午後の本戦
エレベーターの扉が、無音で開いた。
冷気がわずかに漏れ出す。空調の風は既に“通常業務モード”へ切り替わっており、オフィスフロアの空気はいつものように整然としていた。
応接スペースでは誰かが商談中。会議ブースには資料を広げた姿が見え、遠くの電話席では「それは本日中の納品ということで……」と、粛々としたやり取りが続いている。
風巻たち三人は、その空間に戦闘帰還者のように歩み出た。
「……さっきまで戦ってたんですよね?僕たち」
風巻が小声でつぶやく。声が出るだけまだマシだった。全身の疲労感が抜けきらず、プロジェクターの余熱が身体の芯に残っている。
芹沢は立ち止まり、静かに肩をすくめると、目だけを動かしてフロアを一周見渡した。
「営業部に“平和”なんて存在しないから」
その声には笑いも余韻もなかった。戦闘を終えた者にだけ許された、薄く乾いた現実認識――まさしく“実戦帰り”の声だった。
「これからが本戦や。午後イチの“実案件”プレゼンあるで?」
矢口が背後から歩きながら言う。すでにユニットを離脱し、タブレット端末を開いて、スライドの残弾――つまりストックデータと配信用テンプレを確認している。
「残弾、ちゃんと確認しとけよ。こっちはもう“出撃前”や」
「……うそ……マジで、これが“前哨戦”だったんですか……!?」
風巻は愕然として呟く。
「当たり前やろ!!シミュレーションは、実戦を想定してやるもんやで?」
矢口は指摘の時に声が大きくなる。だが、怒気は含んでない。
オフィスの誰もが振り返ることはない。誰かが戦ってきたことなど、いちいち顔に出すほど、営業部は甘くない。
プリンターは黙々と書類を吐き出し、社内チャットの通知音が乾いた音を繰り返す。
日常――という名の戦場のそばで、別の戦闘を始めなければいけない。
戦いは連綿と続いていく。
営業一課勝利のログが、社内チャットに流れた。
《模擬戦ログ:営業一課勝利。午後の本戦スケジュールに影響なし》
その文字列を、風巻はぼんやりと見つめていた。手にはまだ開けきれていない弁当。場所は社内ラウンジ、自販機の横。空調の音と、昼休みを迎えた社員たちのざわめきが混じり合い、妙に現実味を持って響く。
「ったく……朝から全力って、社内イベントでこれは笑うしかないよね」
芹沢が、椅子の背もたれに全体重を預けて言った。肩にかかったタオルは、もはや戦場帰りの証のようだ。
「GIF埋め込んだ時点で勝負あったわ。あいつらTYPE-Wやったやろ? 展開遅いぶん、初動で押し切ったら反撃できへんねん」
矢口はコーヒーを啜りながら、変わらぬ口調で総括を下す。先ほどまでのスライド戦争を思えば、この沈着さには頭が下がる。
「法務部、TYPE-Wだったね……火力あるけど、立ち上がり遅いのよ」
彼女はコーヒーを淹れた紙コップを口につけけた後、静かに言葉をつないだ。
「仮想稟議で武器、固定されてたんだろうね。“法務部スタイル”を貫くためにさ……変えられないってのは、営業よりシビアかもよ」
部署のプライド、そして苦渋の決断だったはずの戦略的持ち帰り。同じく会社の中で競うメリットは大きいが、彼女のため息がそれだけではない重みを感じさせた。
「さぁて!風巻!お楽しみの弁当タイムや!!今日は頼むでぇ!」
重い雰囲気を一つの柏手で切り裂く矢口。
風巻はデスクに届けられていた弁当のラベルを見つめた。
――ランチョン・デュエル弁当。社食の日替わり弁当。中身は毎日違う。昼の運試し。だが、風巻のチームにとっては重要な戦闘準備。
「……頼む……野菜炒めだけは勘弁してくれ……」
パカッ。
蓋が開く音と同時に、油とソースの香りが立ちのぼる。
「なにそれ、あたり? はずれ?」
「……“カラアゲDX+やる気ソース”……きた……!」
風巻は飢えた獣のように弁当へ食らいついた。
湯気の熱ささえ気にせず、一心不乱に箸を動かす。
「ほんま、風巻は昼飯次第で仕事の出来がかわるからな……野菜が少なくて助かったわ」
「どう?昼の実戦、やれそ?」
弁当を食べ終わり、顔の前で手を合わせて「ごちそうさんでした!」と感謝を述べ、腕につけたバイタルチェック端末のボタンを押す。
――すると風巻の変化を機械音声で説明する。
『昼食摂取確認――栄養バランス良好。血糖値上昇、思考速度+7%』
「なるほど?それで?」
『セロトニン値安定化。ストレス耐性強化』
「心理攻撃耐性はおっきいわね!」
『現在の心理状態:充足。決断力・共感力が一時的に上昇中
営業出力:通常比1.3倍に最適化』
「はい勝った。午後の交渉、通るやんこれ」
矢口がニヤリと笑う。芹沢も、安心したように息をついた。
風巻は、昼飯次第で仕事の結果が変わる。それは長所でもあり、短所でもあった。
「あと足りないのは、部長のゴーサインだけか……」
その瞬間だった。誰かが近づいてくる気配。反射的に3人の背筋が伸びる。
足音は静かで、気配は濃密だった。
「──午後は本戦だ。いつもの3倍、言葉を削れ」
天道だった。無言のまま缶コーヒーを片手に立つその姿は、まるで戦術AIのような鋭さを宿している。余計な感情も抑揚もない。ただ事実だけを、必要最低限の言葉で告げる。
3人は、一斉に視線を向けた。
その目の奥で、風巻だけが問いかける。
――ほんとうに、これが“激励”なのか?
