- Risky Lion - <4>
理子が父の礼人に会うのは一ヶ月ぶりだ。
去年、転勤が決まったと礼人に告げられた弓希子は、「パパ、単身赴任してよね?」と無情にも即答したらしい。
礼人としては家族揃って新天地に行きたかったようだが、理子も水砂丘高校に入学が決まっており、来年に迫った拓斗の受験の事も考えるとやはり単身赴任を選ばざるを得ない状況ではあったようだ。
それに建てて間もないこの家のローンなど、色々な大人のしがらみや事情もあるらしく、泣く泣く礼人は単身でこの家から離れる事になったのである。
家族一緒に暮らせなくなったのはかなり寂しいものがあったが、同時に理子はある自由も手に入れた。
それは異性間交遊に関する礼人の干渉が無くなったことである。
一緒に生活していた頃は、娘に悪い虫はついてないかのチェックが激しく、理子もほとほと閉口したものだ。今まで彼氏が出来なかったのも単に異性運が無かっただけではなく、この父の存在が理由の一つだったのは間違いない。
その父がだ。
あろうことかその父が、コウに自分のことを「よろしく頼む」なんて言うとはとても思えなかった。
家の中で一番日当たりの良くない、西向き六畳の部屋が礼人の書斎になっている。この辺りからも夫婦の力関係が分かろうというものだ。
ドアをノックすると「入りなさい」という静かな声が聞こえた。
「お帰りなさいお父さん!」
そう言いながらドアを開けると、
「理子ちゃん! お父さんじゃない! パパと呼びなさい!!」
いきなりの絶叫で返された。慌てて言い直す。
「お、お帰りなさいパパ」
「ん~よろしいっ!」
デスクチェアーに座って煙草を吸っていた礼人はパパと呼ばれて途端に相好を崩す。
べっ甲の眼鏡がよく似合う、スマートな体躯の男性だ。
礼人がいつも頭髪につけているポマードの香りが狭い部屋の中に充満している。昔はこの香りが好きではなかったが、離れて暮らしている今は懐かしい感じがしてあまり嫌な感じはしなくなっていた。
「……パパ、少し痩せたんじゃない?」
本当は “ 髪も少し痩せてきたんじゃない? ” と言いたかったが止めておいた。これでもかなりナイーブなところがある父なのだ。
「そうなんだよね……。ママや理子ちゃんと離れて暮らしているからパパ、寂しくって死にそう。ウサギちゃんになった気分」
礼人は子供のように甘えた声で口を尖らす。相変わらず変わっていない父の姿に理子は苦笑した。
理子には信じられないのだが、これでも勤めている会社では何人もの部下を抱えて時には怒鳴り散らしたりもする鬼課長らしい。その一方で女子社員には “ ダンディな久住課長 ” となかなかの人気らしいのだが、愛妻の弓希子や愛娘の理子の前ではこうして途端に幼児化する癖のある、少々困った男なのである。
「理子ちゃん。今日は理子ちゃんに大事な話があるからね。さぁここに座って」
急に真剣な声に戻り、礼人は自分の机に前に用意していたパイプチェアーを指差す。
「う、うん…」
おとなしく座り、机越しに礼人と向かい合わせになる。きっとコウもここに座らされてお父さんと何かを話したんだろうな、と理子は思った。
「パパ、コウに何を話したの……?」
すると礼人は黙って机の脇にあるアーム型のデスクスタンドのライトをつけた。いきなり正面から煌々と光を照らされて理子は顔をしかめる。
「眩しいってばパパ!」
「あ、ごめんごめん。さっきコウくんと話してた時の位置にしてたから」
ライトの位置が下げられる。
そして礼人は深々と大きく息を吸った後、ふひゅぅぅぅ、とそれをすべて吐き出した。
これから一大決心をして大事なことを言うぞ、という緊迫感がヒシヒシと伝わってきて、知らず知らずのうちに理子の背筋も伸びる。
「……いいかい理子ちゃん……」
礼人は重々しい声で口火を切り、
「……ススススーッ!!」
「な、なに!?」
「ススススッ、スィッ、スィッ、スィッ、スィッ、スィッ!!」
まるで傷の入ったCDを壊れたプレイヤーで強制再生しているかのようだ。
「どっ、どうしたのパパ!?」
「りっ、理子ちゃんっ! スッ、“ スィー ” まではっ、“ スィー ” までは許しますっっ!!」
「ハ?」
「だから “ スィー ” だってば理子ちゃん! そこまでは許す! パパも断腸の思いで許すからね!」
「な、なに? “ スィー ” って?」
「だから “ C ” だって、“ C ”! つまり “ 合体 ”! パパ、コウくんと合体までは許すからね!」
