- Risky Lion - <5>
「んもう、パパったら! せっかくたくさんご馳走作ったのに!」
食卓の上に溢れんばかりの料理の前に、弓希子はかなりご機嫌斜めの様子だ。
礼人がコウを連れて外に食事に行ってしまったのでこのままではこれらが大量に余ってしまうのは目に見えている。
「母さんそうカリカリすんなって。俺が頑張って食べるからさ」
いい色に揚がっている鳥唐を口に、拓斗が健気な事を言う。
「それよりも今日は姉ちゃんの彼氏が初訪問した記念すべき日なんだからさ、祝福してやろうぜ?」
「……そうね。まぁ今回は仕方ないか」
「だからコウは彼氏じゃないってば!」
母と弟の会話に理子は慌てて割り込む。
「あら、さっきあんなことまでしてたくせに?」
「だっだからそれは誤解で……」
「まさか断るなんてことないよな、姉ちゃん?」
両方から問い詰められ、ぐっと返答に詰まる。
「これ断ったらアホだろ? なんですぐにOKの返事してやらないんだよ。まさか姉ちゃん、ひょっとして焦らしてるつもりか? どうせ下らねぇ恋愛マンガに出ていた手口を真似しようとしてんだろ?」
「あらそうなの? 理子、あんた分かってないわね。男を焦らすならそのやり方じゃ意味ないわよ? やるならもっと効果的な方法でやらないと」
「そっ、そんなんじゃないもん!」
「理子、それならお母さんが伝授してあげようか? 究極の焦らしテクニック!」
「いらないってば!」
「なぁ、姉ちゃんもやっと彼氏が出来たんだからもうちょい女らしくなってくれよ?」
「余計なお世話よ!!」
大声を出したせいで箸がグサリと唐揚げを貫通する。それを見た拓斗が「こえー……」と呟いた。
やがていつもと変わらない三人だけの夕食が終わり、やはり大量に余ってしまった食材を弓希子が片付けだす。
「あ、お母さん、手伝うよ」
「そう? ありがと」
皿とタッパーとラップを総動員し、なんとか小分けにして冷蔵庫に押し込む。茶碗を洗い出した弓希子の隣に立ち、理子は洗い終えた食器を拭き出した。
二人がかりだと作業も早い。連携プレイで綺麗になった食器はそれぞれ元の場所へと戻っていく。
「……ねぇ理子」
黙々と茶碗を洗っていた弓希子は最後の一つを手に取るとさりげない口調で切り出す。
「蕪利さんっていい人だけどさ、ちょっと哀しい影がある人よね」
「え?」
思いも寄らないその母の言葉に理子は食器を片付けていた手を止めた。
「それどういうこと?」
「……あら聞いてないの? あの人のお母さんのこと」
「お母さんのこと……?」
「理子はまだ知らなかったのね。私はさっきあんたが帰ってくる前に、あの人に散々色んな質問をしたから」
「コウのお母さんがどうしたの?」
「あのね、蕪利さんのお母さんってあの人が小さい時にお亡くなりになっているんですって」
「え……」
── 初めて知る事実だった。
「それで小さい頃は父一人子一人で生活してきたみたい。今日さ、蕪利さんを初めて玄関で見た時、とても優しい目をしている人だなって思ったけど、でもどことなく寂しそうな印象も受けたのよ。それはきっとそのせいなんでしょうね」
「コウのお母さんってどうして亡くなったの……?」
「うん、言葉を濁してたけど不治の病気だったみたい。私もさすがにそれ以上は聞けなかったわ」
「……そうなんだ……」
シングルレバーの先から流れる水音がその声をかき消す。
( 私ってまだコウのこと何も知らない── )
洗い終えた最後の器を食器棚に片付け、重苦しい気持ちを胸に理子は部屋に戻った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時刻が日付変更線を越えようとする頃、やっと礼人とコウが戻ってきた。
玄関先がにわかに騒がしくなる。
まだ起きていた理子はそっと部屋を出ると二階から玄関の様子を覗いた。
玄関の上がり口では夫の帰りを待っていた弓希子が腰に手を当てて礼人を叱っている。
「ちょっとパパ! 大声で変な歌うたうの止めて! ご近所に聞こえたら恥ずかしいから!」
礼人はもう完全に出来上がった状態で、廊下の中央で仰向けになりながらリゲインのテーマソングを声高らかに歌っている。そんな酔っ払い男をコウはここまでかついできたらしい。
