SPA Panic! <1>
「何か言ってあげなさい まだ聞こえているよ」
少年の側にいた一人の男が小さな肩を叩き、低い声で囁くように言った。そして小さく震えだした少年の両肩を労るようにさする。だが皮肉な事に慈悲の気持ちでかけたその言葉は、血の気の無かった少年の顔色をさらに無くしてゆく手助けをしていることに男は気付いていない。
「最後に何か言ってあげなさい」
男は先ほどよりもやや声に力を入れる。しかし少年の下唇は固く噛み締められたままだ。「さぁ」ともう一度男が促すと少年は無言で両耳を覆い、その場にしゃがみこんだ。
強く目をつぶり、しっかりと耳を塞ぎ、すべてから逃げようとしているその態度に怒りを覚えたのか、男はやや強く少年の腕をつかみ、再び立ち上がらせる。
「ほらお母さんが君を見ているよ。これ以上心配をかけるんじゃない」
それを聞いた少年はハッとした表情で目を開いた。同時に少年の両肩にあまり血色の良くない十の細い指が食い込み、小さな体を強引に右に捻る。
体中の隅々を様々な幅の導線で覆われている一人の女性がそこにいた。その中で一番広幅なコードは真っ赤な色をしている。少年の瞳にはそれが女性の命すべてを吸いつくしているように映った。
横たわる女性はわずかに顔を斜めに向け、少年を静かに見つめている。ほとんど瞬きもせずに赤い髪の少年を見つめているその二つの瞳は未踏の泉のようにどこまでも澄んでいた。
だが自分を見つめるその済んだ瞳を見た少年の表情に、たちまち恐怖の色が浮かび上がる。恐怖は震えを呼び、その震えはすくんだ足元から全身、下から上へと瞬く間に侵食する。足の震えが両肩にまで到達した瞬間、少年は男の手を振りほどき、その場から逃げ出した。
逃げてもすぐに掴まる事は分かっていた。だがそれでも少年は走った。
やがて左肩の刻印が反応を始める。
―― 追跡が始まっている証拠だ。
少年は絶望的な目で蒼く光り出した自らの肩口に視線を落とす。
時間にしてあとわずか数分後だろう。捕獲され、また閉じ込められてしまうのだ。苦痛以外の何もないあの場所へ。
自分を追ってきた大勢の足音が鼓膜に届き出す。
戦意を完全に失ってしまった少年は走るのを止めてその場にガックリと膝を着いた。そしてもうどうにでもしてくれというように床にうつ伏せに体を投げ出す。
一人ぼっちになってしまった自分。
もう誰も助けてくれることは無い。 ────永遠に。
目頭が熱くなってきたのを感じた少年は鼻が潰れそうなほど床に強く顔を押し当てた。
泣いちゃいけない。泣いちゃいけないんだ。お母さんと約束したから──。
「毎度毎度手間かけさせんなよ」
鋭い風圧。後方から追ってきていた男達の一人がシルバーアッシュの髪をかきあげて忌々しげに吐き捨て、床に倒れ伏したままの少年の腹に鮮やかな蹴りを入れる。腹にめり込んだその一撃に耐えかねた少年の口から小さなうめき声が漏れた。
即座に「手荒な真似をするな」という静かな中にも怒りを含ませた声が響く。先ほど少年の側にいた男の声だ。
行為を咎められた若い男は周囲に聞こえないように小さく舌打ちをすると後ろを振り向いた。そして左の手を男に向かって大きく広げる。
「じゃあこっちならいいんでしょう、先生?」
「……あぁ。体に傷がつかなければね」
「了解」
銀の髪をなびかせた男の口元に残忍な笑みが浮かぶ。そして少年の耳元に顔を近づけると「じゃあな、GoodBoy」と低い声で呟いた。
少年の細い首筋にひんやりとした手が当てられた時、小さな体の中心に焼け付くような熱い衝撃が走る。意識が一気に闇に引きずり込まれる直前に赤い髪の幼い少年は心の中で必死に謝罪の言葉を叫んだ。
── 僕のせいだ。僕のせいなんだ。ごめんなさい、お母さん。
僕のせいでお母さんがあんなに苦しむ事になったんだ。
お母さんの言ったことは全部守る。絶対に守るよ。
だからお願い、僕を許して──
そして少年はそのまま気を失ってしまった。