表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/25

静寂の稟議 絶たれるライン

朝の光が、静かに床を撫でていた。


営業一課の居室──無機質な壁とガラスの間に差し込む陽射しが、まだ稼働前の空間にやわらかな色を与えている。机の上には整理された資料束。誰もいない空気の中で、カタリ、と軽い音を立てて一つのファイルが動いた。


ドアが開く。

風巻程時が静かに入ってきて、控えめに「おはようございます」と小さく声を置く。もちろん返事はない。まだ誰もいない。


けれど、彼の表情は少しだけ緩んでいた。

誰より早く来たことに対する、自分へのささやかな誇り。

彼は席に着くと、端末を起動しながら、息を整えるように背筋を伸ばした。


その数分後──


「おはよう、風巻くん。今日も一番乗り?」


やわらかな声とともに、芹沢珠希が入ってきた。

定時五分前。まるで時計が彼女に合わせて動いているかのような、毎朝の光景。


「はい。なんか……早く目が覚めちゃって」


「ふふ。真面目なのはいいけど、身体は大事にね。……あ、そうそう。昨日の資料、助かったわ」


「いえっ、芹沢さんのチェックがあってこそです。僕は、全然……」


「そういうところよ。風巻くんの偉いところ」


軽く笑いながら、芹沢は給湯機に向かう。

コーヒーの香りが空間に広がり、朝の空気をすこしずつ暖めていく。


──定時一分前。


バタン、とドアが強めに開いた。


「間に合ったー……ギリやな、ギリ」


矢口慎吾がやってくる。紙袋とドリンクを片手に、肩で息をしながら髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。


「おはようございます、矢口さん」


「……んー、まあ、ええわ。見たか? 今のスピード。コンビニの棚からレジまで、世界記録レベルやで」


「またコーヒーとおにぎりですか?」


「いや今日は違う。カレーパンや。朝カレーパンは集中力が……って芹沢さん、それ睨まんとって」


芹沢は優雅にコーヒーをかき混ぜながら、にこりともせずに言った。


「言い訳の時間があるなら、出勤を一分早められるわよね?」


「……うう、朝から女王様や」


風巻が思わず笑いを漏らすと、芹沢もようやく口元をほころばせた。

部屋の中に、自然と会話の輪が広がっていく。


誰が指示したわけでもない。

でも、それぞれが自分の持ち場に座り、端末を起動させる頃には──営業一課の朝が、ちゃんと始まっていた。


空調の音。キーボードを叩く音。紙がめくられる音。

いくつかの温度が、ひとつの空気になって、部屋に溶け込んでいた。


それは確かに、いつもの朝だった。


──ただし、今日は違っていた。




 


二ノ宮梓は、地下三階の資料照合室にいた。

時刻は午前八時五十七分。稼働直前の静かなフロアで、端末の光だけが彼女の瞳を照らしている。


背筋を真っすぐに伸ばし、椅子に浅く腰掛けた姿勢のまま、彼女は画面を凝視していた。

照合データの最終チェック──出撃直前、すべての戦闘資料が正しく稟議承認されているかどうか。

それは、彼女の職責だった。


端末のログに、警告音は鳴らない。

けれど、ほんの一瞬だけ、表示が揺れた。

それを見逃さなかった指先が、反射的にキーを押し込む。


その指が、微かに震えていた。


──照合ラインが……途切れている?


画面上、稟議ルートを示す緑の線が、ある一点でプツリと切れていた。

通常であれば、中央稟議サーバを経由して、全ての資料は承認印が連結されているはずだった。


だが、そこにあったのは──空白。

記録されていない時間。誰かが、どこかで、そのラインを迂回していた。


しかもそれは、わずか数分前に通されたばかりの稟議。


二ノ宮は、眉間にしわを寄せたまま、すぐに承認履歴を遡りはじめた。

照合室の空気が、静かに変わっていく。

青白い照明が、端末の警告表示に合わせて、赤く染まる。


 