妻には滅法弱い礼人はおとなしく熱唱を止めた。
「ふわ~い! ママ~! 海よりも深く愛してるよ~!」
しかしそう叫ぶと今度はその場でいびきをかきはじめる。
「ちょっとパパ! こんなところで寝ないでってば!」
慌てて弓希子はペシペシと何度も頬を叩いたが礼人は完全に深い眠りに入ってしまったようだ。
「困ったわね……」
そう弓希子が呟くと、コウはスッと跪き、礼人の腕を自分の肩に回してその体を軽々と持ち上げる。
「あら蕪利さん、ごめんなさいね。じゃこっちに運んでくれる?」
コウは黙ったままで頷き、礼人を運び出す。
その様子を上から見ていた理子はなぜかその光景に大きな違和感を感じたが、その理由は分からなかった。
夫妻の寝室に礼人を置いたコウはすぐに玄関先に戻ってきた。そしてそのまま外に出て行こうとする。
「あ、待って蕪利さん!」
廊下の奥から走って来た弓希子がコウを引き止める。
「今日はウチの人が色々引っ張りまわしちゃったみたいでごめんなさいね。迷惑もかけちゃったみたいだし。でも懲りずに良かったらまた遊びに来てちょうだいね」
しかしそれでもやはりコウは一言も言葉を発せず、ほんのわずかだけ頭を下げるとすぐに踵を返して久住家を出て行ってしまった。ようやくここで先ほど感じた違和感の原因が分かる。
( ── コウ、もしかして怒ってる……?)
コウが今取っていた態度を思い返すと結論はそれしか考えられなかった。あれほど礼儀正しかったコウなのに。
急いで部屋に戻り、ガラリと部屋の窓を開ける。
肌に当たる冷たい夜風に、さすがに寒さに強い理子もパジャマ姿のせいもあって小さく身体を竦めた。玄関前にコウの姿は見当たらない。足が速いのでもうとっくに先まで行ってしまったのだろう。
( ── どうしよう、もしかしてお父さんがまたなにかとんでもないことでも言っちゃったとか……?)
心配な気持ちが瞬く間に不安に変わっていく。
もしそうなら謝らなくっちゃ、明日コウの家に行ってみよう、と思い、理子が窓を閉めようとした時だ。
この部屋の下は一階の和室がせり出しているので、窓下はすぐ屋根になっている。
最初はネコか何かだと思った。
スタンッ、という軽快な音と共に、目の前を上空から黒い何かが落ちてくる。
── 人間だった。
蒼い月光を背に目の前に立ったその人物に理子は目を見張る。
黒のコートを夜風にはためかせ、目の前に立つダークブラウンのスーツを着た男。
それは間違いなくコウだった。
……だがどこか様子がおかしい。
いつもの穏やかな笑みはそこには無かった。片方の口角をわずかに上げ、ニヤリと笑うその顔は理子が初めて見る顔だ。
「……いよう」
歪んだ口角から出てきたその低い声。
明らかに異様な態度。
明らかに異質な笑い。
黒のコートが羽を広げた蝙蝠のようにバサリと大きく翻る。
開いている窓枠に乱暴に片足をかけ、コウは革靴のままで室内に侵入してきた。靴の裏に微量に付着していた砂塵が、フローリングの床に擦れてジャリッと乾いた音を立てる。
「コ、コウ……?」
公園でコウを初めて見かけた時に理子が作ったキャッチコピー、『優しい、らいおん』。
その面影は今は微塵も感じられない。“ 本能のままに生きる最強の獣 ”、そんな肉食的オーラがその身体からゆらゆらと強く立ち上っている。
( ── この人、コウじゃない!?)
戸惑う理子を見据え、大胆なライオンはまた斜に構えた不適な笑みを漏らす。
ザリッと再び床が鳴り、コウは理子に向かってゆっくりと歩を進める。
脅えた細い素足がその倍の距離、フローリングの床の上をすべるように後退した。
「こ、来ないで!」
だがコウは捻れた笑みをその顔に張り付かせたまま、じわじわとその距離をさらに狭めてくる。後ずさる理子の背中に壁がぶつかった。もう逃げ場は無い。
眼鏡の奥の瞳と真正面からぶつかり、理子はごくりと息を呑む。
そこにはつい数時間前までこの部屋にいた時の、穏やかで優しいあの光は完全に消え失せていた。
うっすらと充血した二つの瞳にはっきりと色濃く表れているその色は邪な色。冷酷な色。そして、本能の色──。
違う!
コウの瞳が冷たい光を放っているのはきっと銀のフレームに蒼い月の光が反射しているせい、そのせいだ──。
理子は脅える自分に何度もそう言い聞かせ続けていた。