静寂の稟議 絶たれるライン
朝の光が、静かに床を撫でていた。
営業一課の居室──無機質な壁とガラスの間に差し込む陽射しが、まだ稼働前の空間にやわらかな色を与えている。机の上には整理された資料束。誰もいない空気の中で、カタリ、と軽い音を立てて一つのファイルが動いた。
ドアが開く。
風巻程時が静かに入ってきて、控えめに「おはようございます」と小さく声を置く。もちろん返事はない。まだ誰もいない。
けれど、彼の表情は少しだけ緩んでいた。
誰より早く来たことに対する、自分へのささやかな誇り。
彼は席に着くと、端末を起動しながら、息を整えるように背筋を伸ばした。
その数分後──
「おはよう、風巻くん。今日も一番乗り?」
やわらかな声とともに、芹沢珠希が入ってきた。
定時五分前。まるで時計が彼女に合わせて動いているかのような、毎朝の光景。
「はい。なんか……早く目が覚めちゃって」
「ふふ。真面目なのはいいけど、身体は大事にね。……あ、そうそう。昨日の資料、助かったわ」
「いえっ、芹沢さんのチェックがあってこそです。僕は、全然……」
「そういうところよ。風巻くんの偉いところ」
軽く笑いながら、芹沢は給湯機に向かう。
コーヒーの香りが空間に広がり、朝の空気をすこしずつ暖めていく。
──定時一分前。
バタン、とドアが強めに開いた。
「間に合ったー……ギリやな、ギリ」
矢口慎吾がやってくる。紙袋とドリンクを片手に、肩で息をしながら髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
「おはようございます、矢口さん」
「……んー、まあ、ええわ。見たか? 今のスピード。コンビニの棚からレジまで、世界記録レベルやで」
「またコーヒーとおにぎりですか?」
「いや今日は違う。カレーパンや。朝カレーパンは集中力が……って芹沢さん、それ睨まんとって」
芹沢は優雅にコーヒーをかき混ぜながら、にこりともせずに言った。
「言い訳の時間があるなら、出勤を一分早められるわよね?」
「……うう、朝から女王様や」
風巻が思わず笑いを漏らすと、芹沢もようやく口元をほころばせた。
部屋の中に、自然と会話の輪が広がっていく。
誰が指示したわけでもない。
でも、それぞれが自分の持ち場に座り、端末を起動させる頃には──営業一課の朝が、ちゃんと始まっていた。
空調の音。キーボードを叩く音。紙がめくられる音。
いくつかの温度が、ひとつの空気になって、部屋に溶け込んでいた。
それは確かに、いつもの朝だった。
──ただし、今日は違っていた。
二ノ宮梓は、地下三階の資料照合室にいた。
時刻は午前八時五十七分。稼働直前の静かなフロアで、端末の光だけが彼女の瞳を照らしている。
背筋を真っすぐに伸ばし、椅子に浅く腰掛けた姿勢のまま、彼女は画面を凝視していた。
照合データの最終チェック──出撃直前、すべての戦闘資料が正しく稟議承認されているかどうか。
それは、彼女の職責だった。
端末のログに、警告音は鳴らない。
けれど、ほんの一瞬だけ、表示が揺れた。
それを見逃さなかった指先が、反射的にキーを押し込む。
その指が、微かに震えていた。
──照合ラインが……途切れている?
