SPA Panic! <3>
( ……部屋の中に誰かいるの? )
ベッドの中でそんな気配を感じ、理子は目が覚めた。
カーテンはすべて開けられ、部屋の中には朝の光が充満している。
まだ寝足りないせいで両瞼はとても重かったが、とてもいい夢をみた後のように気分は爽やかだった。
ぼんやりとした視界の中に誰かの背中が見える。
軽く目をこすりベッドから起き上がると、熱心にクローゼットの中を漁っている人物が誰なのかが分かり、思わず叫ぶ。
「お、お母さん!? そこで何やってんのよ!?」
「あぁ理子、やっと目が覚めたの。もういい加減に起きたら?」
弓希子は後ろを振り返り呑気にそう答えたが、クローゼットを漁る手は止まっていない。その手にはコウ特製のレインボーブラの数々がしっかりと握られている。
「それっ……! な、なんで私の下着を漁ってんの!?」
「だぁってー、このブラすっごく素敵なんだもの~!! ほら、見て見て理子! 特にこれなんか最高! 超あたし好み~!」
まったく悪びれる様子も無く、弓希子はシフォンで作られたパープルのブラを手にすると自分の胸に当ててみせる。
「このブラ、蕪利さんが作ったんでしょ? 素敵よね~!」
「あっ!」
コウの名前が出てきたので理子は慌てて自分の隣に視線を移す。
( ……コウ、いない…… )
隣に寝ていたはずのコウの姿は消えていた。
クローゼットにかけてあったスーツも、床に置いてあった革靴もすべて消えている。
机の上にいた武蔵ももちろんいなくなっていた。
( そっか、見つかる前に帰ってくれたんだ! 良かった…… )
家族に知られる前に二人が帰ってくれた事に理子は安堵する。
「それより理子も早く朝御飯食べちゃってよ。片付かないから」
「う、うん」
ベッドから降り、クローゼットから服を出して着替え始めた理子の横で弓希子が薄笑いを浮かべる。
「それとももしかして理子も食欲無いの?」
そんな母の意味深な表情と不可思議な質問に、服を着ようとしていた理子はキョトンとした顔で「えっ何それ? どういう意味?」と問い返した。
「だって蕪利さん、今朝あまり食欲が無いみたいだから」
理子の手からハンガーが音を立てて落ちる。
「……ハ!?」
「せっかく一杯作ったのに要らないって言うのよ。それとも蕪利さんって元々朝はあまり食べられない人なの?」
「……まっまさかコウ、今ウチにいるの……!?」
青ざめた顔で恐る恐る尋ねた理子に、弓希子は腰に手を当て、わざと大きく頷いてみせる。
「えぇ、いるわよー? 朝にね、“ おはようございます ” ってすごく神妙な顔で下に降りてきたわ」
「エエエエエエエエェェェェェ――ッッ!?」
床から拾ったハンガーが理子の手の中でミシリと音を立てる。
( ―― なななななにやってんのよ あの男はぁぁぁぁっっ!!!)
「それにしても理子、あんた昨日はスゴかったわね~!」
次はモスグリーンのブラに手を伸ばし、またニヤリと弓希子が笑う。
「夜中に蕪利さんが帰った後、寝る前にお化粧を落とそうと思って廊下に出たらさ、二階からあんたの叫ぶ声が思いっきり聞こえてきたわよ。『 いたあぁーいっ!!』 って」
「……なっ……!!」
( ―― そ、それって武蔵に頬を引っ張られた時のことだーっ!!)
