Dramatic love! <1>
── 運命の日の朝は完璧すぎるほどの晴天だった。
雲ひとつ見当たらない爽秋の空。
愛犬のミニチュアダックス、ヌーベル( 愛称・ヌゥちゃん ) との散歩の足取りが、最近はとても軽い。
「ヌゥちゃん、ちょっとそんなに急がないでってば!」
はしゃぐ愛犬がかなりの勢いで引っ張るリードをしっかりと握り締め、小走りでその後を追う。ショートヘアーの柔らかい髪の毛が、走るリズムに合わせてふわりふわりと何度も大きく揺れた。
現在子犬に引きずりかけられているこの少女、久住理子は、水砂丘 私立高校の二年生。毎朝六時に起きてこのやんちゃなヌーベルを散歩させるのが日課だ。
十月の爽涼とした秋風。その心地よさと爽快感にひたる。
まだ早朝のこの時間帯は外を歩く人もまばらで、公園内は清々しい気配に満ち溢れている。冷たい空気の中に溶け込んでいる陰イオンを胸いっぱいに吸い込んでみると、身体の細胞が内部から次々と活性化していく様子が体感できるような気がした。
「おはようございまーす!」
散歩コースにしているこの公園で出会う人々は、大抵決まった顔ぶれだ。その顔馴染みの人々といつものように軽い朝の挨拶を交わし始める。
公園に入って最初に挨拶をしたのはどちらも少し太め体型の熟年夫婦だ。二人共ふぅふぅと息を切らせ、額から滝のような大量の汗を流している。
「おう、おはようっ」
「あら、お嬢ちゃんおはよう! ワンちゃんもおはようね!」
ヌーベルも嬉しそうにワン、と答える。
健康促進のためなのか、はたまたダイエットのためなのか、この夫婦はいつも揃いのジャージ姿でジョギングに励んでいる。
「おはようございまーす!」
次に出会ったのは、こんな早朝からきちんとスーツを着込んでいるにもかかわらず、どこかくたびれた様子の眠そうな中年サラリーマン。
「……あぁ、おはよう……」
いつもこんな時刻に安息の我が家から職場という名の戦場に出動中ということは、この男性の戦いの場はかなりの遠方にあるのだろう。
負債を払い終わる頃にはすでに戦死しているのではと焦燥させる、一般人には気の遠くなるようなホームローンでも組んでこの郊外に家でも建てたのかもしれない。トボトボと歩くその足取りと背中に深い哀愁が漂っていて、何だかとても痛々しく見えた。そんな心配をしながらその後姿を見送るとすぐに次の顔見知りが現れる。
「あっ、おはようございまーす!」
「おはようさん。あんたはいつも元気だねぇ」
朝食前の時間を持て余してここに散歩に来ていると思われる、どことなく物憂げな顔の初老の男性が感心した顔で理子を眺める。
「はい! それだけが取り柄なんです!」
「そうかい、そうかい。それはいいことだ」
老人はうんうん、と頷く。
理子を見る眼差しは可愛い孫娘を見るようなそれと同じで、皺だらけの顔にさらに多くの皺を寄せ集めて老人はゆったりと微笑んだ。
現在、理子が顔馴染みになっているのはこの四人だ。
欲しかった念願の小型犬をようやく買ってもらい、こうして早朝に公園に来るようになってからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。だが、理子はまだ自分と同じ年代の人間をここで見かけたことが無い。
ヌーベルに引きずられながら園内にある大きな池を一周し始める。
ちょうど半周した頃、ヌーベルの足取りがさらに速さを増し、一瞬身体が前のめりになった。
「ちょっとヌゥちゃんってば! そんなに急がないでゆっくりお散歩しようよ!」
だが、前方に大いに自分の興味を惹く対象物を見つけてしまったヌーベルは、飼い主の命令など何処吹く風、といった様子でどんどん先へと突き進んでゆく。
「ちょっとヌゥちゃん!」
握っていたリードを力をこめて引っ張った。青いリードがピン、と一直線に張り詰める。
細く非力な理子ではあるが、さすがにミニチュアダックスフンドを抑えることぐらいは何とか出来る。強引に止められたヌーベルはクゥンと寂しそうな鳴き声を一つあげ、恨めしそうに飼い主を見上げた。そして「ほらあれを見てみなさい」と言いたげに少し離れた池のほとりにフイと鼻を向ける。
「なに? ヌゥちゃん、あっちに何かあるの?」
ヌーベルの見ている方向に理子も目を向けてみる。そして何度か目を瞬かせた。
