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午前九時、稟議はまだ通らない

この世界では、ビジネスが武力で語られる。


書類は弾薬、スライドは砲撃、メールは心理戦の爆弾となり、

人型兵装――《社装ユニット》を纏った企業戦士たちが、

午前9時と共に、戦場オフィスへと歩を進める。


時は、Z-17型ウィルス災禍の影響で、

長時間労働によって精神と肉体が蝕まれる《シャチク・ハザード》が蔓延した時代。


症状が進めば、言葉も通じず、記憶も曖昧となり、

業務も、人間関係も、すべてを崩壊させる“ゾンビ化”へと至る。


それは、ただの病ではない。


働く者の尊厳を奪い、

組織を静かに腐らせてゆく、現代型の崩壊。


人々は“定時”という名の防壁を築き、

企業は“就業規則”という軍律で、自らを守るしかなかった。


ここにあるのは――

スケジュールに縛られた銃撃戦。

稟議と承認に支配された戦争。


世界のルールは、一つだけ。


「戦闘開始は、午前9時 戦闘終了は、午後17時。」


誰もがそれを守る。

それは、唯一の“就業可能な時間”であり、

この星で最も信用できる“健康管理”だった。


――君は、定時に帰る事ができるか――



 無人のオフィスに、朝の光が差し込んでいた。


 蛍光灯はまだ沈黙を保っている。窓際のブラインドをすり抜けた陽射しが、整然と並んだデスクの角を鈍く照らしていた。椅子は一脚も乱されていない。清掃済みのフロアには、空調の吐く微かな風音と、遠くで目覚めた複合機が唸るような電子音がかすかに響いている。


 そんな中、ひとりだけ――


 灰色のジャケットに赤いライン。営業一課の制服を着た芹沢珠希が、奥のデスクに身を沈めていた。寝癖が残る髪を手で押さえ、書類の束に目を細める。


 彼女は小さくつぶやいた。


「……うわ、寝癖すげ……。つーか、なんでアタシこんな早く来てんだっけ……」


 半ば本気、半ば呆れたような調子。指先で一枚の稟議書をつまみあげ、目を通す。


 ――ま、いっか。どうせ今日もなんか起きるんでしょ、うちの課は。


  口には出さなかったが、そんな思いが滲んだ笑みとともに、彼女は端末に視線を落とした。


 ディスプレイには、承認フローのログが並ぶ。未決済の電子稟議が三件。いずれも昨夜、定時ギリギリに上がってきたものだ。


 彼女は右手でマウスを軽く動かし、コメント欄をスクロールする。添付ファイルの確認、参考リンクのチェック。目の動きは素早いが、流し読みではない。読むべきものを、読むべき速さで読む。それが彼女の“仕事の型”だった。


 カーソルが「承認」ボタンの上に静かに止まる。


 ――カチ。


 小さなクリック音だけが、静寂に溶けていく。


 その音を背景に、視線はゆっくりと後ろへ引いていく。整然としたフロア。整えられた椅子。起動を待つ端末たち。すべてが「まだ始業前」であることを、確かに示していた。


 芹沢は、肩にかけたジャケットを指先で押さえた。

ほんの少しだけ、気になることがあったのだ――


「……なんか、スッキリしないんだよね」


言葉にはしづらい。

でも、長年の“課の空気”ってやつが告げていた。


今日も、何かが起きる。そんな予感がしていた。



 


