SPA Panic! <6>
そう、まったくもって不本意ではある。
──が、
現在コウによって強制お姫様抱っこをされている理子は、自らの意思で動く事が出来ない。
それ故、そんな哀れな少女が今せいぜい出来る事と言えばたった一つ。
身体の前面を覆う微妙な大きさのハンドタオルがずれないよう両腕でしっかりと押さえつつ、
「ちょっとコウッ! アンタなんでまた性格が変わっちゃってんのよっ!?」
と必死に叫ぶぐらいしか道は残されていなかった。
だが乙女の危機はそんなことぐらいでは止まらない。肝心のコウは全く聞く耳持たずと言った様子で、足取りも荒く女湯から飛び出そうとしている。するとそこへ、
「理子ぉ~~!」
という多少間延びした穏やかな声が脱衣所の後方からかけられた。全身にバスタオルを巻いた真央が理子を追って出てきたのだ。
「ま、真央!? こっちに来ちゃダメーッ!」
理子はコウの肩越しに後ろを振り返ると慌てた声で叫んだ。
豹変後のコウの横暴さをすでに知っている身としては、身動きが取れない中でもせめて親友に危害が及ばないよう必死に庇う。
だが残念なことに、そんな理子の思いにまったく気付いていない呑気者な真央は、
「だいじょーぶ! 分かってるってば!」
と答えるとさらに二人の側に近づいてきた。
「真央っ! だからこっちに来ちゃダメだってば!」
「あっ理子達のお邪魔はしないから安心して! でもこの人にこれだけは渡そうと思って!」
真央はそう言うとスパ施設内でレンタルされている白い厚手のバスローブを手に取り、コウに向かって差し出した。
「ハイ、どうぞっ」
「……?」
いきなり目の前にバスローブを差し出されたコウは、怪訝そうな表情を若干浮かべはしたものの、敵意剥き出しの視線を一瞬たりとも止めることなく真央に浴びせかけ続ける。
だが真央は正面から自分を射抜くような鋭い視線など物ともせず、両の口元を上げておっとりとした笑みをコウに向けた。
「ここには車で来ているんですよね? でも外は寒いですよ? そんな格好で駐車場まで連れて行ったら理子が風邪を引いちゃいます!」
「…………」
コウの沈黙が続く。
しかしその言葉がきっかけになったのか、鋭い眼光を崩さないままではあったが、コウは最終的には真央の手からバスローブを乱暴に取り上げ、理子の身体の上にバサリと無造作にかけた。
「良かったぁ~! もうすぐ修学旅行なのに理子が風邪ひいたら大変だもん!」
真央は安堵の笑みを浮かべると、次に理子が持参していたバッグをかざす。
「えっと、コウさん……でしたよね? これ、理子のバッグです。こっちも持っていって下さい! じゃあ理子のこと、よろしくお願いしま~す!」
「ちょ、ちょっと真央!?」
「理子、私はもうちょっと温まってから帰るねっ。でもここのスパってすごく脆い壁なんだね。ふふっ、もしかして手抜き工事したのかなぁ? じゃあ理子、また明後日学校でね! バイバイ♪」
真央は最後にそう挨拶を告げると足取りも軽やかにまた浴場内へと戻って行ってしまった。親友のあまりの能天気さを目の当たりにした理子は、頭を抱える代わりに独り言を呟く。
「まったく何考えてんのよ真央ってば……!」
「それは俺の台詞だっ!」
明らかな怒気を含んだ口調で突然コウが言い放つ。
理子が斜め上を見上げると、ほとんど瞬きをしない紅く染まった二つの瞳が、これ以上ないくらいの威圧感を携えて理子を凝視していた。
……寒い。とにかく寒い。
上下、両の歯が今にもガチガチと音を立て始めそうなくらいだ。
あまりの寒さで声さえも出なくなってしまった理子は、もう一切の無駄な抵抗を止めて、コウの腕の中で身を縮めていた。
しかしそれは当然といえば当然のことでもある。
理子を抱えてスパを飛び出したコウは、一言も喋ることなく、通行人が思わず振り返るほどのスピードで通りを突っ走っている真っ最中だからだ。
常温のワインの瓶に水で濡らした紙を巻き、激しい風を当てるとよく冷えて飲み頃の温度になるように、つい数分前まで温かい湯に浸かっていた理子の身体はこの冷えた空気の中で無防備に晒されている。いくら寒さに滅法強い理子とはいえ、真央の思いやりがこめられたこの白いバスローブがかけられていなければどうなっていたか分からない。
しかしこの酷寒な状況の中、痺れるような寒さに打ち震えながらも、理子の頭の中は怒りの感情で一杯だった。
( ── エロ巻尺ってばこの非常時に何やってんのよ!)
