定時の壁
提出リストがひとつずつ緑に変わっていくなかで、
二ノ宮 梓の視線だけが、画面の隅に残る赤点に留まっていた。
風巻 程時。
提出状況:未送信。
ステータス:待機中。
提出時刻の締切まで、あと一分と少し。
沈黙の中、彼女は右手を動かす。
SIG-MIRRORの管理者メニューを開き、内部照合の切替処理にアクセスした。
──手動照合モード:予約起動。
彼女はゆっくりと指を止め、空気に紛れるような声で言った。
「私は……ここまで」
それは規則の枠内に収まった、唯一の行動だった。
草薙 修也は、別フロアの管制室で沈黙していた。
風巻の提出ログが空欄のまま、モニター上で点滅している。
椅子にもたれたまま、彼はその欄に目をやりながらも、承認カーソルには一切触れない。
いま草薙が承認するということは、“出す前に信じた”という前例をまた積むことになる。
その重さを、彼は誰よりも知っていた。
──通さない。
その判断だけが、沈黙の中で確定していた。
風巻は提出端末の前に座ったまま、手を止めていた。
モニターには最終提出構文が入力済みのウィンドウ。あとは送信するだけの状態だった。
けれど指先は動かない。画面に映る文字列の中に、ほんのわずかな迷いがまだあった。
──この文で、本当に照合されるだろうか。
かつて二ノ宮に返された一言が、記憶のログから浮かぶ。
《構文不明瞭。再提出推奨》
怒っていたわけじゃない。ただ冷静に、機械のように、そう返された。
でも、その一文が、ずっと頭に残っていた。
今回だけは、照合されてほしい。
そうでなければ、彼女に向けるこの決意は、意味を持たない。
風巻は構文の一行を再編集した。
ひと文字ずつ、慎重に。
──二ノ宮さんに、読まれるなら。
そんな想いを込めながら、彼は送信ボタンに指をかけた――。
午後五時。
社内にアラートが響く。
──提出締切。
──業務終了。
──照合遮断。
二ノ宮のホログラムに、予約処理完了の通知が届く。
SIG-MIRRORは、17:00ちょうどのタイムスタンプで、手動照合モードに自動移行した。
彼女はもはや、何も操作しない。
手を膝に置き、ただレンズ越しの世界の変化を見ていた。
草薙の端末にも、同じ通知が届く。
“SIG-MIRROR:予約照合 実行完了”
それを見た彼は、何も言わなかった。
だが、モニターに映る視線ログの変化に気づくと、わずかにまばたきをした。
風巻の端末に、提出エラーの通知が出た。
《提出時刻:17:00:42》
《ステータス:拒否(時刻外)》
《照合:未成立》
その結果は、予想していた。
風巻は、わずかに笑った。
「やっぱり、か……」
失敗でも後悔でもない。
それでも、出したことに意味があると思いたかった。
二ノ宮の視界に、照合フィールドが展開されていく。
だがその画面に表示されたのは、“構文不一致”“照合対象:規格外”の警告だった。
それでも彼女はレンズを外さない。
操作をするわけでも、再入力を求めるでもなく、ただ覗き込み続ける。
「あなたの信号を……もう一度、探してみます」
草薙は、その声が記録ログに乗ったのを見た。
“照合再試行:視線連動による再同期検出中”
彼は息を吐くようにまばたきし、それ以上は何もせず画面から視線を外した。
風巻のHUDに、“照合ログ接近”の通知が浮かぶ。
だが彼は反応を見せない。
二ノ宮がまだ照合しようとしていると知っていても、何も返さなかった。
レンズ越しの世界に、整合率の数値は出ない。
それでも、二ノ宮はそのまま、目を閉じずにレンズの奥を見続けていた。