SPA Panic! <4>
「……では近々改めてお伺いさせていただきます」
「うん、楽しみにしていますよコウくん」
それが書斎での最後のやり取りだった。
理子の父、久住礼人がデスクライトを消して立ち上がる。
「じゃあ話もこれで終わった事だし、朝食を食べていきなさい。きっと理子ちゃんももう起きているだろうしね」
「は、はい……」
理子の名が出たのでコウの表情に影が差す。礼人は励ますようにまずコウの背を一度叩き、素早くその手をスライドさせて左肩に乗せる。
「大丈夫! ウチの理子ちゃんは昔から立ち直りの早い子ですから! だから後はコウくんがどれだけ理子ちゃんに今私に言ってくれたその誠意を見せられるかだね」
「はい……!」
俯いたまま、だがしかし熱っぽい口調でコウははっきりと答える。そして礼人よりも先にドアに向かうと、
「僕、ちょっと理子さんに今の話を説明してきます!」
と告げ、廊下に飛び出した。
二階へ上がろうと階段の方角へ足を向けると、玄関から戻ってきた弓希子が「蕪利さん、パパとのお話は終わったの?」と声をかける。
「あ、はい。今終わりました。……あ、あの……」
「どうしたの?」
「リ、リコさんはお部屋でしょうか……?」
「あら、理子ならたった今出かけちゃったわよ?」
それを聞き、「……そうですか……」と呟いたコウの表情に暗い影が落ちる。続いて書斎から出てきた礼人もその場に合流した。
「なんだ、理子ちゃんは出かけちゃったんですか。どこに行ったんだい、ママ?」
「クラスメイトの真央ちゃんと天女の里に行く約束をしてたんですって」
「天女の里?」
「ほら、今度新しくオープンするスパよ」
「あー、あそこですか! そういえば朝にCMで宣伝していたのを観たよ」
夫婦の会話を聞いていたコウが不思議そうな表情で尋ねる。
「……あのすみません、スパってなんでしょうか……?」
「やだ蕪木さん! あなた、スパを知らないの!?」
弓希子が驚いた声を出す。
「は、はい」
「もうね、すっごーく気持ちいいことを体験させてくれるところよ! 女にとって最高の快楽が得られるところね!」
その説明を聞いたコウの表情がますます不思議そうなものに変わる。
「最高の快楽……ですか?」
「そう! たまんないわよ~! しかも今回理子はタダみたいだしね! 私も一緒に行きたかったわ~! そうだ! 蕪利さんを今度連れて行ってあげる! 私と一緒に行きましょうよ?」
途端に大仰な咳払いの音がした。
「あのーそれよりママ、少々喉が渇いたんですけど……」
完璧に拗ねたような表情で声で礼人が口を尖らせる。
「はいはい。あなた達、随分長い間話していたものね。じゃあ二人ともリビングで待ってて。今持っていくから」
「ママ、私も手伝うよ。あ、コウくんはリビングで待っていてくれるかい?」
「分かりました」
一人久住家のリビングに入ったコウは、ソファに腰を落とすことなく真っ直ぐに朝日の差し込む窓辺の方へと向かった。そしてスーツのポケットからいつも肌身離さず携帯している 【 東方行事艶語録 】 を取り出す。
「……何してんだ、コウ?」
スーツの内ポケットに待機していた武蔵が音量を最小限にして囁く。
「調べ物です」
と短く答え、かけていた眼鏡を一旦外すとセピア色に変化しているページをせわしなくめくり始める。指が動くスピードが段々と遅くなり、やがて完全に止まった時、コウの表情が大きく和らいだ。
「…………ありました!」
「なに!? そいつに載ってたのか!?」
「はい!」
「お前が調べた単語がそいつに載ってたのって初めてじゃねぇか!? 初めて役に立ったな! ……で、なんて書いてあるんだよ?」
