Bloody Hands <2>
微かに聞こえる一定の音。
分厚いガラス筒の中に小さな天使が二人配置された、机上のからくり時計の秒針が穏やかに時を刻む。
今、この静けさを取り戻した室内で他に聞こえた音といえば、喉が渇いていたわけではないのに理子がコクリと唾液を飲み込んだ音だけだ。
「……それでコウはお酒を飲んだの……?」
白い喉を鳴らした後、そう声に出して尋ねる。
「あぁ、結局コウはそっちを選んだんだ。お前を失わない方をな」
「……」
理子は無言で俯いた。
本当ならコウの選んだ選択は嬉しいはずだった。なのにこんなにも胸が痛む。
「武蔵」
「なんだ?」
「あ、あのね……」
理子の喉がもう一度鳴る。二度の唾液の嚥下でとっくに喉は湿っているはずなのに、次に出したその声はなぜかかすれていた。
「……コウは……、コウはお酒を飲んで暴走すると、さっきみたいに女の人を襲っちゃう癖があるのね……?」
あらためてそう口に出してみると悲しくて更に胸が痛んだ。
コウは今まで何人の女の人にあんなヒドい事をしてきたんだろう──。
言葉にしたことを後悔する。
「何だと!?」
久々にレッドランプが恐ろしいまでの勢いで急点滅した。もちろんこれは大激怒のサインだ。
「バッカだな子雌! お前、何勘違いしてんだよ! コウは女なんか襲わねぇっ!」
「だ、だって今現に……」
「だから違う! そう先走らないで話は最後まで聞けよ!」
飛び出した二本のメジャーテープの先端が理子の左頬を軽くつまみあげる。理子の口から「いふぁっ」と声が漏れた。もちろん本人は「イタいっ」と言ったつもりだ。
多少強引な手法ではあったが、とにかく理子を黙らせた武蔵は再び第二の手を素早く体内に収納する。
「いいか、よく聞け子雌。実は俺も驚いてるんだ。コイツが本能化するのは何度か見てきているが、今回のような行動を取ったケースは初めてだったんだよ」
武蔵の言っている意味がまだ理子には理解出来ない。
「初めてって……、じゃあコウはお酒を飲むといつもはどうなっちゃうの?」
武蔵は即座に答える。
「破壊行動だ」
── 破壊行動。
たった七文字の言葉なのに、その言葉の持つ力は強大だった。また背筋が寒くなる。
「それもとびっきり豪快にな。ハンパじゃねぇぜ。見るか?」
そう言うと武蔵はすぐにドア横の壁に向き直り、メジャーテープ収納口上部のレンズから、ある映像を映し出す。「見るか?」と問いかけたくせに理子の返事を待つ気は無かったようだ。
── 激しく亀裂の入った大小様々の瓦礫。
── あらぬ方向にぐしゃぐしゃに折れ曲がった膨大なパイプ群。
── 鋭利さをみなぎらせながら散らばる大量の硝子片。
白の壁紙に映し出されたそれはまさに惨禍の後というべき光景だった。
どこか血の色にも似た、淀んだ赤黒い夕日を背景にそれらの残骸が点在している。
元は立派な何かの建物だったと思われるが、今では急遽取り壊された廃工場のような有様になっていた。
手を浸せばいつまでもヌルヌルとまとわりつきそうなドロリとした真っ黒い液体が、あちこちで不気味な沼を作っている。そこかしこから立ち上る黒煙。息もできないほどの強い臭気がこちらにまで漂ってきそうな迫力だ。
「な、なにこれ……?」
「すげぇだろ? これ全部コウがやったんだ」
廃墟の跡地が大きくズームされる。
砕かれた建物の破片のあちこちでゆらゆらと煙雲が上がり、周辺一帯をうっすらと覆う汚濁な空気の中で、所在無げに一人立ち尽くしている赤髪の少年がいた。
「これ……もしかしてコウ?」
「あぁ。コウが十五の時だな」
「嘘!? この子、本当にコウなの? 信じられない……!」
“ 髪が赤いから ”、ただそれだけの理由で尋ねてみたのだが、武蔵が肯定しても理子にはそれがコウとは思えなかった。
