午前の模擬戦
午前九時五十分。
アステリア・リンクス本社、第十七大会議室の前。
大会議室と呼ばれる部屋は、通常の部屋ではない。社葬スーツでの戦闘を想定したエリアをそう呼んでおり、各企業の戦闘エリアである。
扉は閉ざされ、赤く点灯するランプが沈黙を守っていた。解錠の兆しは、ない。
――僕たちの予約、九時五十分から……の、はずなんだけどな。
風巻は内心で呟きながら、無言で扉の先を見つめた。ユニット起動用のインカムを首元にかけたまま、制服の襟元にじんわりと汗が滲む。
「前の部、まだおるな」
矢口が腕を組み、壁にもたれたままボソリと呟いた。
「たぶん“とどめのスライド”やっとる」
その横で、芹沢がふっと笑った。
「またGIF入りぃ? ド派手に締めないと満足できないタイプなのよ、あの課長」
悪態のような他部署の上司評を述べた直後、扉の向こうから轟音が響いた。
「これが、当社の! 本気の! コスト削減プランです!!」
ドンッ!! という爆音に、風巻がビクリと肩をすくめる。
「おい……音量でかっ……プロジェクター壊れない? 熱量やばくない?」
「先週、ヒューズ三本飛んだ戦闘あったしな。プレゼン過熱で火災寸前やった」
矢口の淡々とした返しが、妙にリアルで不安を煽る。
風巻は前室の端末を操作し、スケジュールを確認した。
「……ちゃんと予約されてます。“社内演習コードK2”……?」
「え!それ、“緊急実戦想定戦”だよ? 火力を本気で出す一番ヤバいやつ!仮想稟議書まで作ってんの?あいつら!」
芹沢が口を尖らせて答える。風巻の背筋が、さらに固くなった。
「じゃあ前の部って、まさか――」
「たぶん、“経理部 vs 財務戦略チーム”。あの二課、いっつも社内削減予算めぐって泥仕合やからな」
矢口の口元に、僅かな皮肉が滲む。
しばし、沈黙。
扉の向こうから聞こえてきたのは、スライドの切り替え音だった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――
「……五秒に一枚!?」
芹沢が腹を抱えて吹き出した。
「撃ち合ってるなこれ、完全に撃ち合ってるって!!」
冷房が効いた廊下に、三人の戦士たちの笑い声と緊張が、交互に立ち上っていた。
電子錠が、ようやく音を立てて解かれた。
会議室のランプが赤から青へと切り替わる。風巻が思わず息を呑んだ。
「……開いた……!」
静かにつぶやいた直後、隣から勢いよく声が飛ぶ。
「さあいきましょう!本日も開戦ー!」
芹沢だった。
その号令と共に、三人は社装ユニットごとローラー椅子で会議室に雪崩れ込む。滑るようにフロアを駆け抜け、各自のポジションへと着座。背面アームが駆動し、ユニット肩部のプロジェクタータレットが唸りを上げて起動する。
午前十一時。戦闘、開始。
大会議室――いや、社装スーツ戦闘エリアの内部では、すでに次の模擬戦チームが臨戦態勢に入っていた。
エリアは模擬市街地。整然とした区画とビル群には、人工灯の明滅以外、いっさいの人の気配がなかった。
対戦相手は、法務部連携チーム。揃いのブラック社装スーツが、機能的かつ冷徹なシルエットを描いている。その表面に搭載された条文照射ユニットが、わずかに赤く発光していた。
先頭に立つ男――法務チーフが、冷ややかに口を開いた。
「“K2”コードが通ってるなら、うちは先手を取らせてもらう。異議は?」
「さっすが法務、根回しはや!」
矢口が無表情のまま応じる。
「ええよ、初手はそっちや」
法務チームの一人が、端末を叩いた。
スーツ肩部のロングドキュメントライフルが起動音を鳴らし、空間投影装置が加圧される。
「投影開始。契約構造・遵法アプローチ第一弾、行きます!」
ズッ……と空気が歪む。
巨大なホロプロジェクターから、一面テキストびっしりのスライドが放たれた。
――【リーガルチェック概要(本文三千字)】
表示領域の端から端まで、改行なしの文章が洪水のように広がる。
「うわっ……!」
風巻の視界が瞬時に鈍った。文字情報の密度が高すぎる。
社装スーツのUIが処理負荷に悲鳴を上げ、HUDの応答が遅延し始める。
「ちょ、文字多すぎて視界がフリーズした!!」
これはTYPE-W――文書装備による逐語攻撃。心理的読解負荷とUI崩壊を狙った、典型的な法務戦術だった。
「いい? この空気、突っ込むよ!!」
芹沢がユニットのコックピットから叫ぶ。
「あんたらのやり口は想定済み!“こっちの提案は、気合いで読む!” プレゼンキャノン、起動ッ!!」
肩部砲塔――**プレゼンキャノン(P-typeスライド装備)**が自動展開され、スライドが連射される。
ズドォォン!!
