第9話 健太 Ⅰ 恋の悩み 2
彼女は本当にいい女だったと思う。俺にはもったいないくらいの女性だった。
だからかそれ以来、彼女はいない。積極的に作ろうとも思わなかったが、少し前に三十の大台に乗ってしまった。これは生涯独身も覚悟しなければならないか、という気分になってしまっている。先日思わず、よく考えもせずに個人年金保険を契約してしまった。
まあそんな感じで、結婚の予定がまったくないことが目下の悩みといえば悩みか。しかし、もう少し年を取れば深刻な悩みに発展するかもしれないが、今のところは大したことはない。
あとはもうひとつ、気に掛かっていることがあるといえばあるが、それも誰かに相談したいと思うようなことではない。
なのになぜ、俺は水を買いに行ったはずのコンビニで、ビール缶を四本も買ったのか。しかも500mlだ。いつもは350mlしか買わないのに。そしてどうして、神社にお参りなどしてしまったのか。こんな夜中に。
ただ、どうしようもなく。コンビニでビール缶が並んでいるのを見た瞬間、試してみたい、となぜか思ってしまったのだ。
妖精に、会いたい。新天地公園に現れるという妖精に。
500mlの冷えたビール缶を二本以上。公園の隅にある小さな神社にお参り。そして今から行くベンチに座ると、妖精が悩みを聞いてくれるというのだ。驚くほど馬鹿馬鹿しい。
そもそも自分は、こんな呪いめいたことをするような人間だっただろうか。酔っているからだろうか。部長もかなり飲んでいたが、付き合った俺もそれなりに飲んだ。そこそこ酒には強いほうだと思っていたが、もう三十歳だ、弱くなってきたのかもしれない。
俺は電話ボックスがあった場所に一番近いベンチに座ると、雑に、ビールの入ったレジ袋を右隣りに置いた。
あたりにはそれなりに人がいる。千鳥足のサラリーマンもいるし、大学のサークル仲間といった風情のグループもいる。
それらを眺めながら、ぼうっと考える。
だいたい、なぜ神社なんだ? 妖精を呼び出すのに神社っておかしくないか? それに、ビールってどういうことだ。お神酒ならともかく、ビールってイメージと違い過ぎないか?
そんなことを考えていると、自分のやっていることがひどく滑稽な気がしてくる。
まあ妖精を呼び出そうなんて滑稽以外のなにものでもないが、少々惨めな気分になってきた。
そもそも俺は、どこで妖精の話を知った? 二軒目の麻莉奈ちゃんか? 三軒目の紗耶香ちゃんか? そのあたりから聞いたような気もするが、思い出せない。
それとも、夢の中で?
そこに思い至って、俺はぶるっと頭を振る。
まずい。本当に酔いが回ってしまっているみたいだ。おかしなことを考え始めている。いや、妖精を呼び出す時点で、かなりおかしなことを考えているのだが。
と、思考がぐるぐるとループし始めた頃。
「いらっしゃいませー」
突如、右隣りから女性の声がした。ぎょっとして慌てて右に顔を向けると、やたら化粧の濃いお姉さんが腰掛けていた。いつの間に。気付かなかった。
ひらひらした素材の花柄の派手なスーツを着ていて。耳には大きな輪っかのピアスをしていて。足元は、よくそれで歩けるな、と思うようなピンヒールを履いていて。背中の中ほどまで伸びた茶髪は、ゆるやかにカーブを描いている。
ホステスだ。一目で、そう思った。
「ええと……」
「ウチ、ママのあやかです。よろしくー」
女性は真っ赤な唇の両端を上げて、にっこりと笑ってそう挨拶してくる。
「よ、よろしくお願いします?」
呆然としすぎて、なんだか間抜けな返事をしてしまった。
彼女はにこにことした笑みを浮かべてこちらを見ている。
「同い年くらいなんかな? ええ男じゃねー。モテるじゃろ」
褒めてもらって嬉しくないこともないが、ホステスのトークというにおいがプンプンして、素直に喜ぶことはできなかった。
笑顔のままの彼女に向かって、戸惑いつつも訊いてみる。
「ええーと、なにかご用……ですか?」
どうして他のベンチも空いているのに俺の隣に座ったのか。客引きだろうか。けれど確か広島でも条例で禁止されているのではなかったか。単純に、このベンチで待ち合わせかなにかをしていたのに、俺が先に座っていて邪魔だった、とかだろうか。でも、すぐ近くのベンチが空いているのに。
……いや。すぐ近くどころじゃない。すべてのベンチが空いている。
俺は慌てて、あたりをキョロキョロと見回す。ベンチだけではない。先ほどまで、この公園にも人がまばらではあるがいたというのに、今は人っ子一人いない。中央通りのほうに目を向けても、車の一台も通っていなかった。繁華街の喧騒というものが、一切なくなってしまっている。
そんな馬鹿な。酔っているのか? そこまで飲んだか?