幼いから、という理由ではもちろん無い。この少年が身にまとう、身体から滲み出ている雰囲気が理子の知っているコウとはあまりにもかけ離れていたからだ。
灰色の世界の中にゆらりと立つ十五歳の少年。
その横顔はあちこちが煙煤にまみれ、両手は自らの流した血で真っ赤に染まっていた。閉め忘れた蛇口のノズルから漏れ出す水のように、だらりと下がった中指の先から赤黒い液体が細く垂れ落ちている。
虚ろに宙を見上げているその両目には一欠けらの感情も浮かんではいない。
生気というものをまったく感じさせない、厭世観漂うその異様なシルエットは、今にも背後の紅い夕闇の中にその身体ごと溶けていきそうだった。
「この子がコウ……」
理子の口から信じられないという言葉が再びこぼれる。
凄まじい破壊行動を終え、ぼんやりと空を見つめるその先には何が見えているのか。
荒漠とした廃墟に一人立ち尽くす幼き日のコウは、まるで希望というものから一番遠い場所にポツンと佇んでいるようだった。
「……どうして……どうしてコウはこんな事をしたの……?」
優しくて紳士的なコウの隠された裏面を知り、そう武蔵に尋ねた声が少し震えていた。理子の脅えを察した武蔵は唐突に映像を切ると、慎重に言葉を選びながらその問いに答える。
「……不器用な奴なんだよ。何か辛いことがあってもそれを全部自分の中に黙って溜め込んじまう性格だからな……」
その言葉にハッとする。
( ……リコさん、貴女はなにか嫌な事があったらその事を親や友達、大切な人に話すタイプですか? それとも気分が晴れるまで自分の胸の中に閉じこめておくタイプですか?)
あの公園で “ 自分は時空転送者だ ” と秘密を打ち明けられる前に、コウから唐突に尋ねられた問い。あれはこの事を指していたのだろうか。理子が自分と同じタイプの人間かどうかを判断するために。
「でもよ、そうやって辛いことを溜めても、それをうまく昇華する術をコウは知らねぇんだ。だからこうやって何かのきっかけで爆発しちまう。もうこれは一種の自傷行為みたいなもんだ。目の前にあるものを徹底的に破壊してるんじゃない。コウはな、自分を痛めつけてんだよ。最後のエネルギーの一滴が完全に無くなるまでな」
言い訳のような武蔵の説明はまだ続く。
「だからコウは人を襲ったりはしない。ぶっ壊すのは主に建物だな。……そうだ子雌、お前、コウの手が妙に綺麗だと思ったことはねぇか?」
理子は強く頷いた。
それは出会ってすぐの頃から思っていた事だ。
「それはな、コウが今まで何度か暴走する度に両手を完全に使い物にならなくなるぐらいまでぐしゃぐしゃにしちまうからよ、その度に骨も肉も完全修復されて、培養された新しい皮膚にすべて変えられてるからなのさ」
毎回赤ん坊の肌にリメイクしているようなもんだよな、と武蔵が呟いた。
その時、からくり時計の天使達がそれぞれ二度浮き上がり、午前二時を告げる。
「だからな、驚いてるわけよ。今回のコウの行動にな。もし今までのように暴走したコウがこの街のどこかで破壊をおっぱじめれば即座に大事件になっちまう。なんたって素手で全部ぶっ壊しちまうんだからな」
「えっ素手で!?」
「あぁ」
「じゃあもしかしてさっきのも……?」
「そうだ。ちょいと詳しくは言えねぇが、コウの体の一部は身体改造されててな、常人には無い力が出せんだよ」
「どうして!? だってコウは女性下着請負人なんでしょ!? どうしてそんな事がされてるのよ!?」
「ほぉ……。子雌、お前なかなか鋭いじゃねぇか……!」
一瞬の間をおいて武蔵の二つのランプが互いに点滅を繰り返す。今の点滅は動揺のサインだ。
「……悪ィがそれも機密事項なんでいくらお前でもこれ以上詳しくは言えねぇ。勘弁してくれ」
早口でそう言い切ると、場を流すために武蔵は引き続き喋り続ける。
「ま、そういう理由でコウが酒を飲んじまった時、俺は半分覚悟してたんだ。ここで大掛かりな記憶操作をやらなきゃいけねぇってな」