「ちょっと待って下さい!」
嬉しそうな声でそう答えたコウだが、ざっと黙読したその顔つきが今までの明るい表情から一転して険しいものに変わる。
“ SPA ” = 男が放蕩の限りを尽くすことの出来る施設として
建てられた風呂屋。女性は施設内で自らの体を
清められるが、その代償として男が入浴する際に
様々な手伝いをすることが義務付けられている。
待ちきれなかったのか、内ポケットの隙間から小さく顔を出し、SPAの該当文章を読んだ武蔵が感心したように言う。
「……ほぉ、なるほど! 要はスパってのは淫蕩場のことなのか! ハハッ、男にとっちゃ、なかなか楽しそうな所じゃねぇか、なぁコウ?」
「そっ、そんなことを言っている場合ですか、武蔵!!」
暢気な武蔵の物言いに、青ざめた表情のコウが下を向いて声を荒げる。
「一刻も早くリコさんをここから助け出さなくてはなりませんっ! 武蔵! “ 天女の里 ”というスパ施設の場所は分かりますねッ!?」
「バッ、バカッ!! 声を落とせってコウ! 子雌の親達に俺が見つかったらどうすんだよ!」
だがコウの耳に武蔵の言葉はもう届いていないようだった。本を乱暴にポケットに押し込み、再び眼鏡を素早くかけると、廊下へと続く扉に向かって足早に歩き始めている。
「おいコウ! 少し落ち着けよ!」
「これが落ち着いていられますかっ!」
「なぁ待てって! 子雌は自分からここに行ったんだろ? じゃあよ、あいつも男にそういうサービスをすることを分かっていて行ったんじゃねぇのか?」
「いえっ! リコさんかきっとそこがどういう場所なのか知らないで行ったに違いありません! そうに決まってます!」
「でも考えてみろよ? 子雌の母親もよ、さっき子雌がそこに行くのを羨ましがってたじゃねぇか。 もし子雌がその淫蕩湯の実態を知らなかったらよ、親なら普通は止めるだろ?」
武蔵に鋭い所を衝かれ、コウは一瞬言葉を失う。
「……た、確かにそうですが……」
「だからほっとけばいんじゃねーの?」
「だ、駄目ですっ! それだけは絶対に!!」
そう強く言い放つとコウはノブを握り、勢いよくリビングの扉を開けた。するとちょうどそこへ礼人と弓希子が戻ってきた所に出くわす。
「おや、コウくんどこに行くんだい?」
「あっあの、僕、用事を思い出しましたのでこれで失礼します! 例の件ではまた改めてご挨拶に伺いますので!」
「おいおい、ちょっと待ってくれよコウくん」
二人の脇をすり抜けて出て行こうとしたコウを礼人が引き止め、弓希子が手にしているトレイの上を指差す。
「せめてこれを飲んでからでもいいだろう? 今日は私の一押しの紅茶を淹れたんだよ。だから行くのならこれを飲んでからに……」
「いただきますっっ!」
コウはそう叫ぶとトレイの上からひったくるようにカップを奪い、その場で一気に飲み干した。そしてやや乱暴に受け皿に戻す。
「ご馳走様でした! ではまたあらためて伺いますので!」
「コ、コウくん?」
「失礼します!!」
唖然とする礼人と弓希子を残し、外へと飛び出したコウは上着に向かって叫ぶ。
「さぁ武蔵! 詳しい場所を教えて下さい!」
「ちょっと待てって。今データを引き出してるからよ……」
「早く!!」
「でもよー、子雌が行きたくて行っているんだから俺は余計な世話だと思うんだがなぁ……」
「いいから早くして下さいっ!」
「へーへー。じゃあまず右に曲がって五百メートル直進な」
「了解!!」
「あまり飛ばしすぎんなよ?」
「分かってます!!」
天女の里に向けてコウは走り出した。
── あぁリコさん、僕が行くまでどうか無事でいて下さい……っ!!
