次は守らない
午後十二時五十五分。
出撃ブリッジには、誰の声もなかった。
管制室と格納区画を隔てる防音ガラスの向こう、
蒸気の上がるブース内に三機のユニットが整列する。
芹沢。矢口。そして、風巻。
それぞれのコクピットに組み込まれた座席に、
三人は無言のまま、身体を預けていた。
草薙は、誰も乗っていない第四ブースの前に立っていた。
背筋を伸ばし、顔を上げる。
冷光を受けて浮かび上がるその輪郭は、普段よりも少しだけ硬かった。
「……全機、構造同期完了」
そう告げた声が、空気に沈む。
ガラス越し、視線を送ったその先。
芹沢は目を閉じて深く呼吸し、
矢口はコンソールの端を指先で軽く叩いていた。
風巻は、操縦桿を握ったまま動かなかった。
草薙は口を開いた。
その言葉は、選び抜かれた短い文節で構成されていた。
「今朝の天上会議で決まった。
この戦闘を最後に、セーフティは外れる」
「……つまり、これが“守られる最後”だ。
次からは、本当に命がかかる」
言い終えたあと、
風巻の手がわずかに震えていた。
握っていた操縦桿に、うまく力が入らない。
けれど、視線はまだ前を向いていた。
誰の目とも合わないまま──それでも、前だけを。
草薙は言葉を続けた。
「君たちは、ここに来るまでに訓練を重ねてきた。でも、それは“戦争”のためじゃない」
「無理に乗る必要はない。降りるなら、今。そう言える場所で、いま、聞く」
一拍の沈黙。
装備の駆動音だけが、静かに息をする。
「……君たちは、まだ乗るか?」
応答は順に返ってきた。
「──乗ります」
芹沢の声は、曇りを残しながらも、まっすぐだった。
「ちゃんと、“届けたい言葉”があるので。こんなことで立ち止まってられないから」
「……降りる柄ちゃうしな」
矢口は苦笑まじりに呟く。
画面の向こう、彼の視線だけがまっすぐだった。
「撃つ撃たんの前に、止める役がまだ残っとる。せやろ?」
最後に、風巻が静かに答えた。
「……乗ります。こわいのはまだ消えてないけど……でも、このままじゃ、誰かに押し付けるだけになるから……だから、乗ります」
草薙の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
音にしないほどの、ほころび。
それでも──そこに確かに、ひとつの感情があった。
「……ありがとう」
その言葉は、彼らに届いたのかどうかも分からない。
届かなくていい、というように、草薙は目を伏せた。
カウントが始まった。
その声は、感情を持たない機構のものだった。
「照合安定。出撃まで──8秒。構造起動、良好」
二ノ宮は、目も動かさずそう読み上げた。
「社装ユニット、各機出撃!」
草薙が三人に許可を告げた。
静寂の中で、ユニットが光を帯び始める。
格納ブースの蒸気が揺れ、
コクピットの中に、薄く光が差し込んだ。
その光は──
ほんのわずかに、
風巻の表情を、前へ押し出していた。
午後の光は、濁った雲の膜に擦れ、鈍く滲んで
戦場の上空を覆っていた。低層ビル群の輪郭はセーフティ越しに柔らかく歪み、色も音も現実から半歩だけ遠ざかって見える。
三機の社装ユニットがビルの峡間を縫う。先頭の芹沢、右上方に矢口、中央に風巻。ブーストの尾が淡くほどけ、蒸気の筋が路地の影へ吸い込まれていく。
敵影は三つ。関節まで覆う重装甲型、抑圧的なシルエット。心理戦の仕掛けはない。ただ距離を詰め、押し潰すための作法で前進してくる。管制から二ノ宮の声が落ちる。
「敵機三、抑圧的攻撃型。接触まで二十秒。戦域安定」
波立たない声。芹沢はレスポンスもせず、先に手を打つ。両腕ユニットの展開音が短く重なり、圧縮したプレゼン資料が白い矢じりとなって射出された。
光の帯が虚空で弧を描き、先頭の敵機に突き刺さる。演算層が揺らぎ、通信リズムが乱れる。
その瞬間、敵の動きが変わった。前のめりの圧がほどけ、二機が同時に後退姿勢へ。退路を確保しながら下がる。芹沢の初撃を見て、正面突破は不利だと悟ったのだろう。
だが背を向け切らず、最後尾の一機が牽制射撃を続ける。光粒が風巻の進路に散り、視界を細かく裂く。
矢口が高度をわずかに上げ、右上から退路を削る。
「右高、抑えとく。逃げ道、細うしたるわ」
HUDに映る敵一機のシルエット。照準枠が胸部装甲に吸い付き、緑が灯る。指はいつでも引ける。訓練通り──のはずだった。
指が動かない。
グローブ越しの乾いた感触が妙に生々しい。たった数ミリの行程が、急にとてつもなく遠い。
セーフティが効いている。“守られた戦闘”だとわかっているのに、次の戦闘の影が頭をよぎる。そこにはもう守りはない。命が懸かる現実。
(撃たなきゃ──)
耳の奥で心拍が膨らみ、視界の端が暗くなる。呼吸は浅く、肺の奥まで冷たい空気が落ちない。
照準の中心、敵の光学センサーがこちらを見返す。まるで目だ。訓練場の白い壁、カチリと鳴るだけの引き金、誰も傷つかない反復。その薄い膜の向こうから“今”が迫る。
「風巻!なにやってんねん!撃てや!」
矢口の声が強く響く。だが遠い。二ノ宮が続ける。
「敵構成:空間型投射、照合照準──射線直通」
敵の砲口が光を孕み、白い閃光の予兆が生まれる。親指が震え、引き金の手前で止まる。
「くっ!避けなきゃ!」
緊張は判断も行動も鈍らせ、回避も遅れる。
――間に合わない!
