平穏のち波乱
着替えがすんだ俺は、今度は居間に通された。
「おっ、目が覚めたようだね」
そこには、縁側から空を眺める一人の男。
ほとんど黒に近い深い緑の着物を着たその男の声に、俺は聞き覚えがあった。
「…宗也、だよな?」
「ん?その通りだが」
やはり宗也だった。
出会ってからずっと、鎧姿しか見たことがなかったため、着物姿だとどうにもイメージが違い、一瞬誰だかわからなかった。
「悪い。鎧じゃなかったから、一瞬初対面の人かと思った」
それを聞いて、宗也は豪快に笑いとばした。
「ハハハ!やっぱり私は鎧の印象が強いか!私が助けた『筒衣』の皆は、口を揃えて同じ事を言っていたよ」
どうやら、宗也の『黒鬼』姿の印象が強いのは、共通見解であるようだった。
「まあ座りたまえよ。お茶でも入れよう」
そう言って宗也は、居間の中央に置かれた、大きな座卓を指し示す。
「そうさせてもらうよ」
俺は、着物が皺にならないよう、注意を払って正座する。
「座布団が欲しければ、部屋の隅に置いてある。好きにつかってくれ」
そう言い残して、宗也は一度居間をでていった。
お茶を取りにいったのだろう。
俺は、一度部屋中を見回して、その隅に座布団を発見。
お言葉に甘えて、使わせてもらうことにする。
程なくして、宗也が戻ってきた。
その手には、お盆を持っている。
「さて、何か訊きたいんじゃないかい?」
俺の向かい側に座り、お茶を淹れながら宗也はそう訊ねてきた。
もちろん、訊きたいことは幾つかある。
まず訊きたいのは、
「ここは何処なんだ?」
無論、今いるこの場所は、と言う意味だ。
異世界であることは、すでに受け入れている。
「ここは、天ヶ原にある私の屋敷だ。天ヶ原、というのは、この世界に幾つかある国の名前だ。他にも幾つか国はあるが、ここいらだと天ヶ原と平坂が最大勢力だな」
答えと同時、俺の前に湯呑みが差し出される。
中を覗いて見ると、そこに注がれているのは、見慣れた緑茶だった。
「俺たちは、これからどうすればいい?」
皆が無事、ということで、今一番気がかりなのはそのことだ。
「当面は、こちらの世界で生活してもらうことになる」
お茶を啜りながら、宗也は答えた。
「やっぱりそうなるのか…」
となれば、問題は食料だろう。
食堂にある食材で、昨日は何とかなっただろうが、貯蔵庫の中身は有限だ。
そう長くはもたないだろう。
〈山菜とか、探さなくちゃいけないかな…〉
それはそれで楽しそうだ。
などと考えていた俺だが、宗也の言葉には続きがあった。
「しかし、君たちがこちらにいる間の生活は、可能な限りこの天ヶ原で支援する」
「えっ…いいのか?」
意外な申し出に、俺は訊ねかえす。
生活を支援してくれるのは、有り難い。
だが、そんなことをすれば、天ヶ原の人たちに負担がかかるんじゃないだろうか。
「もちろん、ただというわけではない。何らかの形で、君たちには仕事を任せることになるだろうし、洗濯や調理などの家事雑務や、食料の一部は自力で調達してもらうことになる」
「まあ、その話の後半は当然だよ」
生活を支援してもらった上、お手伝いさんをつけてもらうなどとは、誰も期待していない。
問題は、任される仕事の内容だが、
「なあ、俺たちに任せる仕事って、軍隊に入れ、とかじゃないよな?」
俺の言葉に、宗也はクツクツと笑ってこたえた。
「安心してくれ。君たちにしてもらいたいのは、そんなことじゃないよ。畑の収穫や大工仕事みたいな、人手が必要な時に手伝ってもらうだけだよ」
その言葉に、俺はほっと息をつく。
昨日はやむを得ずに戦ったが、戦うのが好きなわけではない。
それがないなら、俺が文句を言う筋合いはどこにもない。
「昨日私は、それを伝えるために、君たちの学園に行ったんだが…とんだ予想外の出来事があったからな」
こちらに来た矢先、山賊に襲撃されるは、美景先輩はさらわれるは、俺としては予想外でない出来事はなかった。
そこで、ふと思い出す。
「そういえば、学園は大丈夫かなぁ。また昨日みたいに、なってなきゃいいけど…」
美景先輩の騒動ですっかり忘れていた。
全員をグラウンドに避難させて、そこから皆がどうしたのか、俺には知るよしもなかった。
「それについても安心してくれ。学園には、腕のたつ『筒衣衆』を向かわせておいた。彼らで何とかしてくれているだろう」
宗也の言葉に、さらに俺は一安心。
ようやく、肩の力を抜くことができた感じだ。
と、その時にスッと音を立てて、居間の襖が開く。
そこに現れたのは、結衣さんだ。
「あっ、宗也君、お茶淹れたんですね。私の分もありますか?」
「ああ、あるぞ」
そう言って示す、座卓の上に置かれたお盆。
そこには、まだ使われていない湯呑みが、三つおいてある。
結衣さんは、居間に入って襖を閉めると、スタスタと座卓にやってきて、宗也の隣に座った。
「宮前君、着物の具合はいいようですね。よくお似合いですよ」
結衣さんのような美人に褒められると、何故か普通に褒められた時よりも恥ずかしい。
「その…有り難うございます…」
俺は、顔を逸らして礼を言う。
その様子を見て、結衣さんはクスクスと上品に笑っている。
