- Risky Lion - <6>
一陣の風が吹く。
開け放されたままの窓から吹き込むその夜風が、室内の暗闇と同化しかけている青年の黒のコートを大きく揺らす。苦しげに鳴く風の流れに後押しされるように、一歩、また一歩と、革靴は確実に華奢な獲物を追い詰め、前へと進み続けた。
「……逃げんなよ」
コウの口から出た二度目の言葉。口調が今までと全く違っている。
いや、口調だけではなく、ニヤニヤと笑うその歪んだ邪な笑いも、理子の身体を舐めるように見つめるその冷たい瞳も、すべてが違う。これはもう完全な別人だ。
壁の内部にそのままずぶずぶと沈んでいきそうなほどにぴったりと背をつけ、理子は本気で脅えだしていた。
身体を小刻みに震わせる少女の胸元に視線を固定し、コウは再び命令する。
「脱げよ」
その命令を聞いた途端、背筋に冷え切った真水を流されたような気持ちになった。感情の揺れをほとんど感じられないコウのその押し殺すような低い声が、まるで見えない冷たい鎖のように身体に巻きつき、理子の手足の自由を奪う。
「い、嫌っ!!」
手足が動かない分、言葉で必死に拒絶する。
身を竦ませる理子を見下ろした青年の口元からククッと忍び笑いが漏れた。
「気の強え女だな。嫌なら力づくで抵抗してみろよ」
身長差があるせいで、理子に向けられているその視線は見下しているようにも見える。
まるで罠に嵌った小動物をいたぶるように、コウは壁に両手をつくと理子の自分の腕の中に閉じ込めた。
「抵抗しないのか?」
すぐ目の前にコウの顔が迫っている。
「で、出てって!!」
理子が叫んだ瞬間、眼鏡のフレームに一筋の蒼い光が奔った。抗おうとした少女の口元を大きな片手が素早く塞ぐ。
「……大声は出すな。お前の家族が起きちまったら面倒なことになる」
決して全力で押さえつけてきているわけではないのに、コウと自分の間にある絶対的な力の差を感じた理子は恐怖で身体を強張らせる。
「騒ぐなよ?」
冷たい声で念を押し、抵抗を止めた青ざめた小さな唇から手を外すとコウはやおらコートを脱いだ。
バサリと音がし、それはコウの足元に大きく広がる。虚脱状態の理子の目に、その広がったコートはまるで暗い底無しの穴のように見えた。
革靴もその場に脱ぎ、コウは軽々と理子を抱え上げる。
「やっ、止めてっ」
しかしあっという間にその細い身体は数歩先のベッドの上に投げ出された。
ネクタイを緩め、薄ら笑いを浮かべながら即座にコウが馬乗りになってくる。
夢としか思えない光景。
しかしこれは紛う方も無い現実だ。
「あ、あなた誰なのっ!?」
最後の抵抗代わりに理子は叫ぶ。その言葉にコウは一瞬怪訝な表情を見せた。
「あなた、コウじゃない! コウはどこ!?」
乾いた笑いがすぐ上から浴びせられ、細く長い指が理子の右頬を下から上へ、弄ぶようにスゥッと撫で上げる。
「……面白れぇ冗談」
そう口中で呟くとコウはネクタイをスルリと外し、右手で理子の両手首をガッシリと押さえつけた。
「やっ!? な、なにするの!?」
「すっげー楽しい事に決まってんじゃん」
こもる笑い声の中、コウは手にしていたネクタイで理子の手首を縛るとそれをベッドの上柵に素早く縛り付ける。昨日の夕方にバスト採寸の為にされた時と同じように、理子の両手の自由は瞬く間に奪われた。
「はっ、離してよっ……!」
しかし青年はその懇願も聞き入れる気はまったくないようだ。理子の身体の上でスーツの上着を乱暴に脱ぎ捨て、コートの側に放り投げる。上着が床に落ちた時、左側のポケットに入れていた事典の角でも当たったのか、ゴトリと鈍い音がした。
待ちきれないようにコウが覆いかぶさってくる。これから自分がどういう目に遭うのかを悟った理子は絶望感に身を落としながら虚空を見つめ、無意識にコウの名を力無く呼んだ。すると「どうした」という声が左の耳元で聞こえ、絶望感が一瞬だけ弾ける。
「違うっ、あんたじゃないわっ!」
身体の上に感じていた重力が一気に無くなった。
視点を虚空からコウに移すと、訝しそうな、そしてわずかにショックを受けているような顔で、身を起こしたコウが理子を見下ろしている。
「なんでそんなに嫌がるんだよ? お前の親父さんに何をしてもいいって言われてるんだぜ?」
「……!」
これはコウしか知らない、父、礼人の言葉だったはずだ。
「あっ、あなた、本当にコウなの……?」
当たり前だろ、と言うとコウは眼鏡に手をかける。
乱暴に眼鏡を外した少し童顔気味のその顔はやはりコウだった。だが隔てていた硝子レンズが無くなった分、瞳に浮かぶ邪な色がさらにくっきりと鮮やかになる。
「これで分かったろ?」
自己証明を済ませたコウは急に何かを思い出したように自分の投げ捨てたスーツに目をやる。そして何かを考えているようだった。
「……親父さんに貰ったアレ、使わなくてもいいだろ?」
“ アレ ” というのが礼人から託された桃色闘魂箱のことを指している事に気付いた理子は何度も激しく首を横に振る。
「やっ、止めて! イヤ! 絶対にイヤッ!」
「いいじゃん、別に出来たって」
八畳の部屋の中でベッドのスプリングがギィィ、と軋んだ悲鳴を上げる。まるで理子の身代わりのように。
「滅茶苦茶可愛がってやるよ」