眩い線が走った後、影が差す。
芹沢の機体が割り込んだ。推力を無理に盛り、風巻の正面へ。複層シールドが展開し、光を胸板で受け止める。
セーフティ越しの衝撃音すら鈍い鐘のように腹へ響く。シールド表面にひびが走り、継ぎ目から蒸気が吐き出される。
HUDに赤が点滅──「芹沢機・左側装甲損傷/数値上昇」。
息が止まる。守られたという事実が重く落ちる。背骨の内側が熱くなる。
「間に合わん距離やけど……当てる」
矢口の声と同時に、長距離から細い光が走る。敵の肩関節が弾け、推力が崩れる。残る二機は護衛を失った瞬間に退却へ舵を切っていく。
退路は、矢口が狭めていた方向。二条の尾が影に吸い込まれ、反応が消える。
「交戦終了。芹沢機、左側損傷率四八%。帰投推奨」
二ノ宮の声で音が戻る。風巻はようやく引き金から指を外し、操縦桿を握り直す。汗でグローブが重い。
帰投ルートの誘導灯が点滅する。芹沢機の肩装甲は歪み、蒸気が輪郭を曇らせていた。矢口機は後方で無言のまま砲身を冷やしている。
**************
帰投した格納区画は乾いて冷たく、セーフティの膜が剥がれると金属の匂いが鋭く刺す。ハッチが開き、梯子を降りる音がやけに響く。
芹沢がヘルメットを外し、真っ直ぐこちらへ。左肩は削れ、フレームが露出している。歩みは揺れず、距離で止まる。
「……ごめ──」
言い切る前に頬を打たれた。音が白壁に跳ね返る。痛みよりも、その音の清潔さが胸を刺す。
「心ここに在らずなのは、わかってた」
芹沢の声は震えているのに、言葉は真っ直ぐだ。
「でもね。戦闘中は、勝つか負けるか、どっちかしかないの」
視線を落としかけて、やめる。逃げれば壊れる気がした。
「次からは──命、懸けることになるかもしれない」
「さっきのが本当に撃ってくる構成だったら、あなたは……ここに立ってないのよ」
その「あなたは」だけが弱くなる。想像が差し込んだのだ。芹沢は瞬きを一度だけ挟む。
「私たちも……怖いの。でも、“次”は、それじゃ済まないの」
涙が光を帯びて溜まり、落ちずに留まる。矢口は端で見て、すぐ視線を逸らす。草薙は背を向けたまま。
風巻は声が出なかった。
喉の奥に、もう一枚の膜が張られているみたいだ。悔しさと情けなさが沈殿し、それなのに胸を押し上げて痛い。
思い出すのは、あの一秒。セーフティ下でも撃てなかった自分。臆病が幕の向こうにいた。芹沢はきっと、それを見抜いていた。
「……ありがとう、ございます」
やっと絞り出した感謝の気持ちは小さな声だった。
芹沢は首を振る。許しではなく、肩の力を抜く合図のような。
「次は、守らないから」
残酷ではない。ただ責任だけを戻す声。
二ノ宮が淡々と整備指示を告げる。矢口が砲身を指で弾き、乾いた音が響く。格納区画の奥、開いたシャッターから外光が伸びていた。
曇天の光は淡く、広がらない。それでも確かにそこにある。
風巻は深く息を吸う。今度は肺の底まで冷たい空気が届く。膜が少し薄くなる。
答えはまだわからない。次の戦場の中でしか見えてこない。けれど、それでいい。今日の教訓を得られたのだから。
光が靴の縁を照らす。
芹沢は目を拭かず、矢口は何も言わず、草薙は背中のまま。二ノ宮はログを閉じる。誰も抱きしめず、誰も突き放さず、各々の位置で次の一歩を待っていた。
頬の熱が引く前に、もう一度深呼吸する。冷たい空気の中、胸の中心だけが少し暖かい。光は弱い。けれど、消えてはいない。
セーフティは外れる。音は強くなる。輪郭は鋭くなる。そこで自分が何をするのか──そのために、グローブを握り直した。
――もう迷わない
誰にも示さず呟く。換気扇が回り、薄い蒸気を攫っていく。光は、さっきよりわずかに濃く見えた。