なんとか冷静さを保とうと必死になるものの、焦る気持ちばかりが先走り、意思に反してこめかみ付近がどんどんと熱を持ってきている。自身の何かが変化しようとしている気配を脳内で感じた時、
( 止めてっコウ! お願いっ止めてぇっ! )
必死に抵抗する理子の叫び声が聞こえた。その声に昨夜の愚行を思い出したのか、コウの足が急に止まる。
「コウ、聞いてなかったのか? 次は左だぜ」
立ち止まってしまったコウに武蔵が再度指示をする。だがコウはそこに立ち尽くしたままだ。
「なんだよ、やっぱり行くのを止めんのか? まぁ俺はどっちでもいいけどよ」
その時、薄く開いたコウの唇の隙間から小さなうめき声が漏れた。そして前傾しかけた自らの上半身を支えるために傍らにあった電柱に手をつく。
「おいコウ? どうかしたのか?」
「リ…コ……さ……」
反対の手で額を押さえ、コウは喉の奥から搾り出すような苦しげな声で理子の名を呼ぶ。その時武蔵は自分の主人の脈拍がおかしなリズムを刻んでいることに気付いた。心拍数を急いで計測した武蔵のレッドランプが激しく点滅を繰り返す。
「コウ……お前まさか……?」
大きくうなだれたコウの口から、今度は荒い息が漏れ出した。荒い呼吸を繰り返すたびに両肩が激しく上下する。
ようやくその息遣いが収まった頃、額から手を外したコウがゆっくりと顔を上げた。
「……武蔵、次は左だな?」
低い声で、力強く復唱し、コウは真っ直ぐに前を見据える。
だがその瞳はわずかだが赤く染まり始めていた。
── その頃。
久住家のリビングでは礼人と弓希子がソファに腰を落としていた。
「いい香り~! でも結局全部パパにやってもらっちゃったわね!」
「いえいえ、これぐらいなんでもありませんよ」
ここで少しでも自分の株をあげようと、礼人は弓希子に向かって鷹揚に微笑んでみせる。
「私はいつも家にいないんですから少しでもママのお役に立ちたいんです」
「さすがはパパね! ねぇそういえば蕪利さんってば、さっきあんなに慌ててたけど一体どうしたのかしらね?」
「何か用事でも思い出したんじゃないですか? でもまさかコウくんがこれを一気に飲み干すなんて思いませんでしたよ。ここで話でもしながら二人でゆっくり飲もうと思ったんですがね……」
「でもまたすぐ来る事になるんだからいいじゃない」
そう言って紅茶を一口飲んだ弓希子は思い切り顔をしかめてカップを受け皿に戻した。そして向かいで湯気の上がる紅茶の香りに目を細めている夫に、呆れた顔で告げる。
「ちょっとパパ!」
「なんです?」
「香り付けとはいえ、これはいくらなんでも入れ過ぎ! これじゃ紅茶じゃなくてブランデーをそのまま飲んでるようなものじゃない!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おいコウ、お前まさか……」
自分の主人の変化に気付いた武蔵が慌てた音声を発したが、コウはその言葉を遮り、
「次は左だな、武蔵!?」
と怒りの入り混じった声で繰り返す。
「なんでお前いつの間に本能化してんだよっ!?」
「いいから次の指示をしろ武蔵っっ!!」
「…………」
上着の内部が青色に光った。
中で武蔵のブルーランプが数秒間点灯したままになっているせいだ。その黙考のサインを出し終わった後、武蔵が静かに尋ねる。
「……なぁ、お前も子雌の所に行くつもりなのか?」
「当たり前だっ!!」
即座に鋭い視線が胸元に落ちる。
「あいつは俺の女だぞッ!?」
数秒間、内ポケットが再び青に染まった。
そして「……次は左に四百だ」 と武蔵が次の音声を発した瞬間、コウは無言で先ほどよりも更に早いスピードで走り出した。
「コウッ、いくらなんでも飛ばしすぎだ! 少し抑えろ!」
常人で出せるレベルを超えそうなそのスピードに、慌てた武蔵が諌める。だがそれに逆らうようにコウは更にスピードを上げる。
もう周りの景色など何一つ見えていなかった。
強引に車道を横切る度にけたたましいクラクションや怒号が浴びせかけられたが、不必要な情報はすべて遮断し、ただひたすらに走り続ける。
苛立ちで強く握り締めた両の拳に青い静脈がくっきりと浮かび上がり、強く噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。
「……俺にはあれだけ抵抗したくせに他の奴にはヤラせんのかよっ……!」
鋭い目つきで呟くその瞳が瞬く間に赤く染まり始めてゆく。
どこまでも、血のように。