紅い瞳が理子を射抜く。
コウは蒼い闇の中で悪魔の笑みを漏らし、“ おとなしくしてろよ ”と言わんばかりに理子の前髪をゆっくりと五本の指ですくい上げた。
ズシリとコウの重みが理子の身体全体にかかる。
「やぁっ……! 止めてぇっ!」
理子は身を固くして必死に全身で拒絶した。
そのせいでベッドの上柵が軋み、細い両手首にマスタード色のネクタイがぎりりと食い込む。
「お願いっ、止めてコウ!」
だがコウはお構いなしに白い首筋の横に深く顔を埋めてくる。冷えた唇がゆっくりと喉を這い上がってくるその感触に、背筋の中心を下から上に向かって痺れるような感覚が電流のように走り抜けていく。
「あ…ぁっ……」
微かなあえぎ声は瞬く間に闇の中に溶けていった。コウは這わせていた唇を外して満足そうな笑みを漏らす。
「イイ声で鳴くじゃん、リコ 」
── 呼び捨てにされている。
「もっと聞かせてくれよ? ゾクゾクする」
恥ずかしさで身体が中心から高熱を放ち出す。肌が火照ってきているのが分かった。そしてもう絶対に声を出さないために下唇を強く強く噛み締める。
柔らかい唇がキュッと真一文字に閉じられ、頑なな意思表示をしたその唇を見たコウが、「無意味な抵抗だな」と湿った笑い声を上げる。
ぴったりと閉じていた両足の間の隙間を狙ってコウの片膝が強引に割り込んでくる。必死に抵抗したが、力では敵わず、結局強引に侵入されてしまった。
理子の唇もこじあけようと、コウが荒々しく唇を重ねてくる。キスから懸命に逃れようとしたが両手を縛られているのでほとんど無駄な抵抗だった。
「んっ…んんっ……!」
二日前に社会科準備室でされた時と同じ感触が唇にまとわりつく。だが、アルコールの香りと味が強く漂っているのが二日前とは大きく違っていた。その香りの中、コウはキスをしながら素早く、そして的確に、理子のパジャマのボタンを一つずつ外しだす。
必死に身をよじって抵抗したが、白い肌が、そして胸元が、蒼い月明かりの下でたちまち露になる。最後の一つで力の加減を間違ったのか、一番下のボタンがコウの手で引きちぎられる。ボタンをすべて外し終えたコウは身を起こし、完全にはだけられた理子の胸に視線を落とした。
「リコは寝る前はブラ外してるんだな。いいじゃん。一部の例外はあるが、就寝時はブラは外してたほうが身体にはいい。眠りの妨げにもなるしな」
薄笑いを浮かべながらコウはそんな言葉を投げかける。そして女性下着請負人らしいそのアドバイスに理子は再び絶望感に打ちひしがれる。
── やはりこの人はコウなんだ──
信じられないが、そして信じたくないが、どうやら事実は一つだった。
あんなに優しくて、
あんなに紳士的で、
あんなに礼儀正しくて、そして、
“ 僕の事を好きになってくれるまでいつまでも待ちます ”
と言ってくれた人が、今、自分の上で卑劣な行為をしているこの現実。
あまりにもショックで、どこまでも悲しくて、気付けば両目から一筋の涙がこぼれていた。
すると理子の目尻から流れ落ちるその雫を見たコウの表情が不意に大きく歪む。
「……なんで泣くんだよ……?」
理子の涙に虚を衝かれたようなその表情。
両の紅い瞳が揺れ惑っている。
大きくゆらゆらと。
まるで何かと戦っているかのように。
涙が浮かんでいるせいで視界は少し滲んでしまっていたが、コウの瞳にいつもの優しげな光がかすかに見え隠れし出しているのを理子は感じ取った。
「なんで……なんでだよ……リコ……」
コウは焦点の定まりきらない虚ろな瞳で理子を見下ろし、何かに憑かれたかのようにうわ言を繰り返し始める。
「リコ…俺のこと……、リコさ……僕のこと好きだろ……?」
囁くようにそう問いかけるコウの表情は、親とはぐれて迷子になった子どものような顔になっている。
どこまでも途方にくれた顔。
まるで底なし沼に半身を囚われた人間が必死に助けを求めるような顔。
そんなコウにかける言葉が今の理子には思いつかなかった。
「リコ……何か言ってくれよ……」
真下から戻ってこない返事に、コウは苦しげな声でそう懇願する。しかしそれでも自分の望む答えが返ってこないことを知ると、理子の視線を避けるように両手で顔を覆った。
「なぁ……僕のこと好きだろ? 好きだって言ってくれよ……!」
俯き、微かに震える声で、コウは何度も何度も “ リコ、僕のことが好きだろ? ” と同じ質問を繰り返す。
何度目かのその問いの最中にコウの言葉が突然ブツリと途切れた。代わりに顔を覆っていた長い指の間から今度は小さな呻き声が漏れる。そしてコウは理子の左横に崩れ落ちるようにドサリと倒れ込んだ。
部屋の中に静寂が戻る。
「コウ……?」
自分のすぐ横でうつ伏せになったままのコウに理子は恐る恐る声をかける。しかしコウはピクリとも動かずに返事すらもしない。
「……危なかったなぁ、子雌……」
すぐ上から聞こえてきた声に理子は顔を上げた。
「まさに貞操危機一髪、ってとこだったなぁ……」
「む、武蔵!?」
宙に浮いた武蔵のブルーランプがせわしなく何度も点滅を繰り返している。これは武蔵の苦悩を表すサインなのだが、まだ今の状況が飲み込めていない理子は、そんな武蔵と上空から青く降り注がれる光をただ呆然と眺めるだけだった。