SPA Panic! <5>
『あぁ~ん♪ もうサイコーに気持ちいい~! カラダの中心が溶けちゃいそう~!!」
大きな浴場内に軽やかに響く、なんとも悩ましげな女の声。ここは新規オープン間近のスパ施設、“ 天女の里 ”だ。
「……ちょっと真央。なんか今の言い方、ミョーにエッチなんだけど?」
たった今親友が放ったこの嬌声に、理子は湯船に浸かりつつ呆れたような表情で呟いた。すると真央は湯の表面に撒かれているバラの花びらの一枚をつまみ、屈託のない笑みを見せる。
「えぇ~? そっかなぁ~? だってあまりにも気持ちいいんだもん! 理子はこのスパ気に入らないの?」
「ううん、そんなことないけどさ……」
そう口中で呟くと理子は浮かない表情で身体を顎の下まで湯船に水没させた。
……が、どういう姿勢を取っても目の前にいる真央の大きな胸がドンと視界に入ってくる。
真央の胸が大きい事は以前から分かっていた。
だがいざこうして超至近距離で、しかも何も着けていない状態の生バストを直に見てしまうと、少々ボリュームに欠ける自分の胸にどうしてもコンプレックスを持ってしまう。
( ……私も真央ぐらい胸があったらなぁ…… )
ブルーな気持ちになった理子は大理石風呂の中で一つため息をつき、真央から視線を逸らした。すると、今度はすぐ横にいた金ピカのマーライオン像が「待ってました!」とばかりに視界に飛び込んでくる。
鋭い目つき。
靡くたてがみ。
そして大きく開けた口元にはキラリと光る鋭い金牙が四本。
なかなかに勇ましい表情ではあるが、そこから勢い良く吐き出しているのが乳白色の湯、というアンバランスさが妙におかしい代物だ。
ここでふと悪戯心が起き、理子は激しく溢れ出る乳白湯の勢いに逆らってマーライオンの口元に手を入れてみた。するとたちまちかなりの水圧が片手にかかり始め、かなり心地いい。
「ちょっと真央、見て見て! こうやったらまるで水流でマッサージされてるみたい!」
理子は思わず声を上げて後ろを振り返った。はしゃぐ理子に促され、ハンドタオルで胸元を軽く押さえながら真央が近くに寄ってくる。
「ねぇ理子、私今ちょっと思ったんだけどね」
「なに?」
「なんかそのライオンさん、あの人に少し似てない? ほら、そのたてがみの辺りとか特に」
「へ? あの人って?」
「だから、たぶん理子のことが好きなあの赤い髪の男の人っ」
「ハァ!?」
いきなり真央がコウの話題をまた出してきたため、焦った理子の片手がマーライオンの口から勢い良く吐き出される。
「あの人、なんか気になるのよね。理子も名前くらい聞いておけば良かったのに」
「き、気になるって……!?」
「あ~、理子ってばもしかして心配した?」
真央は理子の表情を見て心底おかしそうにクスクスと笑う。
「大丈夫よ、私は桐生先生一筋だから。気になるっていうのはそういう恋愛対象的な意味じゃなくってね、なんていうか……、そう、興味があるの! だってあの人、どことなくミステリアスなところがあったじゃない?」
それに笑顔も優しそうで素敵だったしね、と真央は暢気な声で付け加えた。
── 異変が起きたのはその時だった。
隣接されている男子浴場から何かを叩きつけるような物凄い音が響き、同時にどよめき声が聞こえてくる。
「真央っ、今の音、何だろ!?」
「扉を開ける音…かなぁ? でもガラスが割れたような音も聞こえてこなかった?」
「うん! 聞こえて…」
浴場の壁が割れんばかりの怒声が響き渡ったのは、理子がこの言葉をすべてを言い終わらない内だった。
「どこにいやがる浮気女っ!!」
ガンガンにエコーが効きまくっているその怒声に聞き覚えがあった理子の顔面が一気に蒼白になる。
「まっ、まさかあの声は……!?」
「えっ理子、あの声の人知ってるの!?」
「しっ、知らない! 知らない!」
理子は顔の前で両手を大きく振って真央の言葉を全力で否定したが、その必死の行動も空しく、無常にもスパ内に自分の名前が響き渡る。
「おいリコッ!! 返事をしろっ!! いるのは分かってんだっ!!」