またしても弓希子にとんでもない誤解をされ、理子の顔が真っ赤になる。
「ちっ、違うのお母さんっ! 誤解よ! あれはね、エロ巻ッ…………」
武蔵に頬を引っ張られたからだと言いかけたが、たぶん言っても信じてもらえないと思った理子は後の言葉を飲み込む。
「何? エロチックがどうしたの?」
「違ーう! エロチックじゃないってば! とっ、とにかく! あれはそーゆー意味で言ったんじゃないのッ!!」
すると弓希子はホホホホと女王のような高笑いをし、その後で力強く宣言した。
「まぁ最初はちょっと辛いかもしれないけどそのうち慣れてくるから安心なさい! ……っていうかね、その内それが無いともう生きていけなくなっちゃうんだからっ! お母さんが保証するわ!」
( ……ダメだこれは……何を言ってもまた泥沼になるパターンだよ…… )
頭を抱える理子の横で弓希子の話は続く。
「でね、さっきの話の続きなんだけどさー、蕪利さんたら下りてくるなりいきなり、パパに『折り入ってお話があります』って言い出してね、まだ二人とも書斎から出てこないのよねー。……もしかしてお酒の勢いで理子に夜這いかけちゃった事でも謝ってんのかしら? でもさ、もうあんた達は我家公認のお付き合いなんだから、そんなの別に気にしなくていいのにね~! なんか真面目よねー、蕪利さんってさ!」
「こっ、公認って……!」
── 朝から強烈な眩暈がしてきたが、むろん極度の睡眠不足からくるものではない事はいわずもがなだ。
「ねぇねぇ蕪利さんのブラってどれも本当によく出来ているわよね! 大胆なデザインの中にも繊細さがあってさ! 理子、ママも蕪利さんにブラ作ってもらいたいんだけどさ、頼んでもいい?」
「えぇ──っ!?」
プラスチック製のハンガーにとうとうピシリと小さなヒビが入る。
「ダッ、ダメダメダメダメ!!!! 絶対にダメーッ!!」
反射的にそう叫んでいた。そして我に返り、思わず必死に拒否してしまった事に頬が染まる。そんな娘の反応に満足したのか、弓希子の顔にまた例の如くニヤリと意味深な笑みが浮かんだ。
「ハイハイ、分かってるわよ。あんたの初の彼氏、取りゃしないから安心しなさい。……さ、もう十時になるわよ。早く下に来てゴハン食べなさいよ」
「はーい…………エ!? 十時!?」
理子は慌てて壁掛け時計に目をやる。非情にも針は九時四十二分を指していた。
「たたたた大変っ! 早くしないと真央を待たせちゃう──っ!」
「あら、真央ちゃんと何か約束してたの?」
「十時に “ 天女の里 ” で待ち合わせしてるの! お母さん、私着替えたらもう出かけるからやっぱり朝ゴハンいらない!」
「天女の里? あぁ! 今度新しく出来るスパね? でも確かOPENは明日のはずよ?」
「大丈夫、真央が招待チケット持ってるから! それよりお母さん、ちょっとそこどいて! 急がないと遅刻しちゃうっ! 」
クローゼットの前にいた弓希子をどかせ、急いで服を着た後、昨夜準備しておいた入浴グッズをバッグに入れる。小走りで一階の洗面所に下りると洗顔をすませ、玄関先まで走った。
「ねぇ理子、何時に帰ってくるの?」
後をついてきた弓希子がのんびりと尋ねた。スニーカーに片足を突っ込みながら早口で答える。
「分かんない! いつまでそこにいるかまだ決めてないから!」
「蕪利さん、引き止めておいた方がいいわよね?」
「い、いいってば! 帰しちゃってよ!」
「だってまだ書斎から出てきてないみたいよ? 話が随分長くなってるみたいだから重大な展開になってそうな雰囲気がするんだけど」
「いいの! いいから帰ってもらって!」
そうつっけんどんに言い返し、急いで家を飛び出した。時間がないので自転車で向かうことにする。親友との待ち合わせに遅れないように必死に自転車を飛ばすと、口から漏れる息が寒気で瞬く間に白く染まり、頬を軽く撫でて空へと昇っていった。
( ――まったくコウってば何考えてんのよ! それにあのエロ巻尺もッ! 後でまとめてガツンと怒ってやらなきゃ!)
力一杯ペダルを漕ぐ度に、それに比例して怒りが蓄積される。スパの帰りにコウの家に寄って文句を言おうと決意した理子は、ペダルを踏みしめる両足に更に力をこめて真央の待つスパ施設へと先を急いだ。