でもそれは幻ではないようだ。何度瞬きをしてみても目の前のその光景は変わらない。
少し先にある、池の側に設置された背もたれ付きの大きなウッドベンチ。
そこに若い男が腰を掛けていた。
手には何かの雑誌を持っており、熱心にそれを読みふけっているようだ。遠目だったが、目を伏せて雑誌のページを見つめるその横顔はなかなか整った顔をしている。
早朝にこの公園に来るようになって初めて出会った若い人間、しかも異性。……となると、意思に関係なく鼓動が段々と早まり始めているのも当然と言えば当然の成り行きだ。
ヌーベルが “ ねぇねぇ理子ちゃん、あの人にも挨拶してみようよ! ”と言いたげにワン、と強く吠えた。
「う、うん、分かったからゆっくり行こうね、ヌゥちゃん!」
飼い主の言葉にヌーベルはその胴長の体をブルン、と一度だけ大きく震わせる。まるで「了解しましたよ」と答えたかのようだ。
ヌーベルがまた急に走り出さないようにリードに気を配りながらも、少しずつ距離が縮まっていくその人物に遠慮がちに、しかし何度も熱い視線を注ぐ。
なぜか一番最初に頭に浮かんだ彼のキャッチコピーは 【 優しい、らいおん 】。
髪の色は鮮やかなレッドブラウン。少々大胆なカラーリングだ。
羽織っているハーフコートが黒なので余計に際立って見える。少々クセのある髪なのか、わずかにウェーブがかった長めの髪はトップからサイドにかけて緩やかに流れていた。
傍らにはコーヒー缶がある。
でもその缶が今時あまり見かけないロングサイズ缶なので、この人物が甘党なのだということがそこから伺えた。
少しずつ狭まる距離。深呼吸をし、落ち着け、落ち着け、と自分に暗示をかける。
女の子を幾つかのタイプに分類した場合、理子は “ ボーイッシュ系 ” に属する少女だ。
身長百六十五センチ。ショートカット。ちょっぴり男勝りなはつらつとした性格。
しかしボーイッシュ系でもそこは十六歳の乙女らしく、彼氏がいたらいいな、とはもちろん思っている。
だが身体の凹凸こそかなり少なめなものの、くりっとした瞳に真っ直ぐに通った鼻筋、そしてきめ細かな肌を持つ理子の容貌を見れば、「素敵な彼氏をゲット」という野望は傍から見るとあっさりと達成できるのではないかと誰もが思うところだ。
だが素敵な異性との遭遇率が極端に悪いのか、元々縁遠い呪われた体質なのか、理子は「あぁんかっこいい彼氏が欲しい~!」と今日もどこかの中心でまだ出会えぬ恋人を求める日々を送っている真っ最中だ。
しかも乙女心は複雑なので、出来れば恋の始まりは劇的に始まりたい、という願望が理子にはある。重要キーワードはズバリ、「ドラマチック」。
幾つか凡例を挙げるならば、
「食パン咥えて必死に走っている所を死角から走ってきたカッコイイ男の子と衝突して、始まっちゃう恋愛」、
「傘を忘れて雨宿りしている所にカッコイイ男の子がそっと差し出してきた傘がきっかけで、始まっちゃう恋愛」、
「小さい時から仲の良かったカッコイイ幼馴染が実は自分をずっと思っていてくれたと分かり、始まっちゃう恋愛」
なんていう、ワンパターンストーリーの一場面ような恋愛願望を持っていたりするのだ。
だが現実に即して考えてみると、
食パン咥えて人の往来が多い通りを疾走なんて真似は恥ずかしくて出来ないし、
最近は秋晴れが続いていてこのところ雨もなかなか降らないし、
ましてやカッコイイ幼馴染なんていう存在もいない。
だからこそ今のこのシチュエイションは理子にとってまさに千載一遇の好機であり、チャンスの女神の前髪がまるで南京玉すだれのように目前に垂れ下がってきた、と言っても過言ではない。是非ここでその長い前髪すべてを引っこ抜いてスキンヘッドにするくらいの勢いで、力強くがしっとチャンスをつかみたいところだ。
再び熱視線を池のほとりに向ける。
長い足を組んでベンチに座っているその男は完全に手元の雑誌に目を奪われている。理子やヌーベルがどんどんと近づいているのにその気配に気付きもしていない。
理子は一人、激しく悩む。
あの青年が何を見ているのかが気になってしょうがない。
それは可憐な少女の胸に湧き起こったちょっとした好奇心。現在歩いている道から一旦横にずれて、後ろ側の道に移動してみた。そして背後から青年の側に近づき、後ろからそっと手元の雑誌を覗いてみる。
「いぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