昨夜のように、繊維針を使った手荒な手段でコウを強制的に眠らせてしまえばとりあえずこの場の収拾はつくはずなのに、なぜか未だに武蔵が現れないのだ。
しかし武蔵の名を呼ぼうとしても寒さのせいで激しく震える理子はすでに声が出せる状態ではなかった。
焼け石に水程度だと分かりつつも、暖を取るためにしっかりと自らの両肩を抱く。
だがその努力も空しく、やがて寒さで意識までもかすんでいく中で理子が最後に見たのは、母の弓希子命名、「修羅場の権田原家」。
その玄関先だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
例えるならまるで身体全体が羽毛の一つに変わり、フワフワと宙に浮かんでいるような、そんな優しい温かさの中で理子は目が覚めた。
( ……ここ、どこ?)
薄暗い室内の中で一生懸命に目をこらす。
まだ昼前だというのにこんなに室内が暗いのは、二箇所ある部屋の窓に遮光性の高いカーテンがきっちりと引かれているためだ。
身体には白のバスローブの他に、柔らかくて軽い羽毛布団がかけられていた。この掛け布団のせいで自らが羽毛になったような夢を見たのかもしれない。
ここがどこなのかを確かめるために理子はその場から起き上がろうとした。その時、
「やっと起きやがったか」
という声が足元の方角から聞こえ、ベッドのスプリングが軋む音がしたかと思うと、間髪入れず、理子の視界の中央にコウの顔が映りこむ。
「ひやぁっ!?」
鼻先数センチ、というぐらいの超至近距離にコウがいきなり現れたため、理子は大きな悲鳴を上げ、驚きで目を見開いた。
「……おい、なんだ、その嫌そうなリアクションは」
理子の驚愕ぶりが余程気に入らなかったのか、落ち着き始めていたコウの声に苛つきが戻る。
「だ、だってコウがいきなり間近に顔出すんだもん!」
「うるせぇ!」
大音量の怒声と共に、ようやく暗褐色に沈み始めていたコウの両瞳の色がみるみるうちに彩度を取り戻し始める。
「つくづくふざけた女だ! あれだけ俺を拒んでおいて、あんなジジイ達とヤろうとしてみたり、いざ俺がヤろうと連れ帰ってみれば勝手に気を失いやがって……!」
「ハァ!?」
思い込み満載、かつ身勝手なコウの発言についに理子は切れた。
「だからさっきから何ヘンな事ばかり言ってんのよっ! 全然意味分かんないって言ってるでしょ!? いいからどいてっ!!」
頭上のコウを目一杯の全力で押し戻して何とか身体の上から排除すると、そのままベッドに起き上がり、攻撃ならぬ、口撃を開始する。
「いい加減にしなさいよねっ! 大体、こんな格好で私を寒空の下に連れ出して気を失うのも当然じゃない! それに何!? さっきから一人で訳分かんないことばっかり言って、挙句の果てにスパの中をあんなにメチャクチャに壊しちゃって! あの後始末、一体どーするつもりなのよ!」
「そんなこと俺が知るわけねぇじゃん」
理子に突き飛ばされたせいで体勢を崩したコウはベッドの上で胡坐をかくと、まったく悪びれる様子も無くあっさりと答える。
「なっ……、バッ、バッカじゃないの!?」
胸がはだけないようにバスローブの前をしっかりと押さえ、理子はコウに向かって勢いよく人差し指を指した。