――【現状分析・競合比較・提案構成(全27枚)】
空中に炸裂するスライドの嵐。赤字の要点強調、グラフ、カラフルな色調。
その中でも、数値軸の印象操作が際立つ。**グラフローダー(E-type)**を併用して、情報に“効果的な誤解”を与える設計だ。
「くっ……棒グラフと円グラフの多重攻撃!? 視覚疲労が……!」
法務チームのスーツが一瞬よろめく。
カラーリングと視覚演出による心理ダメージが蓄積している。
矢口が後方から冷静に指示を飛ばす。
「いけ、セグメント別提案、五連射や! スライド3から7、同時投影や!」
風巻が副装備の補助砲塔を展開。**連携プロジェクター(T-type)**に指を滑らせる。
「了解! GIF付き、PDF固定で行くよ!!」
映像リンクを含んだプレゼンが、5枚同時に投影される。
敵のホロモニターが真っ白に染まり、演算処理が限界ギリギリまで追い込まれる。
「ま、待て……重い、フリーズする……!?」
「してるよ!!」
芹沢が声を上げた。
「動画リンクもあるッッッ!!落ちろお!!」
――ズバァン!!
最終スライド【コスト最適化プラン】が炸裂。演出付きPDFによる確定資料弾が直撃する。
法務部の前衛がぐらつく。物理的には無傷でも、情報処理能力が著しく低下している。
「くそっ!被害はまだ小規模!!反撃だ!!我々は“字数”で攻める! 契約条文、48条……一斉展開ッ!!」
法務チーフが叫び、後衛が**再装填型ライフル(W-type)**を振りかざす。
弾幕のように拡散される契約条文――逐語攻撃の嵐が空間を覆う。
「くっ……読む気がしない!! 心理攻撃か!?」
「風巻、耐えろ」
矢口が落ち着いた口調で告げる。
「今、反応したら“読んでない”のバレるで」
その一言が、風巻の手を止めた。
芹沢が口角を吊り上げる。
「じゃあこっちも文字で返す。“根回しメール全ログ添付スライド”――投影、開始ッ!!」
ボォンッ!!
投影されたのは、社内チャット履歴40件分を含む“承認ログ”スライド(O-type:通信装備)。
画面の末尾には、はっきりと上司の返信が刻まれている――《承認済、頼む》。
「ぐぅっ……っ、これ……既読ついてる……上司まで通してる……」
ログの重みが敵の精神を圧迫する。これは読まれていた記録、すなわち逃げ場のない“責任”の証明だ。
風巻が、前に一歩踏み出す。
「見たか……これが、仮想稟議書では出せない“通ってる稟議”の重みだ!!」
ログの残像が空中に残る。撤退の判断を強制するには、十分すぎる一撃だった。
膝をつく法務部員。
その中心で、法務チーフが拳を握ったまま、悔しさと恨みを混ぜた声を絞り出した。
「……撤退だ。“持ち帰り”にさせてもらう」
芹沢の口角が、わずかに上がる。
表面上は交渉の継続を匂わせながらも、それは事実上の敗北宣言だった。
静かに、スライドが閉じていく。
風巻、芹沢、矢口の三機は、背を正して立ち尽くしていた。
敵が退き、大会議室に一瞬の静寂が訪れる。
それは、営業部の“勝利”の印だった。
空気が、重たく沈んでいた。
3メートル級の社装スーツが並んでもなお、天井には余白があるように設計されている大会議室。その天井から吊られた投影機は、さきほどのスライド投射の余熱でまだかすかに唸っていた。
床には、戦闘中にホロボードに投影されたキーワードが、殴り書きのように浮かび上がっては消えていく。
戦闘は、終わった。
この会議室で起きたのは、確かに“模擬戦”だったはずだ。だが、残された静寂には、確かに本物の“戦の残り香”が漂っていた。
「……終わった……マジで……死ぬかと思った……」
風巻が椅子にもたれ込むように座り、息を吐く。ユニットの背面アームは完全に沈黙し、肩のプロジェクターは戦闘終了の自動冷却に入っていた。
「ナイス、プレゼンキャノン」
芹沢が片膝をつきながら、排熱口にタオルをかぶせてやる。
「ギリギリだったけどさ。撃ち抜いたね、営業の正義ってやつをさ」
静かな勝利宣言だった。
矢口は背後のPCタブレットを確認していた。充電ポートを繋ぎながら、小さく唸る。
「あの条文ラッシュ……ワイの心に刺さったわ。資料っていうより、もう魂に直接ぶつけられた感じや」
「てか……最後、“持ち帰ります”って言ってたけど、あれ……」
風巻がまだ放心のまま、ぼそりとつぶやく。
「戦略的撤退」
芹沢が即答した。
「“持ち帰り”ってのはね、最終防衛ラインなの。沈黙より怖い。あれ、心理戦の奥義だから」
なるほど――と、誰かが納得したような息をついた瞬間だった。
天井の換気ファンが自動作動を始める。微かな風が、空気を入れ替える。
それはこの会議室が、ようやく“非戦闘エリア”へと戻った合図だった。
「まあええわ」
矢口が、くくっと笑った。
「掃除すんのは、おまえな?」
「……えっ? なんで俺?」
風巻が慌てて振り向く。
「僕!けっこう活躍したよ? PDF固定とか、GIF入り三連打とか! ちゃんと仕事してたよ!」
「“三連打”じゃなくて“迷惑行為”扱いされてたけどね、あっちの画面では」
芹沢が肩をすくめて笑う。
「フリーズしてたじゃん、思いっきり。あれ、軽く業務妨害」
「そんな言い方ある!?」
ふてくされながら、風巻はデバイスの接続コードを外し、スライドの片付けにとりかかる。床に散らばった資料のデータタグを読み取り、回収フォルダへ格納していくその背中には、どこか敗北感……いや、むしろ“営業としての充実感”が滲んでいた。
戦闘は、終わった。
だが、彼らの“仕事”は、まだ午前のうちだった。
次の話は6/16 10:30に予約済み