Bloody Hands <4>
理子はあらためて気付かされる。
コウがそこまで自分を想ってくれていることに。
“ いつまでも待ちます ”
そう紳士的に言ってくれたのとは裏腹に、内面ではこれだけ激しく欲していたことに。
( いえ僕は本気です 本気で貴女が欲しいんです )
弾かれたように立ち上がったコウが、理子に告げてきたあの言葉。
あれはつい出てしまったコウの偽らざる本音だったのだろう。
呼吸をしたくてもなぜかうまく出来ない。自分の周囲にだけ酸素が消失しているような錯覚がした。
もう一度コウを見下ろす。数分前よりもさらに柔らかい寝顔になっている。
いつものコウだ。間違いなく、この人はコウだ──。
理子のすぐ横でからくり時計の二人の天使がガラス筒の空間をまた楽しそうに飛び回り始めている。
少女の決心は固まった。
「わ、分かったわよ。いいわよここで」
「おっ! やっと腹を決めたか子雌!」
ようやく降りた許可に武蔵のテンションが上がったので理子は慌てて牽制した。
「でっ、でも明日は朝早く帰ってよ!? お父さん達に気付かれないように!」
「了解、了解。じゃあ俺も寝るとすっかな」
「エェッ!? 武蔵って寝るの!?」
「あぁ。寝るっていうか省動力モードに切り替えるんだ。深夜はいつもそうしてる。でもその前に一つやっとかなきゃいけねぇことがあるな……。お前に頼んじまっていいか子雌?」
「何を?」
「コウのスーツ、シワになっちまうからかけてやってくれよ」
「あ、うんそうだね」
それぐらいならお安いご用だ。
理子はクローゼットから空のハンガーを取り出し、床に投げ捨てられていたスーツの上着とコートを拾い、それにかける。
「はい、これでいいでしょ?」
「おいおい、まだあるだろ子雌」
「は?」
「基本中の基本だろうが。それぐらい学校で習わねぇのかよ?」
「だから何をよ?」
「“ スーツは上下で一揃い ”。下のスラックスもかけろって言ってんだ。早くコウから脱がせろよ。出来んだろ、それぐらい」
「エエエ――ッ!?」
コウのスラックスを自分が脱がせる事を想像しただけで両頬が紅潮する。理子はぶんぶんと頭を振って抵抗した。
「でででででできるわけないでしょっ!」
「なんでだよ。ベルト外して脱がすだけだ。簡単だろうが」
「でっ、できないったらできないのっ! 脱がさなくてもいいよ!」
「だからシワになるっつってんだろ?」
「明日! 明日の朝アイロンかけてあげる! それでいいでしょっ!」
「あ~もういい、もういい。分かった分かった。じゃあいいや、それは俺がやるよ。……しかし破瓜期の生娘にも困ったもんだな。お前さ、やっぱり今夜コウに襲われてさっさと女になっちまった方が良かったんじゃねぇか?」
「ななっなに言い出してんのよ! エロ巻尺ッ!」
「へーへー。エロで結構。ま、俺に限らず男は皆そういう生き物だがな。じゃあシャツを脱がすのだけ手伝ってくれよ」
武蔵はうつ伏せのコウに近づくとメジャーテープを胸部に巻きつけ、器用に仰向けに体勢を直すとそのまま一気に引き起こす。
「ほら子雌、お前背中を支えててくれよ」
「う、うん」
理子は急いでベッドに駆け寄り、コウの背中を押さえた。するとほどけた第二の手がYシャツのボタンを器用に外していく。
「子雌、今度は俺が支えているから頼む」
ガクリと頭を前に垂らして完全に意識を失っているコウの胸部に再びテープが巻きつけられ、ピンと上部に張り詰められる。理子はコウの両腕からそっとYシャツを抜いた。細身ながらに筋肉質な上半身が白い薄手のTシャツからかすかに透けて見える。
「よーし、お次はこっちだな」
仰向けに寝かせたコウのベルトに武蔵が手を伸ばしたので理子は慌てて目を逸らし、ベッドに背を向けた。
カチャカチャとベルトのバックルをいじる音が背後から聞こえてくる。何度か衣擦れの音がした後、「ほら子雌」と理子に目掛けてYシャツとスラックスが飛んできた。顔を背けていたので頭からもろにかぶる羽目になってしまった。
「ひゃぁっ!?」
「さっさとかけろ」
「わ、分かったわよ!」
Yシャツとスラックスをガシッと掴み、それらをハンガーにかけに行く。そしてベッドに背を向けたままで「武蔵! ちゃんとコウに布団かけてよ!?」としっかりと念を押した。
「あいあい、了解」
背後でごそごそと羽根布団が動いている音がする。コウの身体の向きの最終調整をしながら武蔵が「なぁ子雌」と理子を呼んだ。背を向けたままで答える。
「なに?」
「お前、今日コウにブラを貰ったろ? どうだ、最高だろ? コウの作るブラは」
「……うん。とっても良かったよ」