「“戦う営業”に必要なのは、声じゃない。“通す”資料だ」
それだけを言い残し、天道は去った。
重苦しいようで、どこか誇らしさの混じった静けさが残る。
「……あれが、激励……?」
風巻が小さくつぶやく。
「部長なりのな」
矢口が苦笑を浮かべ、芹沢は笑わずに立ち上がった。
「行こっか。午後は本番、ね」
弁当の空箱を手に、3人は席を立つ。その背に、ジャケットの社章バッジがわずかに光を返した。
午後の本戦――その開幕まで、あと十五分。
Scene 6(後半):激化する「パワポの乱」
――スライドが、乱舞していた。
空中に投影された図解・表組み・アニメーションGIFが、無数の光弾のように交差する。
大会議室――通称「実践場」の空気は焼けつき、排熱ファンの音が騒がしくなっていた。
「……おい、耐えてるぞ」
矢口が眉をひそめた。解析モードのタブレットに、敵ユニットの処理ログが浮かび上がる。
「まさか“提案スワーム処理”持ちか」
「なにそれ!? 聞いたことないんだけど!?」
芹沢が身を乗り出す。だが、相手は確かに生き残っていた。
風巻の放った《パラレルスライダー》の五連スライドが、敵陣のバリアに当たっては消えていく。
その光は拡散し、熱も圧も、すべて画面の奥で吸収されていた。
「ってことは……Type-Pの攻撃が、避けられてる!?」
――防がれているのではない。無効化されている。
敵ユニットの一人が、《提案スワーム・バリア》を展開していた。
社内ネットワークと直結した“既読スルー機構”。あらゆるスライドを、“届かない情報”として処理する遮断装置だ。
「こっちは“既読スルー機構”搭載済みです。Type-Pの攻撃は、もう通用しない!」
「くっ……どうすりゃいいんだよ……!」
風巻が拳を震わせる。スライドフォルダの残弾は少ない。撃てども撃てども、火力が通らない。
そのとき、会議室の後方で、天道が立っていた。
腕を組み、静かに、目を伏せたまま。
『――見せてみろ。お前の、言葉の火力を』
コックピット無線から、低く、静かなその声が、風巻の胸に刺さる。
――言葉。スライドじゃなくて。
記憶が、脳裏をかすめた。
『今日の弁当、当たりだね』
『やっぱり飯バフあるって!』
――そうだ。数%の差でも勝敗を決する事があるんだ!
風巻のユニットが一歩、前に出た。
その足音は、プレゼンバトルの残響を裂くように響いた。
コックピット内で、風巻は《カスタムスライド・ファイル(起動モード)》を開く。
いつか使うつもりで準備だけして、出番のなかった自作プレゼンだ。
「まさか……やる気か?」
矢口の声に、風巻はうなずく。
「――初手、現状分析スライドいきます!」
《プレゼンキャノン》が再起動し、唸りを上げた。
投影口にスライドが読み込まれる音――
「まずは御社の問題点、三点挙げます!!」
ズドン!!
