序幕 逃走劇
駆け降りる斜面は、足場が悪い。
極度の緊張と不慣れな道のせいで、幾度となく足をとられる。
心臓は早鐘のように乱れうち、息はとうの昔に上がりきっている。
それでも、
〈走るのをやめるわけにはいかないっ!〉
背後、生い茂る木々の間から響いてくるのは、野太い怒号。
少し前よりも、それは確実に俺たちの背中に迫ってきている。
〈くそっ…!このままじゃ追いつかれる!〉
思うと同時、確認するのは手の中にあるズシリとした重み。
そこにあるのは、銀色の輝きを放つ日本刀。
刃引きなどされたこともない、その殺伐とした輝きに思い返されるのは、守るべき存在の大きさ。
〈よし…〉
やるべきことと、その為の術を再確認した後、手の中の刀をしっかりと握りなおす。
〈万が一の時は、俺が命に代えてでも…〉
しかし、思考の途中、
「おい…」
と、突然掛けられた声によって、思索の世界から引き戻される。
「何を考えているのかは知らないが、あまり気負わないようにな」
俺に並走しながら言葉を続けるのは、全身を黒の鎧兜と鬼面で固めた鎧武者。
「気負いすぎれば肩に力が入って、ろくな太刀筋にならないぞ?」
同じ道を、俺なんかよりはるかに重い装備で走っているはずの鎧武者だが、その息はあがっておらず、まだまだ余裕が感じられる。
「なんだ…考え事でも…していたのか?」
鎧武者に続くようにして掛けられた声の主は、俺の左前方を走る少女だ。
息も絶え絶えに、しかし口調にだけは余裕を持たせて、少女は続ける。
「大方…君の事だ…。私たちを…守らなければ…とか、…そんなところ…だろう」
直後、不意に少女はスピードを落とし、俺を挟んだ鎧武者の反対側に並んだかと思うと、
「私は生徒会長だ!…心配せずとも、私が君を守るくらいのことはしてみせるよ」
と、声高に宣言した。
乱れる呼吸と鼓動を抑えた、明らかに空元気な言葉だったが、今の俺にはいつもにまして頼もしくきこえる。
そして、気づくのは自分がいかに気負っていたかということ。
この異常としか言いようがない状況の中、少女の態度は平常そのものだ。
確かに、ここ一番で平常心を失えば、ろくな結果にはならない。
そのことは、大会などを通じて俺自身もよく知っているはずだった。
「…すみません…でした…会長。…少し…熱くなってたみたいです…」
「うむ…。わかれば…いい。…さて…、無駄話が…過ぎたな…。先を…急ごう…」
俺の返事に得心がいったのか、少女は再び速度をあげて走り出す。
「あの…ですね…」
直後、会話が途切れるのを見計らって、遠慮がちな声をあげるのは、右前方を走る若い女性。
こちらは、先の少女と比べても口調に余裕はなく、限界が近いことをひしひしと感じさせられる。
「その…、麓までは…あと…どれくらい…でしょうか…?正直に…言いますと…もう…限界…ぽいんです…よ」
答えたのは鎧武者だ。
「ふむ…。あと少しのはずだ。だから、もう少しだけ頑張ってもらえないか」
「はいぃ…。頑張り…ます…」
答えを聞いた女性は、泣きそうな口調になりながらも、走り続ける。
「先生…。あと少し…、頑張りましょう…。俺も…頑張りますんで…」
「はいぃ…」
女性に対し、そう言ったものの、実のところ俺自身限界は近い。
それは、鎧武者以外に共通していたことのようで、俺の内心を代弁するかのように、今度は前を走る少女が弱音をはく。
「…実を…言うと…、私も…そろそろ…限界だ…」
「らしく…ないですね…。会長が…弱音を…はく…なんて…」
「言って…くれるな…。…そういう…君も…辛い…のだろう…?」
やはり、少女にはばれていたようだ。
「わかり…ますか…。確かに…限界…近いです…ね」
「もう少しだ。頑張ってくれ!」
限界が近い中、俺たちは走り続ける。
そして、思い返されるのは、つい数時間前の出来事。
こんな状況になってしまう少し前の、出来事だ。