 アステリア・リンクス本社、正面玄関。


 自動ドアが開くと同時に、ひとりの男が歩みを進めた。寝癖をそのままに、くたびれたジャケットを羽織った若手社員。法人営業担当者 風巻程時。


 数日前に配属された新人だ。OJTも終わり実践間近で思いの外はやく目覚めて出社してきた。


 無人のロビーを、足音だけが軽やかに進む。照明はまだ薄暗く、壁の社章が朝の光を反射して鈍く光っていた。


 営業一課のフロア前。社員証をかざすと、端末が電子音で応えた。


 ピッ。


 風巻はため息をひとつ漏らす。


「……まだ誰もいないかな……」


 自動で記録されるタイムログに、出勤を記した彼は、ジャケットの裾を直しながらつぶやいた。


「定時まであと三十五分。つまり、戦闘開始は九時……」


 その時、フロアの奥――わずかな物音に気づく。視線を向けると、誰かが書類を前に動いていた。


「ん?……あれ、芹沢さん?」


 眠たげな目を少し細め、風巻はゆっくりと歩を進めた。


 プレイングマネージャーであり、特攻型営業リーダー芹沢は風巻に気づいていない。むしろ、目の前のモニターに映した稟議書に集中していた。


「この稟議、どう見てもおかしいって……」


 ぽつりと漏らしたその言葉に、風巻の足と挨拶が止まる。



 ――また何かあったのかな……


 眠気が少しずつ遠のいていく。

 世界はまだ“動いていない”はずだった。

 だが、営業一課の朝は、いつも何かがおかしい。


 その“おかしさ”が、この日も、始まっていた。


 蛍光灯はつけられず、照度の足りないオフィスに風巻の影が伸びる。彼は芹沢の背後に立ち、声をかけるか少し迷った末、結局いつもの軽口を選んだ。


「おはようございます……まだ始業前なのに、すごい真剣に何を見てるんですか??」


 芹沢は画面を指差しながら、振り返ることなく応えた。


「見て、これ。稟議書。営業部提出の第42号。昨日通したはずのやつが“差戻し”になってんのよ」


 モニターに赤く浮かぶ警告文字――「承認エラー:印影不一致」。


「え、誰かが消したとか……?」


「いや、そんなレベルじゃない。ログ見ると“最初から未提出”ってなってる。提出者:営業一課、印影:不一致」


 風巻は思わず息をのんだ。


「……まさか、これ“なかったこと”にされてる?」


「下手すりゃ、今日の午前中に間に合わないよ。例のサイバネ社の案件、プレゼンできなくなる」


「え、それ普通に営業壊滅するやつじゃないっすか……」


 芹沢のこめかみに、じわりと汗がにじむ。

 静寂の中、その雫がまるでBGMのカウントダウンのようにスローモーションで落ちていくように見えた。


「マジで笑えないのよ、風巻。あと三十分で定時。稟議が通らなきゃ、戦闘開始も許可されない。それに定時オーバーだとZウィルスの餌食。マジ容赦ないから、17時を少しでもオーバーしたら、シャチク・ハザードが起きる」


 風巻は呆れ混じりに口を開いた。


「そもそも僕たち“営業”なのに、なんで出撃許可が稟議制なんすか……」


「社風。アステリア・リンクスの伝統。あと、稟議通さずに発進すると社装ユニットが“キレる”から」


「キレる?」


「制御暴走モード、通称“クレーマー起動”。稟議通さないで動くとこいつに引っかかって各部署から煙たがれる。マジでめんどくさい」


 若干引いた風巻の表情を見て、芹沢が肩をすくめる。


「うちの前部長、天道さんの前任が設計したんだよ」


「そんな仕組み入れるなんて……性格わるいっすね」


「ほんとそれ」


 ふと、芹沢の目がさらに険しくなる。

 背後の空気が、ひやりと変わった。


「……ていうか、これやばいかも。いま稟議、どこにあると思う?」


 風巻は咄嗟にモニターを見返した。


「え、データロストじゃないんすか?」


「違う。経理部にある。――“紙で”」


 沈黙。フロアの空気が一瞬、重くなる。


「お察しの通り、ハンコ待ち」


「えええ…………昭和時代の名残にしては歴史が深すぎません……?」


「しかも、経理部の担当が今日から出張中で代理不在」


 風巻は、天井を仰いだ。


「詰んでませんか、それ……?」


 


 ――誰がみても詰んでいた。



 そして、稟議書を営業部で最後に扱ったのは風巻だった。

芹沢の一言一句に焦りが二重。

 

(やばいやばちやばい!通ってないの?!……)

(どこで……どこで止まってるんだ……!?)