画面上、稟議ルートを示す緑の線が、ある一点でプツリと切れていた。
通常であれば、中央稟議サーバを経由して、全ての資料は承認印が連結されているはずだった。
だが、そこにあったのは──空白。
記録されていない時間。誰かが、どこかで、そのラインを迂回していた。
しかもそれは、わずか数分前に通されたばかりの稟議。
二ノ宮は、眉間にしわを寄せたまま、すぐに承認履歴を遡りはじめた。
照合室の空気が、静かに変わっていく。
青白い照明が、端末の警告表示に合わせて、赤く染まる。
声にはならない呟きが、唇の端にだけ残る。
画面上のラインが赤く点滅し、次の瞬間、システムが警告を吐き出した。
「……これは……」
微かに眉間が寄り、瞳が光を追う。
静まり返った照合室。青白い照明が機械音とともに点滅し、積まれた資料の影を淡く揺らしていた。
その中に──“未承認の戦闘資料”がひとつ、まぎれていた。
「稟議……通ってない……なのに……戦闘で?」
冷静に、だが焦りを孕んだまま、指が操作ログを遡る。
モニターの隅で、別のウィンドウが開く。突発稟議。緊急戦闘。
「……侵入、じゃない……これは、誰かが――」
後ろの扉が音もなく開いた。
二ノ宮は振り返らない。振り返る前に、気配が空気を変えていた。
背後の扉が音もなく開いた。
その瞬間、空気が一段冷えた。
二ノ宮は振り返らない。
背中に走る気配だけで、誰かを即座に認識していた。
「何があった? 説明してくれ」
草薙修也。
低く、曇りのない声。
無駄がなく、だが言葉の隅に確かな緊張がにじんでいる。
彼がここに来たということ──それ自体が、すでに異常事態の証明だった。
二ノ宮は、ひとつ息を吐くと、モニターの表示を指差した。
稟議照合のラインが断裂している場所。未承認の稟議が通過した履歴。
「未承認の資料が……戦闘で使用されました。
突発戦闘の稟議が、いま自動通過──」
一瞬だけ言葉を切る。
そのまま端末を操作し、稟議内訳を開示する。そこに記載されていたのは──
「……営業三課の名義です。
使用目的:営業戦闘。指定区域:臨海第三七ブロック」
草薙の眉が、ほんの僅かに動く。
だが言葉は発さない。彼はただ、黙ってスクリーンを見つめた。
「この稟議が処理されたのは、八時五十四分。
照合網を経由していません。
明らかに、社内システムの“最短ルート”を使って通されたものです。
──たとえば、非常承認プロトコル。つまり、内部で誰かが“突発戦闘の正当性”を強制認定した可能性があります」
二ノ宮の視線が、草薙へ向けられる。
だがその目は怯んでいなかった。むしろ、言うべきことを探しながら、言葉を組み立てている。
「おそらく──三課は、すでに動いています。
この時間に承認が通っているということは、戦闘開始時刻は“定時”──つまり、午前九時ちょうどです」
「……定時前に、か?」
草薙の声が、わずかに低く落ちた。
そのまま、モニターに視線を戻す。
「……馬鹿な。何を考えている……ッ」
言葉には荒さがあった。だが、それは感情ではなく、構造の歪みに対する怒りだった。
「リスクをとったのか……? いや、違う。
三課は“戦わされている”。
定時をまたぐ直前に動かされれば、こちらの対応は“内部承認による越境”と見なされかねない。
GF社は、それを読んで仕掛けてきた」
草薙の目が細くなる。
冷静の奥にある苛立ちが、言葉を研ぎ澄ませる。
「このまま戦闘が定時を跨げば、AL側は“正当な自衛”として記録できる。
だがいまは違う──これは、法的にも組織的にも“罠”だ」
「……GF社か」
草薙の声が、もう一度落ち着きを取り戻す。
だが沈黙の温度は変わっていた。
「はい。出撃対象の照合はまだ完了していませんが、資料の分類形式から見て、AL社内での通常模擬戦ではないことは確実です。
外部発信されるユニット信号の先行データも──すでにこちらの照合網で検知済みです」
彼女の指が、画面端のサブウィンドウを開く。
そこに表示されたのは、通信遅延わずか0.3秒のリアルタイム外部信号──GF社のものだった。
「ログのパターンも一致しています。
昨日、第三課が一度拒否した提案書の内部形式と同一。
つまり、GF社から仕掛けられた戦闘に、三課が即応して出撃したと考えるのが妥当です
沈黙が落ちる。
草薙は、わずかに顎を引いた。
スクリーンの光が、その表情を斜めに切り取る。
「……GF社め。何を考えている」
低く、呟くように。
だが、その言葉には明確な意思が込められていた。
次の瞬間、彼は踵を返す。
扉へ向かって歩き出す動作に、ためらいはなかった。
足音は静かだった。
だが、確実に──何かが、動き出した。
扉が閉まる直前、草薙の背に向かって二ノ宮が声をかける。
「草薙さん、照合データのリンクはこのまま保持します」
返事はなかった。
けれど、そのまま何も修正されないモニターが、無言の肯定を示していた。
青白い照明の下。
二人の間に、もう日常はなかった。
──状況は、始まりつつあった。