安息
俺は寝心地のいい布団の中で目を覚ました。
目を覚ました時、俺の頭元にいたのは、山の麓で俺たちを迎えてくれた女性だった。
あの時は結んでいた長い黒髪は解き、着ているものこそ、巫女装束から、落ち着いた淡い色の着物に変わっているが、間違いようはない。
「目が覚めましたか?」
聞こえてくる声は、優しく暖かい。
「えっと…どうして俺は寝ているんだ?」
最初に浮かんできたのは、そんな疑問だった。
山の麓で、目の前の女性と、彼女の率いる軍勢に助けられたことは覚えている。
しかし、そこからの記憶がまったくない。
「判らなくても無理はありません」
その答えをくれたのも、やはりこの女性だった。
「貴方、あの後すぐに眠ってしまわれたんですよ?」
確かに、それならば覚えていなくても無理はない。
むしろ、覚えている方が変だ。
俺は、寝ていた布団から起き上がり、礼を言う。
「あの、有難うございました。俺たちを、助けてくれて」
その言葉に、女性は柔らかな笑みを浮かべた。
「お礼なら、宗也君に言ってください。私に貴方方のことを伝えたのも、あの場所に軍勢を引き連れてくるように指示したのも、宗也君ですから」
そこまで会話して、俺は彼女の名前を知らないことに気がついた。
「今更なんですけど、名前、なんて言うんですか?」
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」
女性の方も、今気づいたようだ。
「私は、富河 結衣、と言います。以後、お見知りおきを」
名乗ると同時に、丁寧にお辞儀をする結衣さん。
それにつられて、俺もお辞儀を返す。
「俺の名前は…」
「宮前 晶さん」
言葉の先を、とられてしまった。
「ですよね。宗也君から聞きました」
そうして、さて、と両手を合わせる結衣さん。
「目も覚められたようですし、その服、着替えられたらどうですか?」
言われて、俺は自分の服装を見る。
それは、こちらに来た時からずっと着ていた学園の制服で、しかもそれには、
「げっ…、返り血ついてる」
山賊を斬った時に浴びた血が、制服には飛び散っていた。
救いなのは、制服が黒いため、血の色が目立たないこと。
しかし、中に着ているシャツは誰が見ても、赤い色に染まっている。
「でもこれ以外に着るものはないし…」
たとえ学園に戻ったとしても、剣道着くらいしかない。
その上、それのためだけに戻るには、学園は少し遠いだろう。
〈宗也が馬で来たぐらいだし…〉
どうするか、途方に暮れていた所に、またも結衣さんに救われる。
「そうだろうと思って、もう用意してありますよ」
と、畳の上を滑らせて、こちらに差し出されるのは、木製の箱に入れられた、藍色の着物。
「宗也君の着物ですけど…大丈夫ですよね。洋服と違って、着る人を選ばないのが和服のいい所にですし。着る方法は判りますよね?」
それについては、大丈夫だ。
剣道部の顧問が、修行の一環だ、とか言って剣道部全員に教えこまれたことがあるからな。
「ええ、大丈夫です」
「そうですか。では、脱いだ洋服は、着物の入っていた箱に入れてください。後で、ちゃんと洗濯してお返ししますから」
立ち上がって、部屋を出ようとする結衣さん。
俺は、その背中を呼び止める。
「待ってください」
「なんでしょうか?」
今気になることはたった一つ。
それは、美景先輩と薫先生の安否だ。
「美景先輩と薫先生…、俺の連れは今どうしてますか?」
「ああ、それでしたら、安心してください」
にっこりと、結衣さんは微笑みを浮かべる。
「お連れの方なら、貴方と同じように眠ってしまわれたので、今は別の部屋でお休みですよ。」
「そうですか…よかった」
どうやら、俺は無事に二人を守ることができたようだ。
多分に、宗也に助けられてはいるが、それでも守れたのだからよしとしよう。
「では、後ほど」
結衣さんは、そう言って部屋から出ていった。
一人になって、俺は改めて部屋の中を見回した。
結衣さんが出ていった出入口は、襖が。
部屋の中に光を取り入れる窓には、障子が。
部屋の床一面を覆うのは、い草でできた畳が。
ついでを言えば、俺が寝ていて今も座っているのは、中に綿が入った布団だ。
〈宗也は戦国時代みたいな鎧兜だったし、結衣さんは巫女装束と着物を着ていたな…〉
迷い込んだ異世界は、まるで昔の日本のようだった。
来たばかりのこの世界には、まだまだ知らないことはたくさんありそうだった。