「……ねえ風巻。あんた今日の戦闘稟議、誰が出したって言ってたっけ?」


 芹沢の確信をついた問いかけに、風巻はしどろもどろになる。


「い、いや……俺が……昨日の午前には……」


 すかさず、第三の声が割り込んできた。いつのまにか出勤して近くのデスクで話を聞いていた、営業戦略企画/業務改善担当で流暢な関西弁の矢口だった。今はこの三人しかいないのだ、話は筒抜け。


「出てないな。正確には“電子承認が未完了”。途中で紙申請に切り替わってるんや。誰やねん昭和戦術使ったの」


「え、え!? でも、社内回覧は……」


「――紙稟議書に切り替わったのは、たぶん草薙さんやな」


 矢口は画面を睨みつつ、冷静に言葉を重ねていく。


「経理側で“電子ロックが解除できない”って拒否された時点で、紙しか通らないんや。で、草薙さん、昨日は胃を抑えながら“手で回すわ…”って言うてたな」


 営業一課 課長代理である草薙は、チームでも影が薄く風巻も頼み事をしやすい人間だった。


「ねえ……紙って今どこにあんのよ。まさか――」


「社内第3アーカイブや。物理保管庫。……鍵は経理課の天城さんが持ってるなぁ」


 そして、トドメ。


「しかも今日、出張や」


「詰んだぁーーーッ!!」


 風巻の絶叫が、朝のオフィスに響いた。


 芹沢が机を叩く。


「何してんのよ草薙さんは!!こんなんで出撃できるかっての!」


 だが矢口は、口の端だけで笑う。


「逆に言えば、保管庫を開けさえすれば紙の稟議書を回収できるんや。連絡先は……あった。天城の机の裏に非常鍵の管理カードがあるって、社内wikiに記録があるわ」


矢口がモニターをじっと見つめながらキーボードを叩く音が続く。風巻は何か解決策が出ないかと祈るような思いで矢口のだす結論を待つ。

 

「これ、ハンコランナーになるいい機会やな。問題は各管理職がもう出勤してるかどうかや。流石に机の引き出し漁ってハンコ探すわけにはいかんやろ?」


 風巻は責任を感じていた。やるしかないと、答えは一つしかなかった。


「わ、わかった……! 僕、行ってきます!」



「ダッシュよ。稟議書ってのは、実際に走って届けて初めて通るの!」


 芹沢の目は本気だった。

 

 背後で矢口が、皮肉交じりに呟く。


「紙を通せば出撃できる。昭和が現代を救う。うんうん。いい話やなぁ」



 ――営業一課、出撃前の最初の戦場は、社内だった。


 

 走り出そうとするその肩を誰かが叩く。

 

「天道部長……」

 


「……俺が動く」


 天道令司。

 営業一課の部長。伝説の稟議走者。ハンコランナーと言う軽蔑にも聞こえる言葉も天道の前で揶揄するものは一人もいない。

 

 彼の背中が、ゆっくりと動いた。


「でも、課長代理の印が……あれ、草薙さん、まだ出勤してないんじゃ……」



 風巻の戸惑いを芹沢が遮る。


「何で自部署の承認に自分のハンコ押してないのよ!!」

と言いながら机を叩く。


「もういいわ!出撃承認なら私の口添えでいける!草薙さんは私が説得する!」


 言い切ると、芹沢は別の端末へと移動する。


「芹沢君、頼むぞ」


芹沢は目線もくれずに手だけで了承する。

それを確認した天道は、何も言わずジャケットを整え、インカムマイクを装備して歩き出した。



「あ、ぶ、部長!僕は……」


「黙ってみていろ……」


 風巻の言葉を打ち消すように、天道は居室を出て行った。

 

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