第一話:嵐の中の邂逅
山口直道、三十五歳。
食品メーカーの開発部で課長という職に就いてから、私の生活は「味」と「数字」に支配されていた。
新商品の試作、コスト計算、そして販路の拡大。
充実してはいたが、ふとした瞬間に、自分の人生がどこか無機質なレールの上の走行に過ぎないのではないかと感じることがあった。
あの日、私は新製品の原料となる高品質な小麦の視察のため、東北の山間部にある契約農家を訪れていた。
予定を終えて帰路に就こうとした矢先、季節外れの猛烈な爆弾低気圧が山を襲った。
視界を遮るほどの豪雨と暴風。レンタカーのワイパーを最速にしても、フロントガラスの先は混沌としていた。
「……最悪だ。今日は帰れないな」
溜息をつき、近くの避難所かホテルを探そうとスピードを落としたその時だった。
ヘッドライトの光の中に、激しく雨に打たれながら立ち尽くす、一人の女性の姿が浮かび上がった。
彼女は、脱輪したのか斜めに傾いた軽自動車の傍らで、途方に暮れていた。
傘は風で折れ曲がり、ずぶ濡れの服が体に張り付いている。
私は迷わず車を止め、彼女のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか! 車に乗ってください、このままでは低体温症になります!」
彼女は驚いたように顔を上げた。
それが、菜々美との出会いだった。
青白い顔をしながらも、彼女の瞳には強い光があった。
私の車に避難した彼女は、震える声で「ありがとうございます……。急に道路が崩れて、ハンドルを取られてしまって」と語った。
近くの宿はどこも満室か、停電で営業を停止していた。
やむを得ず、私は自分が辛うじて予約していた山麓の小さな旅館へと彼女を送り届けることにした。
道中、車内を流れる静かなジャズと、ヒーターの温もりが、張り詰めていた彼女の心を少しずつ解かしていったようだ。
「私は一ノ瀬菜々美といいます。地元の図書館で働いているんです」
彼女は少しだけ微笑んでそう言った。
その微笑みを見た瞬間、私の胸の奥で、長い間忘れていた「何か」が疼いた。
それは懐かしさのようでもあり、あるいは予感のようでもあった。
しかし、当時の私はそれが何であるかを知る由もなかった。
ただ、嵐の中で震えていた彼女を助けられたことに、言いようのない安堵感を覚えたのだ。
翌朝、雨は嘘のように上がり、透き通るような青空が広がっていた。
彼女は何度も頭を下げて去っていったが、私たちは互いの連絡先を交換していた。
どちらからともなく「無事に帰れたか確認し合いましょう」と言い添えて。
この偶然の、そして壮絶な出会いが、私の止まっていた人生の歯車を大きく回し始めることになるとは、まだ夢にも思っていなかった。




