第11話 健太 Ⅰ 恋の悩み 4
それからは、表面上は何事もなかったかのように日々は続いた。
元木さんがいつもポツンと一人でいること以外は。
あの一番年上の女性社員には、事が大きくならないようにと部長から説明したらしいが、どうも納得している様子ではなかったらしい。
俺にも説明があって、それなら相手が既婚者だと気付かなくても仕方ないのかな、とは思った。
というか、どうでもいい。冷たいようだが、正直、そんなに興味が湧く話ではなかったのだ。他人の色恋沙汰に首を突っ込むほど野暮ではないし、暇でもない。
「木佐貫課長は、なんかスカしてるんすよねー」
と以前、言われたことがある。いつまでたっても広島弁にならない喋りもあるのだとは思う。けれど、そうして仕事中に人の噂話で盛り上がったりするのがスカしていない、ということなら、それでいい。
元木さんは、いつも俯いたままだった。いくら興味がないとはいえ、その姿を見ているとなんだかイラついた。自分ではっきりと説明すればいい。そして陰湿なイジメのようなことは止めてくれと申し立てればいい。いつもそうやって俯いているから、周りも調子に乗るのだ。やっぱり知っていて不倫したから俯いているのだ、と思われてしまうのだ。
ある日、元木さんが一人で給湯室にいるところに出くわした俺は、それを口にすることにする。
「元木さん」
俺の声に彼女は顔を上げた。にこりともせずに、ただ目を瞬かせている。
「今、しんどいよな」
元木さんは俺の言葉に、またしても目を伏せた。
「いえ……そんなことは」
そうは言うが、この状況がつらくないなんてことはないだろう。今まで普通に仲良く……はなかったかもしれないが、うまくやってきた人間たちから突如、自分のせいではないことで無視されるのが平気な人間なんていないだろう。
「やましいことなんてないんだから、堂々としていればいい。噂なんてそのうち消える」
俺の助言に元木さんはピクリと肩を震わせ、そして小さく頷いた。
わかっているのだろうか、とまたイラついた。堂々と背筋を伸ばして凛としていれば、きっと周りの態度も変わる。彼女はそうするべきだ。
そこまで考えて、あれ、と思う。俺はずいぶん傲慢な考え方をしているのではないだろうか。いつの間に、こんなに思い上がったのだろうか。部下だから、見下しているのだろうか。おどおどしているから、押さえつけようとしているのだろうか。可哀想な人間に、手を差し伸べる自分に酔っているのだろうか。
いつから俺は、こんな愚かな人間に成り下がった?
「いや、余計なお世話だった」
こんな俺の忠告程度で急に意識を変えられるくらいなら、最初からそうしているのだろう。自分の言葉ひとつで他人の心を動かせるほど、俺は立派な人間ではない。そうするべきだ、などと上から目線で口出しできる立場にない。
「いえ……」
そうして元木さんはますます俯いてしまう。
なんだか自分がひどく矮小な人間の気がして、「とにかく、気にするなよ」とだけ告げて、その場を足早に去った。
◇
その頃から、なんとなく気が付いたら、元木さんの姿を目で探すようになってしまった。特に声を掛けたりするわけではない。ただ、平穏無事に過ごしているのを見かけて、ほっとするだけだ。
いや、それだけではなく、ただ単純に動きを目で追っているだけだったりもする。そしてハッとして慌てて目を逸らし、いったいこれはなんなんだろう、と自問自答する。自分のことながら、わけがわからない。
そんな中、男性社員の中には単純明快な視線で彼女を見る人がいることを知った。女性社員たちが退社したあと、残っていた男性社員たちが喋っていたのだ。
「ワシ、あの話聞いてから、ちぃと見る目変わったわ」
「わかる!」
「なんかエロいんよな」
そう話し合って手を叩いて笑っている。なるほど、そういう視線か。事が不倫なだけに、そちらに意識が向いたのだろう。
これは一応注意しておくべきか。本人がここにいないとはいえセクハラだろう。
「お前らな」
そう口を出しかけたところでマズいと思ったのか、彼らは肩をすくめて散っていった。どうせ陰で、「やっぱスカしてるよなー」などと嘲るのだろう。
だがそうした彼らを見て、俺が元木さんをなぜ意識しているのかわかってしまった。なんてことだろう。わかりたくも、なかったのに。
◇
最初に元木さんが不倫していたと聞いて思ったことは、意外だな、ということだった。
それまでは、真面目に仕事をするいい子だ、と思っていたくらいだった。元木さんに対してはそれくらいの認識しかなかった。部下の一人である女性社員。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど急激に、俗な話と結びついた時点から見る目が変わっていった。そう、変わっていったのだ。
「エロい」と笑う彼らと俺は、なにひとつ変わりはしない。人のことを蔑む立場にない。むしろ、おおっぴらに言える彼らのほうが、まだやましい気持ちがないだけマシかもしれない。