理子は素直に頷く。
全部のブラを試着させられ、その度にコウにフィット具合を入念にチェックされたのには死にたくなるぐらい恥ずかしかったが、確かに着け心地は最高だった。
「そうだろ? だから言ったじゃねぇか。コウの作るブラはマジで特級品だぜ? 伊達にマスター・ブラをやってねぇからな。……ところでコウはお前に何枚ブラを作ってた?」
「んっと、全部で七枚かな?」
「七枚もか……かなり無理したなぁ」
「え? それってどういう……」
理子はベッドを振り返り、今の言葉の意味を確かめようとしたが、まだ布団は完全にかけられていないようだったので慌ててクローゼットの方に向き直る。
「む、無理したってどういうことなの、武蔵?」
「コウの奴、昨日から全然寝てなかったんだよ。お前のブラを作るために徹夜でずっと作業をやってたからな」
「徹夜で……?」
あの色とりどりのレインボーブラを思い出し、胸が詰まる。
「あぁお前に一枚でも多くブラを贈りたかったんだろうよ。……ほら布団かけたぜ子雌」
「う、うん」
その言葉に安心してベッドに視線を戻した理子は絶句する。
「……ちょっと……それは一体なんの真似なのよ、武蔵……!」
仰向けだったはずのコウの身体は、武蔵によって横向きの姿勢にさせられていた。水色のシーツの上を左腕が真っ直ぐに伸びている。
「お前のベッド、横幅が狭いからな。少しでもお前らが楽に寝れるように配慮してやったぜ」
武蔵は開け放されていたカーテンを閉め、誇らしげに告げる。
「お前の枕をコウに使ったからさ、お前はコウの腕を枕にしろよ。そんでお互い向かい合わせに寝れば狭いなりに多少のスペースが出来るだろ? 見ろ、このナイスアイディア。そこらの主婦も裸足で逃げ出す収納上手な俺様に感謝しろ」
「なっ何が感謝よ──っ!」
これではコウに腕枕をしてもらうことと同じだ。「バカエロ巻尺ッ!」と続けて全力で叫ぼうとしたが武蔵はさっさと次の行動に移っている。
「さーてと、じゃあそろそろ寝かせてもらうぜ。お前も早く寝ろ。もう四時だぞ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
しかしその訴えを完全に無視し、理子の机の上を安眠場所に決めた武蔵は最後に「じゃあな」と理子に告げる。電子音が一度だけ鳴り、自らで殆どの電源を落とした武蔵は完全に沈黙した。
慌しい時間がやっと終焉を迎える。
部屋がシンと静かになったので急に寒さを感じた理子はおずおずとベッドに近寄った。
カーテンを閉じたせいで暗さを増した室内で、ぐっすりと眠るコウを前に理子はある一つの奇妙な事実に気付いた。
( なんなのこれ……? )
コウのTシャツの右袖口からほんのわずかではあるがかすかな蒼い光が滲んでいるのが見えたのだ。恐る恐るTシャツの袖口をつまみ、軽く上へ引き上げてみる。すると光は覗いた右上腕から発光していた。
コウの上腕部に目を凝らすとそこには解読不可能な記号のようなものが書かれており、それが闇に反応してうっすらと燐光している。武蔵を起こしてこの事を尋ねようかとも思ったが、先ほどのようにまた答えを濁されるような気がしたので思いとどまった。
ベッドに入る前にそっとコウの髪に手を触れてみる。
緩やかに伸びている長めの髪。
この髪が短かった頃、コウは両手をこの髪と同じ紅い色に染めてあんな恐ろしいことを幾度と無く繰り返していたのだ。完全に光を失ったあの瞳で。
「コウ」
小さく口に出して名前を呼んでみる。もちろん反応は無い。
腕枕用に伸ばされている左手にそっと触れてみる。やはり綺麗な手だった。
そっと五本の指を握り締めてみる。それでも反応はかえってこない。
ゆっくりと息を吐くと理子は手を離した。掛け布団をまくりあげてそろそろと中に入り、コウの向かいのスペースに身を縮めて潜り込む。
ずっと頭を乗せたままなら朝には痺れてしまうだろうと思い、せっかくの武蔵の計らいだが腕枕はやはり遠慮することにした。
アルコールの匂いに混じって微かにマスカットの香りがする。この香りを知ったのはまだほんの三日前のことなのに、なんだか懐かしさを覚えている自分が不思議だった。
小さなあくびを一つ。
俯いて目を閉じるとコウの胸に額がかすかに触れ、とくん、とくん、と静かな心臓の鼓動が伝わってくる。その音だけに意識を集中すると気持ちが凪いでゆく。
── もう初めて出会った頃の浮ついた気持ちは完全に消えていた。
そしてもっと心の奥底の部分からこの青年に強く惹かれ出してきていることを自覚し始めた理子は、その穏やかな鼓動を聞きながらやがてゆっくりと深い眠りの中に入っていった。