爆音と共に放たれたスライドが、空中に浮かび上がる。
【①資料の提出フォーマットが曖昧】
【②社内レビューの属人化】
【③会議室の空き予約が1ヶ月先まで埋まってる】
「それはウチの弱点じゃねぇ!! でも……正しい!!」
敵ユニットが動揺する。
“自分の不備”を他者から見抜かれたときの、あのリアルな悔しさ――それが、資料の矢として突き刺さっていた。
「バリアでごまかせない真実」に直面させられ、バリアは音を立てて瓦解した。
風巻は畳み掛ける。
「続いて、セグメント別提案、五連射いきます!!」
風巻は《セグメント・フォーカス連射》を展開。
スライド3~7が連続で放たれる。GIF、リンク、比較表、エモグラフィック。
――それは“理詰めの弾幕”。
矢口が叫んだ。「いける……いけるぞ、風巻!」
「ちょっと待て、これGIF入ってる! 重い! 読み込みが――!」
敵ユニットが処理落ちを訴える。
P-typeの重さで畳み掛ける攻撃を直に受ける。
複数のスライドが同時に読み込まれ、演算リソースが飽和していく。
ホロモニターが一瞬だけ白くフラッシュした。
「それが狙いだ!!」
風巻が叫んだ瞬間、芹沢が立ち上がる。
「もらったァァ!! 最終スライド、コスト最適化いっきまーす!!」
《コスト最適化スライド(強化版)》が炸裂した。
P-typeが巻き起こす爆炎が、会議室の空気を揺らした。
「……うぐっ……一時撤退! 社内レビューの稟議が……間に合わねぇ!」
敵ユニットが、スモークを撒いて後退を始める。
風巻は息を荒げながら、声を張った。
「……僕たちを甘く見たね。“営業”は、情報戦と根回しと、スライド芸の総力戦なんだよ!」
――勝った。
天道の無線が静かに入る。
『上出来だ。……これからも期待している』
その声に、風巻は笑った。
勝利の静けさが、空気に染み込んでいく。
**************
ピピッ。
短く、無機質な電子音が会議室に鳴り響いた。
「──戦闘終了を確認しました」
音声ガイダンスが流れると同時に、照明がゆっくりとフェードアウトしていく。戦場に一斉に降りる“終戦の幕”。
まだ熱をもったままのプロジェクターが、名残惜しげに青白い光を吐き、やがて沈黙した。
その光の中、風巻程時は深く腰を沈めていた椅子から、ようやく立ち上がった。ガチャ、と胸元のハーネスを外し、戦闘態勢を解く。
「……今度こそ本当に終わった……」
魂の抜けたような呟きだったが、声にはわずかな達成感が混じっていた。
芹沢が笑う。パワポ砲の筐体を指でトントンと叩きながら。
「お疲れ、風巻! 今日は飯バフも大成功だったじゃん」
風巻は答えずに笑った。顔を伏せながらも、口元に浮かんだ表情は、午前中の自分とはまるで違っていた。
矢口が、プレゼン資料の端を指で弾いて言う。
「まぁ、パワポの使い方も営業力や。あんた、今日ちょっと“営業”やったな」
「……ほんと、ちょっとだけ、ね」
その言葉は、自嘲ではなく。初めて得た小さな誇りのように、胸に染みていった。
そのとき、会議室のドアが音もなく開いた。
「……戻るぞ。稟議はまだ山積みだ」
天道令司――営業一課部長。寡黙なカリスマが、ただそれだけを言い残して踵を返す。
その背中には、ジャケット越しに刺繍が浮かび上がっていた。
「定時こそ正義」
戦いを終えた者の背に宿る、その言葉は決して軽くなかった。
芹沢、矢口、風巻の三人が無言のまま、その背を見送る。
それは“去りゆく者”ではなく、“先に進む者”の背だった。
ふと、会議室横のインフォメーションパネルに文字が浮かび上がる。
《【通知】この会議室は17:00より、経理部による「書類整理および照合作業(非戦闘)」が予定されています。Zウィルス対応:不要》
「うわっ、ギリギリじゃん!?」
芹沢が声を上げ、風巻を振り返る。
「風巻、スクリーンしまって! 矢口、スライドログ消して!」
「お前が出したのが一番多いやろ!」
二人に突っ込まれて、言い返す理由を考える前にすでに身体が片付けに反応した。
「は、、はいー!も、もうマニュアル見ないでやれる気がしてきた!!」
バタバタと、撤収作業が始まる。
戦場の片付け。――それもまた“営業”の一部だった。
スライドが巻き取られ、冷却ファンが止まり、ホロ機器の明滅が次々と終息していく。
それはまるで、戦場の“熱”が静かに引いていくかのようだった。
風巻はスクリーンの固定を確認し、ふとパネルの通知に目をやった。
「……でも、この通知……非戦闘ですよね?ほんとに、大丈夫なのかな……」
誰に問うでもない呟きだったが、それを拾ったのは矢口だった。
冷めたような、だが妙に現実的な声音で返す。
「非戦闘やけどな……あいつらがシャチク化したら、給料止まんで? 下手したら俺ら全滅や」
芹沢がピタリと手を止め、眉をひそめた。
「ちょ、それ一番ヤバいやつじゃん……リアルすぎて背筋冷えたわ……」
と言って身震いする。
風巻はスクリーンを収納し終え、ちらりと天井を見上げた。
「……なんか、他人事って気がしないよ……」
矢口が苦笑する。
「そりゃそや。戦場がデスクか会議室かの違いやって」
芹沢が肩をすくめながら、軽く笑った。
「ほんと、マジで寝かせたげて……あたしら全員、“巻き添え退社”とかゴメンだし」
弁当箱が片付けられ、スライド装置がロックされる。
やがて会議室は、誰も戦っていなかったかのような静寂に包まれた。
会議室のスライドが巻き取られ、排熱ファンが止まり、空になった弁当箱が回収される。
風巻は最後に、ふと扉の前で足を止めた。
あの場所に。今日、確かに“戦った”記憶が残っていた。
風巻は振り返らず、心の中でだけ呟く。
――明日も、また“定時”が来る。
でも今日だけは、ちょっと誇れる気がする。
扉が、音を立てて閉じた。
♪ 社歌『午前九時の誓い』
《明日へ繋げ、資料の矢――
今日もまた撃て、定時の砲――》
彼らの戦いに、また一つ“終業”の鐘が鳴る。