俺は、彼女に欲情している。机に向かっていて上半身を少し前に倒したときに見えるうなじが。席を立とうとするときに見える、制服のタイトスカートから伸びる足が。電話を取るときに伸びる指先が。急激に扇情的なものに見え始めていた。
これはもしや、隣の芝生は青く見えるというものではないか。他の男のものになったというその事実が、急速に俺に彼女を女として意識させたのだ。とんでもなく自分勝手な話でもあるが、不倫なんかをさせたその男のどこが良かったのかと思うにつけ、それなら俺でもいいじゃないかと、そう思うようになった。
それに、目の前にいる俺にはまったく興味を示さず他の男と付き合ったという事実が、どうしたわけなのかプライドを傷つけた。今まで一切、口説いたこともないのに。女性として意識したこともないのに。特別な配慮を彼女にしたことすらないのに。どうして自分はイラついているのだろう。いくらなんでも自己中心的すぎる。
罪悪感を打ち消すために、俺は彼女に対して優しく接するようになったのだ。不倫なんて信じていない、と殊更に強調もしたのだ。大きなお世話どころではない。自分の醜い心を隠すためのカムフラージュだ。
そんなはずはない。自分はそんなに酷い人間ではない。それならなぜ、あんなに傲慢なことが言えたのだろう。いや、結果的に上からの物言いになってしまったが、それでも彼女のためを思って助言したはずだ。俺はそう自分自身に言い聞かせた。
そうだ、こんなふうにこれからも自分の醜い想いを打ち消していこう。このまま飲まれてはいけない。
そう思った矢先に、退職願の提出だ。
逃げられる、と思った。俺は低俗な男のまま、彼女に逃げられるのだ。醜い心を、ついぞ打ち消す機会もないまま。
◇
かいつまんで元木さんへの気持ちを話し終え。ちらりと横を見ると、あやかママは一本目のビールを飲み干したところだった。
「二本目も貰うねー」
軽い口調でそう声を掛けてくると、レジ袋をガサガサと鳴らしながら二本目のビールを取り出し、さっそくタブに手を掛けた。
今、とても真剣に心の内を打ち明けていたつもりだったのだが。
「……聞いてます?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」
「割と」
「いやじゃ、聞いとるよ」
小さく笑いながらあやかママは答え、二本目のビールに口を付けた。そしてまた、プハーッと漫画みたいに息を吐いてから、こちらを向いてにっこりと笑った。
「まあ恋愛なんて、そんなもんかもしれんし」
「恋愛、なんですかね」
「恋の悩みです、って自分で言うたくせに」
にやりと笑ってそんなことを口にする。なるほど、確かに俺の話はちゃんと聞いているらしい。
あやかママは、俺が置いたままにしているビール缶を指差した。
「まあ、あんたも飲みんちゃい」
「そうですね」
俺は脇に置いてあった自分のビール缶を手に取ると、それを口につけて喉に流し込んだ。飲まなきゃやっていられない、そんなところか。
あやかママは自分の頬に人差し指を当て、少し考えるように斜め上を見てから訊いてくる。
「ええと、お名前、聞いとらんよね。教えてもらってもええ?」
「木佐貫健太です」
「健太くん。うん、覚えた!」
そうはしゃいだ声を上げると、頷いている。なんというか、力が抜ける人だ。なんでも言っていいような、どんなことでも受け止めてくれるような、そんな気がしてくる。
だから俺はさらに言葉を連ねた。
「でも、それって……下衆ですよね」
「下衆? なんで?」
驚いたようにあやかママは目を見開く。
「いや恋愛って、そういう……なんというか……その……情欲が先立つというのは……」
口にするのも恥ずかしい。俺は慌ててまたビールをグビッと飲んだ。すると隣のあやかママは、くすくすと笑い出す。
「案外、真面目なんじゃね」
「案外」
真面目には見えないのか、と苦笑する。
それからあやかママは、口の中を潤す程度、少しだけビールを飲んでから語り出した。
「あのね、ウチ、これでもけっこう友だちがおってね」
「は、はい?」
話がいきなりすっ飛んだ。俺の情欲の話はどこに行った。
「よう恋愛の相談されるんじゃけど」
しかしあやかママは構わず続ける。まあ、なんらかの意図はあるのだろう、と俺はその話に耳を傾けた。
「女はねえ、割とあるパターンとしちゃあ、優しい人とイケメンの人、とか。真面目な人と面白い人、とか。違うタイプの二人に口説かれとるんじゃけど、どっちがいいと思う? ってよう聞かれる」
なんと贅沢な悩みか。
そしてあやかママはこちらを振り向いた。大きなピアスがゆらりと揺れる。
「ウチはね、そういうときは、なんて言うか決めとるんじゃ」
「なんて言うんです?」
「どっちと寝たいん? って」
俺はその返答に、口を半開きにしたまま固まってしまう。女性の口からそんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。
