構文なき照合
翌朝――午前8時57分。
社装ユニットの出撃準備は、定刻通りに進行していた。
二ノ宮 梓は静かな管制室の片隅で、前日から照合未成立のまま手動モードに移行していたSIG-MIRRORを見つめていた。
そのレンズに、照合対象がいないままフィールドだけが展開されていく。
整合率の数値は現れず、“照合対象なし”の警告が浮かび続けている。
「構文……成立せず」
彼女は目を細めた。これまで積み上げてきた資料照合の全てを否定するような、その赤文字のエラー表示。
それでも、視線は逸らさなかった。
風巻 程時の社装ユニットは、格納エリアから搬出される直前だった。
彼は操縦席でヘルメットを装着しながら、管制からのリンクが未接続であることに気づく。
「……あれ? 照合、まだ通ってない?」
スーツの内蔵モニターには“未照合出撃”の警告が出ている。
それが意味するのは、資料が正式に承認されていないまま出撃しようとしているという事実。
彼は自分の胸元を軽く叩いてから、無線を開いた。
「矢口さん、芹沢さん……あの、照合ログって、まだ……?」
その言葉に、矢口 慎吾が舌打ちした。
「はあ? 風巻、お前……マジか。まだ通してへんのか」
「な、なんでですか、今……申請は……」
矢口は風巻の資料の照合履歴をみて、大きくため息をつく
「おまえなぁ……定時過ぎとんねん。そら通るわけないやろが」
同じチャンネルにいた芹沢 珠希の声が、ひときわ静かに割り込んだ。
「風巻くん、それって……つまり、まだ“照合されてない”ってこと?」
「……はい……そうみたいです」
その返答の一秒後、沈黙が通信チャンネル全体を包んだ。
二ノ宮のレンズに、微かな変化が映る。
構文整合率:42%
“暫定成立”
彼女は、画面の奥に風巻の未照合資料が“感応”しているのを見た。
整合率の数値は、あまりにも低い。だが、反応は“ゼロ”ではない。
SIG-MIRRORの照合構文に、あの資料は適合しない。
提出時刻外、未承認──成立しない。
それでも、彼女は視線を向け続けていた。
ひとつの可能性に賭けるように。
“感応:照合演算外構文に対する再起動”
二ノ宮のログに、草薙 修也の名が浮かんだ。
それは構文ではなく、“信じた”という記録の残響だった。
正規のルートではない。
だが草薙の信頼ログが、バックチャネルを通じて照合条件を補完する。
SIG-MIRRORはその演算を受け入れた。
構文ではない照合。
規格外の、しかし確かな──成立だった。
【承認シンクライン:接続】
その瞬間、整合率が再演算される。
構文整合率:78%
二ノ宮の息が、わずかに揺れた。
フィールド上に“照合成立”の青いサインが灯る。
彼女は、かすかに頷いた。
「……信頼で、条件を越えた」
風巻のスーツに新たなHUDが展開される。
“照合成立構文:二ノ宮 梓”
“資料認証:草薙 修也”
その通知を見て、風巻は、はっと息を飲んだ。
「……あの人が、また……?」
照合された。認められた。
未提出でありながら、資料が戦場に届いた。
──風巻は、起動レバーに手をかけた。
「行きます、草薙さん。二ノ宮さん……ありがとう」
スーツが加速する。
整合された世界の中、彼の視界は、もはや迷いのない戦場を映していた。