声にはならない呟きが、唇の端にだけ残る。

画面上のラインが赤く点滅し、次の瞬間、システムが警告を吐き出した。


「……これは……」


微かに眉間が寄り、瞳が光を追う。

静まり返った照合室。青白い照明が機械音とともに点滅し、積まれた資料の影を淡く揺らしていた。

その中に──“未承認の戦闘資料”がひとつ、まぎれていた。


「稟議……通ってない……なのに……戦闘で?」


冷静に、だが焦りを孕んだまま、指が操作ログを遡る。

モニターの隅で、別のウィンドウが開く。突発稟議。緊急戦闘。


「……侵入、じゃない……これは、誰かが――」


後ろの扉が音もなく開いた。

二ノ宮は振り返らない。振り返る前に、気配が空気を変えていた。


背後の扉が音もなく開いた。

その瞬間、空気が一段冷えた。


二ノ宮は振り返らない。

背中に走る気配だけで、誰かを即座に認識していた。


「何があった? 説明してくれ」


草薙修也。

低く、曇りのない声。

無駄がなく、だが言葉の隅に確かな緊張がにじんでいる。


彼がここに来たということ──それ自体が、すでに異常事態の証明だった。


二ノ宮は、ひとつ息を吐くと、モニターの表示を指差した。

稟議照合のラインが断裂している場所。未承認の稟議が通過した履歴。


「未承認の資料が……戦闘で使用されました。

 突発戦闘の稟議が、いま自動通過──」


一瞬だけ言葉を切る。

そのまま端末を操作し、稟議内訳を開示する。そこに記載されていたのは──


「……営業三課の名義です。

 使用目的:営業戦闘。指定区域:臨海第三七ブロック」


草薙の眉が、ほんの僅かに動く。

だが言葉は発さない。彼はただ、黙ってスクリーンを見つめた。


「この稟議が処理されたのは、八時五十四分。

 照合網を経由していません。

 明らかに、社内システムの“最短ルート”を使って通されたものです。

 ──たとえば、非常承認プロトコル。つまり、内部で誰かが“突発戦闘の正当性”を強制認定した可能性があります」


二ノ宮の視線が、草薙へ向けられる。

だがその目は怯んでいなかった。むしろ、言うべきことを探しながら、言葉を組み立てている。


「おそらく──三課は、すでに動いています。

 この時間に承認が通っているということは、戦闘開始時刻は“定時”──つまり、午前九時ちょうどです」


「……定時前に、か?」


草薙の声が、わずかに低く落ちた。

そのまま、モニターに視線を戻す。


「……馬鹿な。何を考えている……ッ」


言葉には荒さがあった。だが、それは感情ではなく、構造の歪みに対する怒りだった。


「リスクをとったのか……? いや、違う。

 三課は“戦わされている”。

 定時をまたぐ直前に動かされれば、こちらの対応は“内部承認による越境”と見なされかねない。

 GF社は、それを読んで仕掛けてきた」


草薙の目が細くなる。

冷静の奥にある苛立ちが、言葉を研ぎ澄ませる。


「このまま戦闘が定時を跨げば、AL側は“正当な自衛”として記録できる。

 だがいまは違う──これは、法的にも組織的にも“罠”だ」


「……GF社か」


草薙の声が、もう一度落ち着きを取り戻す。

だが沈黙の温度は変わっていた。


「はい。出撃対象の照合はまだ完了していませんが、資料の分類形式から見て、AL社内での通常模擬戦ではないことは確実です。

 外部発信されるユニット信号の先行データも──すでにこちらの照合網で検知済みです」


彼女の指が、画面端のサブウィンドウを開く。

そこに表示されたのは、通信遅延わずか0.3秒のリアルタイム外部信号──GF社のものだった。


「ログのパターンも一致しています。

 昨日、第三課が一度拒否した提案書の内部形式と同一。

 つまり、GF社から仕掛けられた戦闘に、三課が即応して出撃したと考えるのが妥当です


 沈黙が落ちる。


草薙は、わずかに顎を引いた。

スクリーンの光が、その表情を斜めに切り取る。


「……GF社め。何を考えている」


低く、呟くように。

だが、その言葉には明確な意思が込められていた。


次の瞬間、彼は踵を返す。

扉へ向かって歩き出す動作に、ためらいはなかった。


足音は静かだった。

だが、確実に──何かが、動き出した。


扉が閉まる直前、草薙の背に向かって二ノ宮が声をかける。


「草薙さん、照合データのリンクはこのまま保持します」


返事はなかった。

けれど、そのまま何も修正されないモニターが、無言の肯定を示していた。


青白い照明の下。

二人の間に、もう日常はなかった。


──状況は、始まりつつあった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