「寝たい男が好きな男よ。単純明快」
いったいなにを悩んでいるんだ、とでも言いたげな顔をして、あやかママはまたビールをぐびりと飲んだ。しかし、それを女性に対して口にするのか。なんと明け透けな。訊かれたほうも驚くのではないか。けれど確かに、わかりやすい。
「それは、女性の相談の場合なんですよね」
「うん」
俺の質問に、あやかママはこくんと首を前に倒した。
「じゃあ、男性の相談の場合は決めているんですか」
「決めとるよ」
「なんて」
「他の男に抱かれて欲しくないのはどっち? って」
なるほど。そうきたか。
「どっちも、って言う人、多いけどね!」
そう付け加えてケラケラと笑う。
「どっちかっていうと、って突っ込んで話したら、たいていは心が決まるみたいじゃわ」
そして組んだ足の上に肘をついて、こちらを覗き込むようにして見てきた。思わず、身体を少し引いてしまう。いろいろと見透かされているような気がする。俺よりも、俺のことを知っているみたいな。さっき会ったばかりなのに。
「低俗じゃあなんじゃあ言うても、身体の相性はやっぱり大事じゃけえね。触って欲しくもない人と付き合えるわけないじゃろ。健太くんの場合、寝たい女が好きな女で。他の男と寝たのが気に入らない。そういうことなんじゃないんかねえ?」
そう確認してきて、口の端を上げる。
「恋心とかそんなん、わかりづらいわ。深く考えたら余計にわからんようになるわ。好きな女とは寝てみたい、それでええじゃろ」
あやかママは軽く肩をすくめた。まあ、一理ある。
「確かに単純明快ですね」
「あんまり考えんさんな。面倒くさい」
「俺の恋心、面倒ですか」
「やっぱり恋の悩みじゃわ」
あはは、と笑ってあやかママは続ける。
「恋愛の始まりなんか、いろいろあるに決まっとるわ。綺麗な始まりじゃないといけん、なんて法律はないわ。好きになったら、きっかけなんて、どうでもええことよ」
軽い口調で、あやかママはそう断じる。
そうか。そこまで考え込むことでもないか。なんにしろ、まだ始まってもいない。スタート地点に立ってもいない段階で、ぐちゃぐちゃと考えても仕方ない。まずは、歩き出すか。そう思った。
隣にいる、そういう気持ちにしてくれた恋愛マスターにふと、訊いてみる。
「あやかママは、恋人は?」
「今はおらんよー」
「ああ、面倒そうですもんね」
そう返すとあやかママはこちらをちらりと見て、唇を尖らせる。それから、右腕を振り上げて俺の頭にチョップをくらわせた。
「痛っ」
「ぶちはがええ」
死ね、ではなかったが、どうも俺は女性から、頭上にチョップをくらうようにできているらしい。
あやかママはそっぽを向いて、そしてまたビールを口に運んだ。俺はそれを見て、小さく笑って手を振る。どうやら誤解されたみたいだ。
「違う違う。あやかママのほうが、誰かと付き合うのを面倒くさがりそう、という意味ですよ」
するとあやかママは納得したのかどうなのか、片方の口の端を上げた。
「ほいならええわ。確かにウチは面倒くさがりよ」
「そんな感じします」
二本目のビールも終盤に差し掛かったらしいあやかママは、ビール缶の底を空に向け始めている。
「まあとにかく、ありがとうございます。すっきりはしました」
「そりゃあ良かったわ」
そう返して、あやかママは口元に弧を描く。
しかし、彼女はどうしてこんなところにいるのだろうか。
「あの、これって、営業、なんですか?」
「営業?」
俺の質問に、あやかママはこちらを向いて眉根を寄せる。
「呼び込みってヤツ」
「違う違う」
そう答えてひらひらと手を振る。
「でも、ご自分のお店、あるんじゃないですか」
「あるよー。あそこ」
ママは公園の目の前の、枯茶色の雑居ビルを指差した。
「あのビルの三階の一番奥にあるんよ。『エスケープ』っていうお店じゃけえ、行ったらわかるわ。高うないけえ、安心しんさい」
「やっぱり営業じゃないですか」
「別に、行きとうないんじゃったら行かんでもええよ」
少しふてくされたようにママは唇を尖らせた。俺は苦笑しつつ返す。
「まあ、そのうち」
「その部下って子でも誘って」
「来ますかね」
「さあ? そんなの、誘ってみんとわからんわ」
「確かに」
俺は自分の手の中にあるビール缶を眺める。
ひとまず誘ってみよう。振られればまた、行く方向も決まるだろう。まずは一歩を踏み出してみよう。面倒な、俺の恋に。
俺は残ったビールをグイっと飲んだ。すべてを飲み干して、あやかママのほうを振り返ると。もうそこには誰もいなかった。
「……え?」
俺は慌てて立ち上がる。あたりを見回しても、あやかママはどこにもいなくて。もうずいぶんと寂しくはなっていたが、千鳥足のサラリーマンや、家路に向かうためにタクシー乗り場に急ぐ人がちらほらと見えた。そして新天地公園にある時計を見上げると、針は夜中の三時を指している。
「え……?」
俺はすとんとベンチに腰を下ろす。
空になったビール缶二本と、まだ飲まれていない一本のビールが、レジ袋に入っていた。