そんなことをぐるぐると考えていると、女性はケラケラと笑った。
「いやじゃー、用があるんはそっちじゃないん?」
意味がわからず、呆然と女性を眺める。すると女性は小首を傾げて口を開いた。
「呼んだんじゃろ? ウチを」
「……は?」
そんな呆けた声が口をついて出た。呼んだ。確かに、呼んだ。けれどそれは。
「俺は……妖精を……呼んだつもりで……」
口に出すと、その間抜けさが際立つ気がした。なにを馬鹿なことを言っているんだ。いやその馬鹿なことをしようとしたのは俺なのだが。
「うん、そうじゃろ?」
だが彼女は嘲笑することはなく、そう肯定する。
「じゃけえウチが来たんじゃけど」
「はい?」
「妖精、入りまーす」
女性はそうおどけたように明るい声を出し、そしてまたケラケラと笑った。
俺の思い描く妖精は、もっと神秘的な存在で、間違ってもホステスっぽい風貌はしていないと思うのだが、周辺の不思議な状況からして、もしかしてこれが正解なのか。
わけがわからなくて頭を抱える俺をよそに、妖精、もとい、あやかママは俺が持ってきたレジ袋の中身を覗き込むと、声を弾ませる。
「やったあ、四本あるわ」
その明るい声を聞いていると、なんだかいろんなことがどうでもよくなってきた。
考えられるとしたら、あやかママはこの妖精の話を知っていて、それを試そうとしている馬鹿な男を見つけて、からかうことにしたのではないだろうか。人通りに関しては、もう夜中なのだし、そういうこともたまにはあるだろう、と納得した。
というか、納得しておこう。いつまでも頭を抱えていても仕方ない。
「ありがとねー」
ビールをそれぞれの手に持って掲げると、あやかママはにっこりと笑う。
「二本以上、いうことにしとるんじゃけど、ちょうど二本の人が多いいんよね」
多少、不服そうにそんなことをのたまう。俺の聞いた話では、確か、500mlのビール缶を二本以上持っていくこと、ということになっていたはずだ。
「以上、なんだから二本でもいいのでは?」
「ほうよ。ほうなんじゃけどね」
言いながら一缶をレジ袋の中に戻すと、あやかママは手に残った缶のステイオンタブを、なんの躊躇もなく開ける。プシッという音が公園に響いた。
「いただきまーす」
「……どうぞ」
呆然としたままの俺を尻目に、あやかママはゴクゴクとビールを飲む。そしてプハーッという漫画みたいな息を吐いた。
「沁みるわー」
「そうですか……」
ぼうっとしたままの俺のほうに視線を移すと、あやかママは小さく首を傾げた。耳元の輪っかのピアスが揺れる。
「飲まんのん?」
そう問うて、レジ袋をちらりと見やる。
「あ、ああ、じゃあ、いただきます……」
いただきます、ってなんだ。俺が買ってきたのに。と思いつつも、ガサガサと袋を探るとビール缶を一本取り出す。あやかママと同じようにタブに手を掛けて開けると、それと同時にこちらにビール缶が差し出されてくる。
「かんぱーい」
「……乾杯」
戸惑いながらも少し缶を差し出して、あやかママの持っているビール缶に当てた。カシッという鈍い音がする。それから飲み口に口を当て、缶を傾け、ビールを喉に流し込む。
そうしているうち、まあいいか、という気分になってきた。妖精だろうとホステスだろうと、どっちでも構わない。この胸の内にあるモヤモヤが吐き出せるのならば。
そう思ってビール缶を口から離したところで、あやかママに話しかけられた。
「広島の人じゃないん?」
