」
きちんと押しきれなかったのかと焦った理子は、連続で何度も起動回路のスイッチを押す。
「ねぇ起きて! 起きてよ武蔵! 起きてってば!」
しかし武蔵は依然として沈黙を続けたままだった。
物言わぬ電脳巻尺を抱え、絶望という名の淵に立たされた理子は、目前の恐怖にかられ、叫ぶ。
「起きて武蔵! お願いっ助けてっっ!」
その言葉を聞いたコウの表情が変わり、瞬く間に血の気が引き始める。
「……僕が悪いんだ」
脱力したコウが唐突にボソリと呟いた。
「コウ?」
突然のコウの変化に、理子の瞳は大きく見開かれる。
「……僕が悪いんだ。僕のせいで、僕のせいで母さんがっ……」
コウは呻くようにその言葉を口にすると、頭を抱えた。
── タスケテ
理子のその言葉が引き金だった。
引き始めた血の気の代わりに、脳内で堰き止められていた記憶という名の河がコウの内部を一気に流れ出す。遥か昔の記憶からつい昨日の記憶まで、今まで積み重ねてきた記憶、そのすべてが、混沌とした状態のままで留まる事を知らずに体内をくまなく流れ出し始めた。まるでその濁流から必死に足掻いているかのように、頭を抱え、深く俯き、コウはうわ言のように謝罪の言葉を呟き続ける。
「……ごめんなさい……、あなたを、リコさんを傷つけるつもりは無かったんです……!」
ごめんなさい、ごめんなさい、と喉奥から搾り出すように何度も呟くその声は、とても苦しげで、聞き取れないほどにかすれていた。
「もっ、元に戻ったのコウ……?」
「でも僕はあなたを失うのが怖いんですっ……! だって、もしリコさんが、リコさんが、あの時の母さんのように……!」
正気に戻りつつあるコウは抱えていた頭から手を離しおもむろに理子に向き直ると、少女の身体をバスローブごと思い切り抱きしめた。その抱擁力の強さに理子の手の中から武蔵が零れ落ち、勢いでベッド脇へと落下する。
「あ!」
ゴトリと鈍い音が響く。しかしそれでもやはり武蔵は起きる気配を見せなかった。
武蔵が床に落ちてしまった事をコウに知らせようとした時、理子は自分を抱きしめている身体が小刻みに震えていることに気が付く。
「リコさん僕を一人にしないで……置いていかないで……お願いです……」
理子の身体をその両腕にしっかりと抱きしめたままで、コウは何度も何度も必死に哀願を続ける。
「コウ……」
そう呟いた理子の脳裏に、昨夜武蔵から見せられた廃墟の残骸に佇む幼き日のコウの姿が蘇った。
暗紅に染まる空を光を失った二つの目でぼんやりと見ていた少年の横顔と、まるで幼子のように自分にすがりつき、眼下で微かに震えている今のコウの姿が無意識に重なり、理子の心の中に深い憐れみの情が生まれる。
「大丈夫だよ」
理子はコウを落ち着かせるため、その広い背を手のひらでさすり、慈愛に満ちた言葉をかける。
「どこにも行かないから。……ね?」
しかし理子の言葉が耳に届かなかったのか、コウの震えはまだ止まらない。赤い髪も、広い肩も、理子を抱きしめている両腕も、目に見えぬ何かに脅え、震え続けていた。
理子はもう一度、「どこにも行かないよっ」と声をかける。
すると今度は声が届いたのか、コウはわずかに身体を離し、理子の顔のすぐ間近で「……本当ですか?」と今にも泣き出しそうな口調で尋ねる。
「うんっ」
コウの瞳を真っ直ぐに見つめ、理子は笑顔で頷いた。その笑顔につられたのか、哀しげな瞳のままでコウも小さく安堵の笑みを見せる。
「ほらっだから泣かないのっ!」
理子は着ていたバスローブの袖口でコウの涙で滲んだ目元を押さえると、さらに大きな笑顔を浮かべた。コウのこの哀しげな笑顔を、いつも見せてくれているようなあの優しい笑みに戻らせるために。
「リコさん……」
やや遠慮がちではあったが、理子の髪の中にコウの指がなめらかに滑り込んでくる。
そして次の瞬間、先日社会化準備室で桐生に見つからないよう潜伏していた時のように、そっと頭を引き寄せられた。
次に何をされるのか、以前の経験からある程度は予測できた。
しかし恐れの心はもう消えていたため、抵抗はせず、理子はそっと目を閉じる。
わずかな緊張感と、溢れんばかりの高揚感をその華奢な身体に詰め終わった時、桜色の唇にコウの唇が重なった。だがそれは社会化準備室でされた時とは少し違い、優しくリードするというよりは貪るようなキスだった。
激しさのあまり唇が一瞬離れる度、コウの不規則な息遣いが理子の耳元に届く。そしてその度にコウは理子の名を、微熱に浮かされているかのように何度も何度も熱っぽく囁いた。
自分を欲するコウの一途な情熱を絶え間なく浴びせかけられ、理子の思考が徐々に停止しかけてゆく。抵抗する力などすでに無いも同然になっていた。このままコウに全てを任せてもいい、頭の片隅でもう一人の自分がそう結論を出したのを止められないほど、理子の思考力はその働きを完全に放棄してしまっていた。
── しかしようやく想いが通じた二人の蜜月時も永くは続かなかった。
何度目かの囁きの後、不規則だったコウの息遣いが突然止まった。そしてそのまま理子の右肩から滑り落ちるようにぐしゃりとベッドに倒れ付す。
抱きしめられ、陶然としていた状態から一気に現実に戻った理子は、気を失ったコウに覆いかぶさるようにしてその身体を何度も揺さぶった。
「どうしたの!? 起きて! 起きてよコウ!!」
その時、理子はふと自分達以外の気配を部屋のドア付近から感じた。
「……だ、誰……!?」
理子は気配のする方向へと視線を走らせる。
その直後、黒いシルエットが薄い暗闇から滲み出るようにゆらりと現れた。