平和は突然裏切る
静かだった。
その静けさは、眠気でも緊張でもなく、ただ“無音”のかたちをしていた。
都市の輪郭がまだ光に滲んでいる。
AL社──アステリア・リンクス社、本社営業ブロックの一角。
ホログラムUIが淡く瞬き、キーボードを打つ音が間を繋ぐ。
矢口も、二ノ宮も、芹沢も喋らない。話しかけようともしない。
けれど、その無言に息苦しさはなく、むしろ当たり前のように、その“無”が在った。
風巻 程時は、前のめりの姿勢で端末を覗き込んでいた。
朝礼までにはまだ十数分の猶予がある。けれど、彼は何かに追われるように指先を止め、唇を小さく動かした。
「……あれ? このデータ、昨日のと微妙に照合ずれてるな……」
言葉というより、思考の漏出だった。
眉がわずかに寄る。表示されたグラフの数値が、見慣れたものと微かに違っている。
その“わずか”に、彼は違和感を覚えていた。
椅子がくるりと回る音が、静かな空気を割った。
芹沢 珠希が視線を向ける。
優しげな目元とは裏腹に、その眼差しはきちんと鋭かった。
「もう一度ベースログと突き合わせたら? ──深夜ログ、書き換え入ってたかもね」
彼女の声はどこまでも軽く、飾らず、そして、頼れる。
風巻はすぐに姿勢を戻して、小さく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……芹沢さん、さすがです」
芹沢は笑う。けれど、その笑みには“受け流す”のでも、“許す”のでもない、何か別の色があった。
「“さすが”はいいから。あんたの仕事でしょ、風巻くん」
風巻は口元を引き結び、小さく「はい」とだけ返す。
その声は、やや遠慮気味で──まっすぐだった。
斜め後方のデスクで、矢口 慎吾が端末に目を落としたまま、ぼそりと呟いた。
「深夜0時18分やな。支援AIが一時リダイレクトかけとる。ログ、同期ズレ起こしてるわ。……今、ブレ補正入れとる」
言い方に強調はない。
けれど、その一言一言には、誰にも文句を言わせない“正確さ”があった。
芹沢が立ち上がり、風巻の席に数歩近づく。
風巻のモニターを覗き込み、頷いた。
「ほんとだ。──矢口くん、気づいてた?」
矢口は目線だけを芹沢に向け、淡く吐息を漏らした。
「ま、予想どおりすぎてな。……言うまでもなかったっちゅう話や」
風巻が苦笑する。
「……なんか、ぼく、まだまだですね」
その“まだまだ”に込められた意味を、芹沢は察していた。
けれど、彼女は慰めようとはしない。ただ、言葉を置く。
「それでも、ちゃんと出勤してるだけ、えらいよ」
少し微笑んで──「ね、矢口くん?」
矢口は視線をわずかに逸らした。
「……俺を基準にすんの、やめてくれや。困る」
その言葉に、風巻も芹沢も、何も返さなかった。
沈黙が訪れる。だが、それは空白ではなく、静けさのかたちをした“余韻”だった。
──そして、空気が変わった。
近づく足音。
それは、誰のものかを問うまでもなく、空気の層ごと重心が落ちていくような音だった。
自動ドアが開く。音はない。
それなのに、誰もが即座に動きを止めた。
草薙 修也が立っていた。
制服の裾が揺れる。目は真っ直ぐに3人を捉え──
そして、必要最低限の言葉だけを口にした。
「ブリーフィングルームに。──集まってくれ。できるだけ早くな」
風巻が咄嗟に芹沢を見上げた。
なぜ、と問いたげな視線。だが、言葉にはしない。
芹沢は短く頷き、立ち上がる。
その一連の動作に迷いはなかった。
矢口が静かに応じる。
「──ほな、行こか」
その声が、命令でも報告でもない、“合図”のように聞こえた。
次の瞬間、フロア全体にチャイムが鳴り響く。
規則的な、電子的な音。
けれど、それは──“戦闘開始”を告げる音だった。
風巻の背筋がわずかに強張る。
呼吸の間隔が、気づかぬうちに乱れていた。
誰も何も言わない。
しかし、先輩の芹沢と矢口の表情は硬く、いつもの戦闘開始と同じようには思えなかった。