「……えーと、なんか理子のこと呼んでるみたいだけど?」
真央が不思議そうな表情で何度も瞳を瞬かせながら理子の顔を覗き込む。
「ちっ違うよ! 人違い! 人違いだってば!!」
「おいテメェ! リコはどこだ!? 言いやがれっ!!」
間髪いれずまた隣の浴場から怒号が轟く。どうやら手近の人間を捕まえて問い詰めているようだ。
「おおおおおおおんな湯はそそそそっちですけど……」
と脅えきった弱々しい声が聞こえてきた。その瞬間、理子の “ 脳内危険感知警報 ” が最大レベルで鳴り響く。
慌てた理子が湯船から立ち上がろうとすると、先ほどよりも大きな轟音が響き、女子浴場の壁の一部がまるで雪崩のように一気に崩れ落ちた。
「キャ──ッ!!」
この異常事態に浴場内にいた女性達の悲鳴が響き渡る。そしてぽっかりと空いた空間の先には怒りに身体をみなぎらせた赤髪の男が立っていた。湯気で曇ったために外したのか、眼鏡はもうかけていない。
「あっ理子! あの人だよ!?」
コウの姿に気付いた真央が真っ先に叫ぶ。その声が届いたのか、コウは理子と真央がいる方角へ素早く赤い瞳を向けた。
「……そこにいやがったか」
コウは押し殺したような声でそう言い捨てると、躊躇無くスーツに革靴のままで大理石風呂の中に入り、湯を蹴散らすような勢いで真っ直ぐ理子の方に向かって進み始めた。
途端に湯の中に使っていた女性達はそれぞれ小さな叫び声を上げ、コウの進行を妨げないよう、脅えながら全員端の方に一気に移動する。するとその光景を理子の横で見ていた真央が、
「わぁすごい、まるで十戒のワンシーンみたい……!」
と感動したように独り言を呟いた。
「ちょっ、真央ってばなに呑気なことを言ってんのよ!?」
湯船から立ち上がりどちらの方向に逃げようかと迷っていた理子は、真央の天然さに思わずツッコミを入れる。しかしそのおかげで逃げるタイミングを失い、怒りに我を忘れたコウが目の前に立ち塞がってしまった。
「ちょっ、ちょっと! 近くに来ないでよ!!」
理子はマーライオンの首をコウのいる方角にグイグイと必死に押し、今の自分に出来る精一杯の抵抗を試みる。だが残念な事に、頼りのマーライオン像は澄ました顔であらぬ方向に乳白湯を吐き出し続けるだけで、とても理子の援軍になりえる代物では無かった。
目指す標的の目前で足を止めたコウは、怒りを内包した冷たい視線で上から理子を見下ろし、低い声で言い放つ。
「リコ……お前、いい度胸してるな」
コウの形相は、その身体に纏いつく浴場内の大量の湯気が、まるで激怒のオーラかのように錯覚してしまうほどの凄まじいものだった。その形相に気圧され、ハンドタオルを身体の前面に当てているだけの理子は慌ててまた湯船に身を沈める。
「なっ、なんのことよ!?」
「……お前、俺にはあれだけ拒んだくせに、ここで不特定多数の男とヤるつもりだったんだろ? ……ふざけやがって。覚悟は出来てるんだろうな……!?」
「ハ!? 何言ってんの!?」
「うるせぇっ!!」
コウはたった今自分が出てきた男子浴場の方角を顎で指し示し、乱暴に首元のネクタイを緩めると再び荒々しい声に戻った。
「しかも男はほとんどジジィばっかじゃねぇか! お前はそういう趣味でもあんのか!?」
「だから何を言ってるのか分かんないってばっ!!」
「とにかくここまでコケにされて黙っちゃいられねぇ。行くぞ」
「い、行くぞってどこに…ひゃぁっ!?」
湯の浮力のおかげで元々身体の重力感はあまり感じていなかったが、理子はさらに自分の身体が軽くなったような錯覚を覚えた。コウの手によってあっという間に湯船から引き上げられたためだ。
「やっやだ!! 何するのよ! 離してよ!!」
そう強気に叫べども、理子の身体に巻きつけられた二本の腕の力は決して緩まる事はない。
コウの前で半裸を晒す羽目に陥っている理子はその後も「コウのエッチ! スケベ! 出歯亀! ヘンターイ!」などとあらゆる蔑視の言葉を叫び続けた。だが殺気立つコウはそれを意にも介さず、「黙れ」と言い捨てると喚く理子を胸元にがっしりと抱え、出口へ向けて素早く歩き出していた。