礼人がヘンに気負って “ スィー ” などと本格的な発音で言うので最初はまったく分からなかったが、ここで理子はやっと父親の言っている言葉の意味が分かった。そしてこの父のぶっとび宣言に鼻の頭まで赤くなる。
「パッ、パパ! なっ何言い出してんのよ!」
「もう辛いけど! 本当に辛いけど! でも理子ちゃんももう十六だし! いつかはパパの手を離れていくんだし! パパ、すっごく辛いけど我慢する! 今晩きっとベッドでむせび泣くと思うけど我慢するからね!」
礼人は理子の手をヒシッと握り、本当に今にも泣きそうな顔で重ねて頼んでくる。
「いいかい、理子ちゃん? だから頼むから、頼むからさ、コウくんをしーっかり捕まえていてくれよ? ホント頼むよ? 絶対に約束だよ?」
「……それどういう意味パパ?」
父のあまりの必死さに理子はなんだか嫌な予感がしてきた。
「そんなの決まっているじゃないか! 理子ちゃんがコウくんとしっぽりよろしくやってくれないと、パパ心配で心配で!」
礼人は胸の前で手をしっかと組み合わせ、何とも演劇がかった大仰な動作で宙を仰ぐと、大袈裟な祈りのポーズを見せる。ひたっているその雰囲気をさらに盛り上げてやるために、BGMにアベ・マリアでも流してやりたいところだ。
「愛しのママがコウくんと浮気でもしちゃったら大変だからね! 理子ちゃんも知ってるだろ? ママは恋多き女性なんだから! パパ、ママをゲットするのに当時どれだけ苦労したか! だから理子ちゃんが若さを武器にしたそのピチピチボディでコウくんを完璧に落としてくれないと、パパもう単身赴任しない! 二十四時間戦えない! ノー ・ リゲインですッ!!」
「……パパ……」
理子はデスクスタンドのライトを浴びながら頭を抱えた。どうやら礼人はこれが言いたくてわざわざこの部屋に呼び出したらしい。
そんな娘の姿などお構い無しで、礼人は袖机の三段目の引き出しから何かを取り出すと、意気揚々とした声で告げる。
「さぁーて、そんなカワイイ愛娘、MyLove理子ちゃんに、パパから応援の意味も込めてとっておきのプレゼントタイムだよっ!」
プレゼントが理子の目前に差し出され、その全容がライトに照らされる。
「さぁ今急いで薬局で買ってきたからね。遠慮しないでたんとお使い」
それを目にした理子は叫び声を上げた。
「ななななっなによこれ――っ!」
「ん? そっかー、ウブな理子ちゃんはもしかして初めて目にしたかなー?」
“ では教えて進ぜよう ” と言わんばかりの態度で礼人はゆったりと両手を組み合わせ、べっ甲眼鏡の奥の目を糸のように細める。
「これはね、純日本製の 【 人類繁殖抑制機能用具 】 だよ」
エラく回りくどい表現と共に差し出されたケバケバしいどピンク色の長方形の箱には、“ 限界まで挑む! ” とか “ 脅威の薄さ! ” とか0.02だか3だかの色んな銀ラメの文字が光り輝いている。
「そしてなんとそれにはまだ色んな別の名称があるんだ! サッ○だろ、スキ○だろ、あぁ! このスタンダードな名前なら理子ちゃんも知ってるかもしれないね! それはコンド……」
「止めてぇぇ──っ!! 言わなくていいってば──ッ!!」
絶叫のあまりハーハーと肩で息をする理子に、礼人は半ば強引にそれを押し付けてくる。
「聞いて理子ちゃん! 数ある商品の中でこのメーカーのはパパの一押しだから! もうスペシャルお勧め! デリケートな肌でも安心! かぶれ一切無し! なめらか素肌感覚! しっとりと馴染むようにフィット! ほら手にとって見てごらん!」
……聞きようによっては化粧品のキャッチセールスのようなフレーズでもある。
「あ、JIS規格も勿論クリアーしてるからね! しかもこれは芳香付きで……」
「いいかげんにしてってば――っ!!」
理子の剣幕に礼人は目をパチパチと何度も瞬かせる。
「何をそんなに怒っているんだい? コウくんはニッコリ笑って受け取ってくれたよ?」
「なッ……!?」
── 瞬殺だ。
完璧に瞬殺だ。
本気で眩暈がしてきた。
「コウくんはなかなかしっかりした青年だし、とても礼儀正しいし、純朴そうだし、パパは安心したよ。理子ちゃんの初の彼氏が “ チーッス! ” なんてピースサインでも出して挨拶するチャラチャラした男でなくて良かったと思ってるんだ。だからもうパパは何も言わないからねっ! ただし絶対に “ C ” まで! 合体、結合までだよ理子ちゃんっ! ま、この辺りはコウくんに今何度も念を押しておいたから大丈夫だと思うけどねっ!」
── 本日二度目の瞬殺──。
本気で消えたい。今すぐこの場から。