「……パペット?」
「あぁ、暴走したコウが引き起こした建物の破壊は何かの別の理由で起きたっていう虚偽の理由を作ってよ、それをこの街の人間達の記憶にぶち込むのよ。こりゃあ一手間どころかかなりの大事になってたぜ。この街はそれなりの人口がいるからな」
「…………」
先ほど見せられた廃墟の映像が鮮明に蘇る。
気落ちした表情で俯く理子の様子に、武蔵もしばらく沈黙する。
静かに時は流れ、時刻が午前二時半を回り、二人の天使がくるりとお互いの位置を入れ替えた時、武蔵が再び音声を発した。
「なぁ、子雌」
「なによ?」
「……さっきから気になってたんだがよ、お前、いくら俺が機械だからってその格好は無いんじゃねぇか?」
「え……? あ!」
真下に視線を落とし、武蔵の言わんとしていることが分かった理子は慌ててオープンになっていた胸の谷間を両手で覆い隠した。
縛られていたネクタイを武蔵に外してもらった後、ベッドから逃げ出すことで頭が一杯で、コウに外されたパジャマの前ボタンが開けっ放しだったのだ。
「そんな貧相な胸を見ても俺は何とも思わないけどよ、そうまで無防備な格好をさらけ出されてるとそれはそれで面白くねぇんだよ」
「ひっ、貧相な胸で悪かったわねっ」
急いでボタンを留めながら理子は言い返した。だがまだ気持ちが沈んでいる状態なのでそれ以上の文句を言うことは出来なかった。
「お、怒ったか? でも安心しろ、子雌! そりゃあお前の胸は確かに小せぇさ。だが形や色は悪くない。いや、寧ろ上出来の部類だ。今まで何人もの女の胸を測ってきたこの俺が言うんだ、間違いねぇよ」
「なっ……!?」
ボタンを留めていた手が止まる。だが赤くなった理子を他所に武蔵のフォローは快調に続いた。
「コウなんかよ、昨日お前が帰った後、ベタ褒めしてたぞ? “ 乳房も乳頭もとてもキレイでした! 最高です! ” ってすっげー嬉しそうに言ってたな。そんでな、あの後あいつ急に “ なんだかミルクプリンが食べたくなりました ” って言い出してよ、どこかに買いに行ったんだ。以上のことからこの武蔵様が予測するにな、たぶんあれはお前の胸を見て、そのミルクプリンとやらを連想して食いたくなったんだと思うぜ?」
( ―― なななななななななななっ……!!)
フローリングの冷たさでほぼ平熱に下がっていた体温がまた急激に上昇する。
理子は恥ずかしさと怒りでわなわなと身体を震わせた。コウが眠っている事も忘れ、室内に絶叫が走る。
「ババババババッカじゃないのっ!? エッチ!! スケベ!! コウもあんたもどっちも最低ーッ!!」
「よーしそうだ! やっと元気が出てきたじゃねぇか子雌! ようやくお前らしくなってきたな!」
「エ?」
「やっぱお前はうるせぇ方がいい。野蛮なぐらいにな」
ご丁寧にもさっきとは反対側の頬を、武蔵がテープの先端でぐいっとつまみあげる。
「いふぁぁーいっ!!!」
右頬をつままれて思い切りそう叫んだものの、今の武蔵の言葉に胸を衝かれ、怒りの感情がスゥッと跡形も無く消えてゆく。
( そっか、武蔵は私を心配してたんだ……。この巻尺はただのエッチな巻尺じゃない。自分の意思……ううん、“ 心 ”を持っているんだ )
理子は改めて目の前の小さな唐草文様の巻尺を見つめる。
「お? なんだなんだ子雌、俺様をじっと見つめやがって。さては惚れたな?」
頬をつまみ終えた武蔵がまたおどける。
「だっ、誰があんたみたいなしょーもないエロ巻尺に惚れんのよ!」
だが怒鳴るようにそう言い返した理子の表情には完全に明るさが戻っていた。
( ありがと 武蔵 )
二度目の礼は心の中で言う。
コウが初めて会ったあの公園で武蔵のことを話してきた時、まるで本物の人間のようにその人となりを説明してきた理由が今になってやっと分かったような気がした。