- Risky Lion - <1>
── あの時 そっと胸に当てられた冷たい指の感触が忘れられない──
それは慈しむように繊細で
護るように愛おしく私を包み込んできた
細長いあの人の指がほんのわずかだけ私の胸を押し上げた時
身体の中を突き抜けるような電流が走った
そう あれはきっとすべて私のため
私に最高のブラを作ってくれるため ただそれだけ……
だから、だから…………
「……って、許されることじゃないでしょうがぁぁぁぁぁぁぁぁ────っっ!!!!!」
ゼイゼイと姿見の前で朝から絶叫する少女が一人。鏡面には空色のパジャマ姿で息を荒げる理子が映っている。
コウの家で上半身を裸にされてバストサイズを強引に測られた昨日のあの忌まわしい出来事を、得意の乙女妄想回路で何度美化しようと思っても不可能だった。思い返すたびに恥ずかしさでこのフローリングの床を転げまわりたくなる。
「何だようるせーなぁ。朝から欲求不満か?」
理子の部屋のドアを開けて顔を覗かせたのは中学三年の弟、久住拓斗だ。
「なっなによ拓! その欲求不満って!?」
すでに制服を着て一階に行こうとしていた拓斗は短く刈った髪に手をやり、ニヤニヤと笑いながら室内に入ってきた。成長期中盤のその体はもう姉の背を五センチほど抜いている。
「だって姉ちゃんさ、もう十六だってのに男の一人もいないだろ? だから色々欲求不満になってるんじゃないかなぁってさ、弟の俺は心配してやってるわけよ」
「だだだだ誰が欲求不満よ!」
最近は口も達者になってきた拓斗に姉の理子もたじたじだ。
「姉ちゃんは恋愛ドラマやマンガを見過ぎなんだよ。世の中、あんなに都合のいい展開が起きるわけねぇじゃん。しかもああいう類のストーリーってさ、ほとんど女にばっか都合のいい展開で笑っちゃうよ」
拓斗は憐憫のこもった目を姉に向ける。
「なぁ、だから姉ちゃんももういい加減に白馬の王子がやって来る系のアホな夢から醒めろよ。そんで身近な男でとっとと手を打ってさ、早いとこその欲求不満解消しろって。華の命は短いんだぜ? ……ま、姉ちゃんは間違っても華じゃねーけどな!」
「たっ拓斗ーッ!」
手近にあった枕を思い切り拓斗に投げつける。ヒョイとそれを避けた拓斗はハハハ、と笑いながら一階に下りていった。
「もう何なのよ……!」
床に落ちた枕を拾って乱暴にベッドに腰をかけ、その枕をぎゅうう、と全力で締め上げた。もちろんこの哀れな枕はコウの身代わりである。
「コウのバカバカバカバカ!」
あんな至近距離から生バストを見られてしまった。バストを測定していた時のコウの視点を想像するだけで恥ずかしさで死にたくなる。
八つ当たり気味に枕を投げ捨て、クローゼットを壊れそうな勢いで開けた。
もう絶対に今度こそ許さない、制服を着ながらそう強く決意した時、机の上に置いてあった緑のリボンタイが目に入った。
( 大切なリコさんのものですから無くしたらいけないと思って )
そっとリボンを手に取る。
気持ちを落ち着かせるため小さく息を吸い、リボンを胸元で結び始めた。するといつもは一発で左右対称に綺麗に結べるのに今日は何度やってもリボンの長さが綺麗に揃わない。
その原因はおそらく、自分自身でうまく説明出来ない、気付いているけど知らないフリをしていたい、もう一つの気持ちが胸の奥にあるせいだ。
( 僕のせいで嫌な思いをなされたのなら謝ります でも僕は貴女の側にいたいんです )
昨日の記憶が次の告白を再生し始めようとしたので頭を振り、急いでそれを中断する。
グッと下唇を噛み、決まらないリボンのままで理子は部屋を出ていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
午後五時。暮れ始めた晩秋の夕焼け空はなかなかに美しい。
真央と一緒に下校していた理子は茜色に染まるその金天を見上げてふぅ、とため息をついた。
「理子、元気無いね。何かあったの?」
真央の問いかけに慌てて首を振る。
「ぜっぜんぜん! 何にもないない!」
「……そお? だって昨日からずーとボーッとしているよ?」
「ほ、ほんとになんでもないって!」
背筋を伸ばして真央の言葉を全否定したが、確かに今日一日、学校で何をしたのかまったく覚えていなかった。一昨日初めてコウと出会ってから、学校の授業も上の空で、コウの事ばかり考えている。のんびり屋の真央にまでそう言われるということは私、相当ボケッとしているんだな、と理子は思った。
「じゃあ、気分転換してみない?」
そう切り出した真央は、自分の口から白い息が漏れたのを見て急いで襟元のマフラーに口元を埋めた。とても寒がりなのだ。理子もマフラーを巻いているが、寒さに強い理子の場合は防寒対策というよりはどちらかというとファッション感覚だ。
「気分転換って?」
「じゃじゃーん!」
真央は可愛らしい声でコートのポケットから二枚のチケットを取り出す。
「ね、明日土曜日で学校休みだし、これに行こっ?」
「なに、コレ?」
真央から手渡された派手なチケットに目を走らせる。
「……【 天女の里、極楽パラダイス 】?」
「ほら、前に理子にも話したじゃない。今度新しくスパ施設が出来るって」
「あ、真央の家のすぐ近くに出来るって言ってた所?」