「さ、じゃあパパの話はこれで終わりっ! で、悪いんだけどね理子ちゃん。これからコウくんを借りるよ? 男同士でまだまだ話したいこといっぱいあるしね。じゃ、早速コウくんと出かけるから彼を呼んで来てくれないかい?」
もはや返事をする気力も無かった。
精神ポイントをグリグリと大幅にえぐられたせいで半分よろけながら二階に上り、部屋に入る。
窓辺に立っていたので斜陽を正面から受けているコウの背中が目に入った。手には前にも見たあの古びた事典がある。何かを調べていたようだ。
「あ、お話終わりましたか」
振り返り、事典を閉じるとコウは優しく話しかけてくる。が、今の礼人の話を聞き終わった理子にしてみれば当然まともに顔など見られるはずもない。
理子の様子がおかしい事に気付いたコウが近寄ってくる。
「どうかしましたか?」
いたたまれなくて、恥ずかしくて、思い切り俯いた。
「リコさん顔を上げて下さい。どうしたんですか? お父様に何か言われたのですか?」
優しく肩を掴まれる。
「はっ離してよっ!」
「一体どうしたんですか? 僕に話してみて下さい」
心配そうに尋ねるその声は何も変わりが無く聞こえる。だからこそ余計にこだわってしまう。理子は横に顔を背けながら突き放すように言った。
「……コ、コウ! お、お父さんが変なこと言っちゃったみたいだけど、わっ、忘れてよねっ!」
「変なこと? 僕は別に何も言われませんでしたが……」
「な、なんか変なものとかさっき渡されたでしょ! あれ捨てて! 今すぐ捨てて!」
「あぁ、これのことですか」
コウはスーツの上着のポケットから例のどピンク色の箱を取り出そうとした。
“ 朝まで 闘魂!” の文字がチラリと見える。
「だっ出さなくていいってば――っ!」
「僕もちょっとビックリしましたが、すべてはリコさんの事を心配なされてのことですよ。先ほどお父様には何度も厳しく言われました。“ 順番を逆に取り違える事だけはしないように ” と」
「な、何よそれっ!?」
「お父様に今教えてもらったのですが、懐妊した後で慌てて婚姻関係を結ぶ事を “ 出来ちゃった結婚 ” というんだそうですね。くれぐれもそれだけはしないように、と。それ以外であれば何をしても良いと言われました」
なんのためらいもなく、礼人との会話を素直に話すコウ。
一方の理子は三度目の瞬殺中だ。背中を壁に預けてないと立っていられない。
今日は間違いなく厄日だ。絶対に厄日に違いない。
「今これで調べていたのですが、“ 出来ちゃった結婚 ” というのは載っていませんでした。この時代には僕の知らない色んな言葉があるんですね。勉強になります」
理子はコウが左手に持っている小型事典に目をやる。
「……前にもそれでストーカーって言葉を調べてたよね。なんなの、その辞書みたいなやつ」
「これは僕の家に昔からあったものなんです。ご先祖様が編纂したもののようです。作られたのがこの年代なので何かの役に立つかと思って持ってきました」
コウは用の済んだその事典をスーツの右のポケットに仕舞おうとしたが、そちらにはすでに礼人寄贈の “ 桃色闘魂箱 ” が入っているのでつかえて入らなかったようだ。
事典を逆側のポケットに入れたコウは残念そうに理子に告げる。
「申し訳ありませんリコさん。僕、これからお父様と出かけなければならないので今日はこれで失礼させていただきます。またお会いしましょう。では」
理子の肩から手を離し、空のアタッシュケースを手にしたコウは部屋を出て行こうとする。去っていくその背中を見て、理子は無意識に叫んでいた。
「コウ!」
呼び止められてコウは足を止める。
「はい」
「あ、あのね…………」
── なんで私呼び止めたの?
「きょ、今日はお父さんのせいでなんか嫌な気持ちになったろうけど、ご、ごめんね」
「いえ、とんでもありません!」
ドアノブから手を離し、コウは笑う。
「僕、嬉しくてたまらないんです。リコさんのご家族にリコさんとのことを認めてもらえて」
その笑顔にキュン、と少女の胸が痛みを告げる。
今のコウの言葉に微塵も偽りの気持ちが無いのは、その笑顔を見るだけで今の理子にはもう分かるようになっていた。
「だから後は待ちます。リコさんが僕の事を好きになってくれるまで。僕、いつまでも待ちますから。じゃあ行ってきますね」
辞去の挨拶代わりに軽く頭を下げると、コウは部屋を出て行く。
そのまま吸い寄せられるように、後を追うように、理子は一歩足を踏み出していた。
唇がわずかに開く。後は「コ」の発音をそこから紡ぎだすだけだ。
だが──。
一メートル先のドアがパタン、と閉められる。
だが、結局理子はコウの名を呼ぶ事が出来なかった。