表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/28

昼休みに、部長が来た。


営業部の昼休みは、戦闘よりも騒がしい。

ガタン、と椅子の軋む音。

社装スーツを半脱ぎした社員たちが、皿を抱え、机を囲む。

それは日常の休息というより、次の戦闘に備える“補給”のようなものだった。


「おっ、空いてますね。……四人席、いけそうです」


トレーを手にした風巻程時が、わずかに弾んだ声で言う。

昼食戦線での小さな勝利。そんな安堵が顔に浮かんでいた。


後ろから草薙が肩を並べてくる。


「確保~。戦闘よりこっちのほうが競争率高いな……」


矢口と二ノ宮もすぐに追いつき、営業一課の面々は自然と一つのテーブルに集まった。


「……で、プレゼン、結局出したんか?」


箸を割りながら矢口がふと言う。

敬語はない。いつも通り、ちょっと気の抜けた声だ。


「うん。昨日の夕方、提出しておきました。芹沢さんに見てもらってから……」


風巻の返事は静かで、どこか慎重だった。

それは自信よりも、“ちゃんと見てもらえただろうか”という不安の裏返し。


「おー、初ソロ提出か! どうだ、感慨深いものがあるだろう?」


草薙がニヤッと笑う。


「いやいや……ちゃんと読んでもらえてたら、嬉しいですけど」


風巻は笑いながらも、どこか目が泳いでいた。


「部長に届いたかどうかは、まだ不明ですね」


二ノ宮の声は、いつも通り淡々としている。箸の動きも変わらない。


そのとき、最後に芹沢がトレーを持って合流した。

昼の騒がしさをものともせず、柔らかな笑みで座る。

だがその直後、空気が一変する。


「この席、空いてるか?」


背後から落ちた低い声に、四人の手が同時に止まった。

食堂全体の雑音の中で、なぜかその声だけがくっきりと響く。


風巻の手がわずかに震える。箸の先が、皿に軽く当たった。

矢口がぎこちなく笑い、草薙は気まずそうに空いた椅子を差し出す。

二ノ宮は無言でスペースを詰めた。


芹沢だけが、変わらない声で応じた。


「どうぞ、部長」


現れたのは、天道令司。営業部全体を束ねる、部長。

黒のネクタイ、無駄のない動作、そして容赦のない判断。


その天道が、社食のテーブルに座る。

それだけで、テーブルの空気が一段、静かになった。


「……ここのは、悪くない」


ミートボールパスタを前に、天道が静かに言う。

味の評価か、昼食を選んだことへの自己肯定か。

誰も返さない。返せない。

全員、箸を動かすふりをしながら、食べ物の味がまるでしない。


耐えきれず、風巻が口を開いた。


「あの、その……昨日出した資料、読んでいただけましたか?」


一拍の間。

天道はパスタを切りながら答える。


「読んだ。改行が多いが、まあ、読めた」


それだけの言葉に、風巻の胸の奥が一気に緩んだ。

肩の力が抜け、息がゆっくりと流れ出す。

言葉にしない“ありがとうございます”が、そのまま表情ににじんでいた。


矢口が空気を変えようとする。「部長、最近、前線出てないんですか?」


「現場に立つ理由が、ないからな」


抑揚のない答え。それでも、重みだけが残る。


芹沢が、少しだけ微笑んで言う。


「でも、見てくださってたんですね」


天道は一度だけ視線を上げる。


「見てる。必要な時だけ」


感情はない。だが、その言葉には、確かに意思があった。


そのとき、通路を歩く別部署の若手が天道に気づき、深く会釈する。

天道はただ頷き、パスタを淡々と食べ続けた。


食事が終わると、天道は席を立つ。

トレーは手に、ナプキンや箸を丁寧にまとめて、片付け場所へと向かう。

背筋は伸び、姿勢は変わらない。

ただそれだけで、場の重さが変わっていく。


「……なんか、緊張しただけな気がする」


草薙が、残った水を飲み干しながら呟いた。


「部長、存在感えぐいっすわ……」


矢口の口調も、どこか脱力していた。


ふと、風巻の視線が、テーブルの端──天道が座っていた席に止まる。

ナプキンが一枚、置き去りにされている。

折り目はきれいに整い、しかし裏返しのままだった。


風巻はそっとそれを手に取る。

指先が、かすかに震えていた。


裏に走り書きされた文字。


――承認済み。プレゼン、次は“口頭”でやってみろ。


目が瞬く。

声にならない声が、喉の奥に浮かぶ。

だが、口は開かない。

代わりに、呼吸だけがゆっくりと、胸の奥を満たしていく。


「……これ、部長が……?」


問いのような、呟きのような言葉。

それを受けたのは、芹沢だった。


「……たぶん、ね」


その声は、あたたかいというより、静かだった。

誰かを見守る者のように。


風巻はナプキンを二つに折り畳むと、それを胸ポケットにしまう。

誰にも見せないように、そっと。

握りしめるわけでも、誇らしげに掲げるわけでもない。


ただ、大事なものとして、そこに収めた。


昼の騒がしさは変わらない。

けれどその中で、風巻の背筋はわずかに伸びていた。

静かに、けれど確かに、“見られていた”という手応えが、胸の奥に灯っていた。


それは言葉にできない承認だった。

でも──風巻は、それで十分だと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