「わかります?」
苦笑しながら答える。広島に来てもう十二年と長いが、特に広島弁がうつったということもない。ただ、聞き慣れはしてきた。
「うん、広島弁じゃないし、細かい発音がちょっと違うかねえ」
「大学からこっちなんですよ。そのまま就職して」
「広島弁、慣れた?」
「まあ、慣れましたね。最初はちょっと怖かったかな」
「ようそう言われるんじゃけど。広島弁、そがあに怖いかねえ」
「なんかちょっと怒られている気がします」
「やっぱり」
そして、あはは、と声を上げて笑う。
少し、気が抜けてきた。あやかママがずっとにこにことしているせいかもしれない。気を張らなくていい、とそんな気がした。
「あ、でも、広島に来てからすぐの頃、いきなり怒られたんですよ。それで余計に怖いのかもしれません」
「いきなり? なにやらかしたん」
「お好み焼きのこと、広島焼きって言ったんです」
そう答えて苦笑する。大学に入って、まだ周りとの距離を掴みかねていた頃の話だ。
やはり広島に来たからには食べておいたほうがいいだろう、とは思っていた。ガイドブックを見ても、広島風お好み焼きのことを書いていないものはない。ネットで調べても、もちろんお好み焼きを勧めていないガイドサイトはない。
なのに、どこのお店がいいのかは、よくわからない。候補が多すぎるのだ。大学の近くのアパートで独り暮らしを始めてから、あたりを歩いてはみたが、やっぱりよくわからない。そこかしこに店はあるが、どうせなら美味しいと評判のところがいい。これは地元のヤツらに訊いてみるが吉だろう、とそう思った。
だから、授業が終わったあとの教室で、なんとなくクラスメートたちが集合している場で、俺はこう質問した。
「広島焼きって、どこのお店が美味しいか知ってる?」
と彼らを見回して訊いたら、その中の広島県民たちは一様に眉をひそめたのだ。一瞬にして教室内がしんとなる。
俺と同じように他県から来た人間もその場にはいたので、この空気の変わりように彼らと一緒に顔を見合わせた。
すると一人が口を開いた。
「『広島焼き』なんてものはない」
と、多少ふてくされたような口調で。広島風に言えば、『はぶてられた』。
「なんなんなら、そりゃあ。お好み焼きぃ言えや。せめて広島風お好み焼き、じゃろ」
なんだかものすごく怒られたような気がして、まったく反論できずに口ごもった。
その話をすると、あやかママはまた声を出して笑った。
「広島焼きはねえ、怒る人はものすご怒るけえねえ」
「みたいですね。でもまあそのときは、本気で怒っていたわけでもないようなんですけど」
実際、ふてくされていたのはそのときだけで、話題が変わった瞬間ににこやかになっていたし、そいつとは今でも付き合いがある。そのあともからかうように、お好み焼き屋を見かけると、「広島焼き?」だなんて訊いたりして、わざとらしく唇を尖らせるのを見て笑ったものだった。
「ウチは最初、広島焼きがなにかわからんかったよ」
「わからなかった?」
「うん。広島焼きってなに? 知らん、思うて。観光客用の言葉なんじゃろうね」
とりとめのないそんな話をして。わずかに訪れた沈黙の時間に、あやかママはぐいっとビールを飲んだ。
「ほいで?」
「え?」
「ウチを呼び出したのは、なんで?」
足を組んで、ビールを持った手を軽く膝の上に乗せて。どこか遠くを見て、少しばかり口の端を上げて、あやかママはそう訊いてきた。