「フフ…。…ああ、そう言えば、お連れの方が目を覚ましましたよ」
「本当ですか!」
俺にとって、今こんなに嬉しい報せはない。
宗也も結衣さんも、自分達によくしてはくれるが、いかんせん出会ってからの時間が短すぎる。
正直に言うと、気の許した相手がいない見知らぬ場所にいる、というのは、心細かったのだ。
「ええ。とは言っても、目を覚まされたのは村上さんだけですけど…」
そうだとしても、嬉しい報せには違いない。
「それで、後は任せてほしいと言うので、お二人の分の着替えと、ここの場所だけ教えて、お言葉に甘えさせていただきました」
話し終わると、結衣さんも、いつの間にか淹れられていたお茶を口に運ぶ。
訊くことのなくなった俺も、ようやくのことながら、お茶に口をつける。
しばらくの間、居間の中に平穏な空気が漂い続ける。
このまま、いつまでも続くかと思われたこの雰囲気だが、それは突然にして破られた。
平穏な空気を突如として破ったのは、ドカドカという勇ましい足音。
それに続いてペタペタという足音も聞こえてくる。
「二人とも、起きたようだな」
宗也の言葉の直後、居間の襖がガラリと乱暴に開かれる。
そこに現れたのは、すっかり元気になった美景先輩と薫先生。
美景先輩は山吹色の、薫先生は淡い桃色の着物を着ている。
更にはズカズカと、居間の中に侵攻。
美景先輩は俺の横で足を止めた。
「晶君!私は君に礼を言わねばらなない!」
礼を言わねば、とは言っているが、俺はなんだか怒られるような気分になっていた。
「ふ、深水さん…、着物着ているとき位はもう少しおしとやかにですね…」
困った表情を浮かべながら、薫先生も入ってくる。
その際、襖をキッチリ閉めることも忘れない。
「晶君、聞いているのか?」
美景先輩の言葉に、俺はそちらを向き直り、姿勢を正してしまう。
「な、なんでしょうか」
「?そう堅くならずとも、よいと思うのだが…」
と、美景先輩は俺の正面に正座する。
その動作は洗練されており、先ほどの乱暴な脚運びが嘘のようだ。
「昨日は本当に助かった。改めて礼を言わせてもらう。ありがとう」
目の前で、深々と頭を下げられた。
「ちょっ…、頭上げてくださいよ、美景先輩」
俺が勝手にしたことで、こんなにも感謝されるのは、なんだか悪い気がする。
たぶん、学園で俺に同じことをされた宗也も、似た気分だったんだろう。
「いや!あげん!」
尚も、頭を下げ続ける美景先輩。
「連中に捕らわれていた時、私は諦めていたのだ。そこから救ってくれた君には、本当に感謝しているんだよ」
美景先輩の声は、真剣そのものだ。
ならば、俺も同等の態度で応えなくてはなるまい。
「いえ、俺はただ、助けなくちゃいけない、と思って、勝手に動いただけです。それに、俺一人じゃ、何もできなかった」
そうだ。俺一人だと、何もできてはいなかった。
無事に、美景先輩を助けられたのは、薫先生の心強い応援と、宗也の多大な協力があったからだ。
礼を言われるならば、その二人だろう。
「それでも…」
俺の言葉に、美景先輩はようやく頭を上げてくれた。
「私は、その気持ちが嬉しいのだよ。本当にありがとう」
再び見えた美景先輩の顔には、滅多に見ることの出来ない満面の笑みが浮かんでいた。
「ところで、」
話が終わるのを見計らって、結衣さんの声がかかる。
「着物の具合はいかがでしょうか?私のものなので、お二人の趣味に合わないかもしれませんが…」
「いえ、とてもいいですよ。具合も、趣味も。よかったんでしょうか、お借りしてしまって…」
今まで静観していた薫先生が真っ先に答えた。
「それは何よりです。先ほども、言いましたが着ていられた洋服は、しっかり洗濯してからお返ししますので、それまでは、それをお召しになっていてください」
「本当に何から何まで、有り難うございます」
結衣さんの言葉に、薫先生は感謝の意を表す。
「お気になさらず。そちらの着物の具合はどうでしょう?」
次に話しかけられるのは、美景先輩だ。
美景先輩は、ようやくまともに、結衣さんの方向に向き直り、
「素晴らしい着物です。具合もとても…いい…ですよ…」
と、美景先輩の声が途切れる。
その顔には、驚愕の表情がベッタリと張り付いていた。
「美景先輩?」
「深水さん、どうかしましたか?」
俺と薫先生の言葉にも反応せず、美景先輩は結衣さんだけを見続けている。
そんな様子の美景先輩を見て、結衣さんはニッコリと笑みを浮かべている。
「お久しぶりですね、みーちゃん?元気にしていましたか?」
結衣さんの口から零れるそんな言葉。
対する美景先輩の反応は、やはり驚愕でいっぱいだ。
「ゆ…結衣姉…。じゃあ、その隣にいるのは…」
油の切れた機械のような動作で、今度は宗也の方を振り向く美景先輩。
「みーちゃんは、相変わらずのようだな」
「そ…宗兄…。なんで、二人がこんな所に…」
美景先輩の驚愕は続く。
いまいち状況がつかめないが、話から推測すると、どうやら三人は顔見知りのようだ。
「い、一体…どうなっているんだ!」
美景先輩の絶叫が木霊する。
一体どれくらい、俺たちは眠っていたのか、縁側から見える空は、茜色に染まり始めていた。