雑誌の中身を見た理子の口からなんとも奇妙な叫び声が上がった。
その声に青年が振り返る。
赤茶系のミディアムヘアは昇る朝日に照らされてさらに赤みが増して見えた。その姿はどことなくだが赤いたてがみを持つ若い雄ライオンを彷彿とさせる。だが鳶色の瞳は優しそうな光を湛えていて、百獣の王に例えるにはそこはあまり似つかわしくない部分かもしれない。
至近距離であらためて見ると、童顔気味ではあるが少し下がり目の柔和なその顔つきは、横からだけではなく、正面から見ても確実に二枚目の部類に入る顔だ。
顔を強張らせ、固まってしまっている理子を青年は不思議そうに見つめている。
すかさずヌーベルが男の足元に駆け寄り、挨拶代わりに一度だけ吠えた。すると青年は身をかがめ、優しい眼差しでヌーベルの頭をゆっくり二度三度と撫でる。頭を撫でられたヌーベルはちぎれんばかりに尻尾を何度も振り、ハッハッと荒い息を吐きながらその喜びを全身に表し続けている。
青年はもう一度後ろを振り返り、雑誌から理子に完全に視線を移した。
「おはようございます。可愛い犬ですね。貴女はこの辺りにお住まいなのですか?」
それはとても慇懃な挨拶だった。
穏やかな声に丁寧な言葉遣い。ジェントルマンの資質は十二分にありそうだ。
しかし理子は引きつった表情のまま、まだ動けない。
「もしかしてご気分が優れないのでしょうか? 顔が赤くなってますよ。大丈夫ですか?」
青年は心配そうな表情で理子を気遣う。
「っ、っ、っ……!」
真っ赤な顔で何とか声を出そうとしたが、腹話術人形タロー君のようにただ口をぱくぱくさせるだけ。でも操作してくれる相方が横にいないせいでカッコつかないことこの上ない。そんな理子の様子に青年は微笑んだ。
「変わったお嬢さんですね」
笑うとさらに幼く見える。ライトフレグランスをつけているようで、ほのかに香るそれはマスカットの香りによく似ていた。
「……あっ、あっ、あな……た……!」
とりあえずそこまでは声を絞り出せた。しかしその後の言葉は慌てて飲み込む。その方が賢明だと咄嗟に判断したからだ。その代わり、心の中で目一杯に叫ぶ。
( こっ、この人ッ、きっとヘンタイだぁぁぁぁぁぁ────ッ!! )
飲み込んだ言葉を自分の中だけで叫び、理子は男の手元の雑誌に再び視線を向ける。その雑誌は某女性ファッション雑誌で、青年が熱心に読んでいたページは女性の矯正下着がビッシリと掲載されているランジェリーの特集ページだったのだ。
ブラ、ブラ、ショーツ、ショーツ、ブラ、ブラ、ショーツ、ショーツ、ブラ、ブラ……!!
言ってて嫌になるくらい、規則正しく掲載されているランジェリーラインナップ。すべての色を網羅しているのでは、と思わせる、両面ページに広がるパステルからビビットまでのその多彩なカラーバリエィション。もちろんその豊富な色の正体は全部下着。間違いない。
モデルも数人、写っている。当然の如く全員うら若き美女だ。この女性の中の誰かを眺めていたのだろうか。
『 ボンッ!・キュッ!・BOMB!』
の非常に分かりやすいキャッチコピーを従えて、モデル達は腰をくねらせ、胸を突き出し、その妖艶なボディラインを惜しげもなく、というよりは見せつけるように晒している。まるでこの矯正下着をつければあなたもすぐにこんなナイスバディになれますよ、とでも言いたいかのように。
( ── どどどどどうしよう!! タイヘンだ! ヘンタイだ! こんな朝っぱらからヘンタイに遭遇っ! こんな下着ページを穴の開くほどじぃぃぃぃぃーっと見つめていた、超ヘンタイ男に遭遇っ! とととっ、とにかく逃げなくっちゃ!!)
脳内判断指令に迅速に従い、とにかく一刻も早くここから逃げよう! と怯えた理子がヌーベルのリードを引っ張った時。
「あぁちょうど良かったです」
青年は今まさに頭上に広がっているこの清々しい秋空のような、一点の曇りも無い爽やかな笑顔で立ち上がった。素材はカシミアだろうか、質の良さそうなハーフコートの裾が大きく翻る。そして青年はそのまま理子に近づくと明るく言った。
「あの、貴女が今着けておられるブラをちょっと僕に見せていただけますか?」
「ヘヘヘヘヘンターイッ!!」
少女の叫び声と共に、早朝の公園に威勢のいい平手打ちがこだましたのはその二秒後のことだった。