「知らないじゃ済まされないでしょ! それにさ、自分のことは大っぴらに出来ないんだってコウは前に言ってたじゃないっ!」
「ったく、さっきからぎゃぁぎゃぁうるせー女だな!」
自分が言葉を発するたび、怯むどころかすかさず言い返してくる理子に業を煮やしたのか、コウは緩めていた首元のネクタイに手をかけて引きむしるように外し、後方に投げ捨てる。
「あれぐらいのことなら武蔵が何とかするっつーの!」
「あ!!」
会話中に突然名前が出たために急に武蔵の事を思い出した理子は、部屋の上空をぐるりと見回し、勢い込んで叫んだ。
「武蔵! どこにいるのよ! 早くこの無頼漢を何とかしなさいよっ!!」
「おい、なんでお前が武蔵を呼ぶんだよ?」
解せないような顔で放たれたコウの質問に対し、只今激怒中の乙女はすかさずの怒号で答える。
「ちょっと! 気安くお前って呼ばないで!」
「いいじゃん。お前は俺の女だろうが」
「かっ勝手に決め付けないでよっ! ねぇ武蔵! 武蔵ってば! どこにいるのよ! 超ピンチなんだからさっさと出てきなさいよーっ!」
「武蔵ならここにいるじゃん」
コウはベッドの上に投げ捨ててあったスーツの上着を手に取ると、内ポケットをまさぐり、そこから唐草模様の電脳巻尺をかざして見せた。
「あっ武蔵!」
「ほらよ」
と言うと、コウは手にした武蔵を間髪いれずに理子に向かって軽く放った。
「えぇっ!?」
いきなりで一瞬慌てはしたが、運動神経の良い理子はなんとか両手で電脳巻尺をキャッチすることに成功する。だが手にした瞬間、理子は武蔵のはっきりとした異変に気付いた。
「……むさ、し……?」
手の中に包み込んでいる電脳巻尺はひんやりとした感触で、しかも一切の音を発していなかった。
「言っとくが今そいつを呼んでも無駄だぜ? 回路を全部切っちまってるからな」
コウは驚く理子の表情を心底楽しんでいるかのような声で即答する。
一方、沈黙する武蔵を手に、自分が完全に絶体絶命状態に追い込まれた事を知った理子の声には微かに震えが混じり始める。
「もっ、もしかしてコウが切ったの……?」
「あぁ。前回は武蔵に邪魔されたからな。同じ轍は二度と踏まねぇよ」
ベッドのスプリングが再び大きく軋む。冷たい笑みを浮かべたコウがにじり寄ってきたせいだ。
「潔く観念するんだな、リコ」
( ―― どどどどどどうしよう!?)
少女の貞操の危機は今まさにクライマックスだ。バスローブを押さえる細い二の腕に、知らず知らずの内に力が入る。
援軍その1(=金ピカマーライオン像)も、援軍その2(=電脳エロ巻尺)も、全くもって役に立たず、現在の自分の戦闘装備といえば、この白のバスローブを申し訳程度に貼付しているだけである。これでは乙女の貞操をかけた戦闘に勝利するどころか、ピンチを自力突破することさえほぼ不可能だ。
「リコ」
考えがまとまらない中であっという間に目前にまで来たコウに両肩を掴まれる。
「やっ…!」
無駄だと分かりつつも理子は抵抗した。そしてまた怒声を浴びせられる、と思った矢先、
「いいからおとなしくしろ。そして聞け」
意外にも返ってきたのは感情を極限にまで抑えた静かな声だった。