左肩から落ちそうになったモカ色のチェックマフラーを掛け直し、理子はもう一度チケットに視線を落とす。
「うん、明日オープンなんだって。招待チケット貰ったの。肌にすっごくいい薬湯とかもあるんだって。もうすぐ修学旅行だし、明日はその薬湯に浸かって美肌になりに行かない?」
「肌がキレイになるのはいいけど……」
今の真央の話の一部が不可解だった理子は眉根を寄せる。
「でもなんで修学旅行が関係あるの?」
「だって、修学旅行は桐生先生と四日間も一緒に行動するでしょ? 肌の調子をベストの状態にしておかないと……」
頬を染めて答える真央に理子は笑い出した。
「真央、一緒って言ったって桐生先生は担任じゃないし、別に真央と二人っきりで行動するわけじゃないでしょ?」
「そんなの分からないよ、理子! だって二日目の自由行動だってあるし、ほんの一瞬でも先生と二人きりになれるチャンスがもしかしたらあるかもしれないじゃない!」
目を輝かせてそう言い切る真剣な様子の親友を見て、理子は少しだけ真央が羨ましくなった。
「いいなぁ、真央は……」
「どうして?」
「だって今の真央、すっごくいい顔してるんだもん。恋する乙女って感じでさ」
するとなぜか真央はくすくすと笑い出す。
「なんで笑うの?」
「その言葉、そのまま理子に返してあげる!」
「どういう意味よ、それ?」
「私も確かに今、桐生先生に恋をしているけど、理子もそうでしょ?」
「ううん、私は真央みたいに桐生先生にそこまでの気持ちないよ? ステキだな、とは思うけどね」
「違うわ。桐生先生じゃなくて、別の人よ」
真央は両方の口角を上げたままで理子の顔に向かって人差し指を突きつける。
「……あの人でしょ?」
ギクリとしながらも理子は強がる。
「あ、あの人って誰よ?」
「分かってるくせに」
目を細め、笑う真央。その時、理子のスクールバッグの中から着メロが鳴り始める。
今の話題をぶつ切りにするチャンス到来だ。急いで携帯を取り出すとメールが一通届いていた。差出人は弓希子だ。
「あ、お母さんだ。なんだろう……?」
メールを読んでみる。
【 理子、今どこにいるの? 今日は絶対にどこにも寄り道しないで急いですぐに帰ってきなさい! いいわね!?】
メール本文はそれだけだった。
「理子のお母さんから? 何の用だったの?」
「今日は寄り道しないで急いで帰ってこいって」
「何かあったのかな?」
「うん。今日お父さんが帰ってくるからだと思う」
「あ、理子のお父さんって単身赴任中なんだもんね。じゃあ明日のスパはやっぱり止めたほうがいいかな? せっかくの家族水入らずの貴重な時間、邪魔しちゃ悪いもの」
「ううん、行こうよ! 明日、お父さんとお母さん、朝から二人でどこかに出かけるみたいだからどうせヒマだし」
デートだね、と真央は笑う。
「でも本当に理子のお父さんとお母さんって仲いいよね。いつもラブラブなんでしょ?」
「ラブラブっていうか……お父さんがさ、とにかくスゴいんだよね……」
理子は苦笑しながらそう答えた。娘溺愛タイプの礼人だが、実はそれ以上に妻の弓希子に対しての愛情のかけ方がハンパではないのである。
「じゃあ理子、明日何時にする?」
「どうせならオープンする時間にしない? 混む前に一番乗りしたいな」
「じゃあ十時ね。でも明日は近隣の人だけを招待するみたいだからそんなに混まないと思うよ。この招待チケットが無いと明日は入れないんだって。待ち合わせは直接ここにしちゃう?」
「うんいいよ。じゃ明日十時ね!」
「遅刻しないでね理子」
「分かってる! じゃあね真央!」
駅で真央と別れ、理子は急いで家に戻った。
自宅へ戻ると待ちかねていたようにヌーベルが出迎えてくれる。
「ただいま、ヌゥちゃん!」
今日のヌーベルはなんだか興奮しているようだ。ハァハァと荒い息をしている。
「どうしたの、ヌゥちゃん。お散歩に行ってきたばかりなの?」
理子がヌーベルの頭をよしよしと撫でていると、二階から弟の拓斗が降りてきた。
「あ、拓。ただいまっ」
するといつもは顔を会わす度にニヤニヤと小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる拓斗が、今は珍しく真剣な顔で理子の側に寄ってくる。
「姉ちゃん」
「なに?」
拓斗は理子の両肩を急にガシリと掴む。
「……悪かった!」
このいきなりの謝罪に理子はポカンと口を開ける。何か私の大切な物でもうっかり壊してしまったのだろうかと思った時、
「俺、姉ちゃんを見くびってた! 今回ばかりは俺の完敗だ。やるじゃねぇか、姉ちゃん!」
「な、なんのことよ?」
「いいから早くリビングに行け。さっきから母さんが色目使ってるからな。取られちまっても知らねーぞ?」
拓斗は理子の背中をグイグイと押す。
「ちょ、ちょっとなに? なんなのよ拓斗!」
よく見るとヌーベルも理子のコートの裾を咥えて引っ張っている。弟と飼い犬に強引に引きずられ、リビングへと足を踏み入れると、もう聞き慣れてしまっている声が理子を出迎えた。
「お帰りなさいリコさん」
「……エッ!?」
その人物を見た理子の目が驚きで倍くらいにまで見開かれる。
リビングの上座のソファに座り、温和な表情でこちらを見ている青年。喜色満面なヌーベルがその足元目掛けて一目散に駆け寄っていく。
「コ、コウっ!?」