静かなる照合全線(二ノ宮梓)
目覚ましの音は、鳴らない。
スマートデバイスのアラームは、彼女が起きた後にそっと止められる。
手のひらの温度を確かめるように、布団の中で指をゆっくりと折りたたむ──それが、二ノ宮梓の一日の始まりだった。
起床時刻、6時42分。
ぴたりと定まっているわけではないが、ほとんど誤差がない。
カーテンを開けるのは、ほんの少し。
朝の光が床に届く程度。
まぶたに落ちる気配だけで、空の色を測る。
白湯を飲む。湯呑みは陶器。音は立てない。
顔を洗うときも、タオルをかけるときも、鏡をのぞきこむようなことはしない。
準備は正確だが、遅くはなく、早すぎない。
どこか「間」を残している。それが彼女にとっての“整える”という行為だった。
制服の上着は、家では着ない。
仕事用のリュックの中に入れ、外に出てから羽織る。
空気の変化に気づけるように。
7時37分、玄関の鍵を閉めた。
歩き出すまでに2秒、足元の音を確認するのに1秒。
それから、街に向けて静かに歩き出す。
通勤路に、猫がいることがある。
そのとき──
彼女は、止まる。
声もなく、手も伸ばさず、ただ“いる”という事実を見つめる。
数秒の、観測。
耳の奥で風が鳴る音が、いつもよりやさしい。
猫が振り向く。けれど、二ノ宮は何もしない。
可愛がるとは、黙って観測することだと、彼女は知っている。
「好きだよ」と言葉にする前に、そういうまなざしを持つ。
再び歩き出す頃には、猫の姿はもう視界にない。
それでも、ポケットの中の指先だけが、少しだけ温かい。
8時27分、AL社の敷地に入る。
IDカードを翳す動作に迷いはない。
誰かが後ろにいたとしても、振り返ることはない。
ただ、ひとつの線として、一日の始まりに滑り込む。
その足音に、焦りはなく
整っていた。
午前八時四十五分。
社内はまだ静かで、足音ひとつさえも清潔な床に吸い込まれていくようだった。
二ノ宮は、定位置とも言えるオペレーションルームの端末前に腰を下ろした。
目元に馴染むメガネ型端末《SIG-MIRROR》が、わずかに音を立てて起動する。
ゆるやかな起動音とともに、視界に透過されたインターフェースが立ち上がる。
青白い光線が網目のように走り、社内照合網へと接続が確立される。
「照合構文、起動完了。社内ネットワーク、接続確認……」
小さく呟く声は、ほとんど息に溶けていた。
彼女にとって、この作業は歯磨きにも似た日常の一部だった。
けれど──その朝は、いつもと違った。
ログ一覧に並ぶ承認履歴の中で、ひとつだけ、異質なものがあった。
他のログが整理された提出・承認の時系列を保っている中、それだけが浮いている。
──提出者:無記名
──承認者:草薙 修也
──承認時刻:前日 16:58
──照合状況:未照合
二ノ宮は眉を動かさないまま、視線をログの時刻へと這わせた。
その動作すら、情報照合の一部であるかのように静かだった。
「……時刻は、昨日の、十六時五十八分……」
再確認するように唇が動き、ポインタが草薙の名前にロックされる。
透過ディスプレイの奥に浮かぶその名は、光に揺れる水面のように映る。
──また、規則より信頼を優先したんですね。
心のなかで呟いた言葉は、どこにも記録されない。
だが彼女の眼差しは、それだけで充分に“意図”を伝えていた。
草薙 修也。
直属の上司であり、信頼すべき承認者。
だが、誰よりも“定時の壁”に抗おうとする者でもあった。
SIG-MIRRORのHUDには、赤く警告が灯る。
──提出シンクライン未接続
──照合対象:未定義
これは“存在してはならない”資料だ。
提出された形跡がないまま、承認だけが通っている。
「……」
梓は、何も言わずに画面を閉じた。
いや、正確には──ログだけを視界の端に残したまま、モードを切り替えていた。
照合不能。それでも、無視はできなかった。
そのとき。
オペレーションルームの天井スピーカーから、規則正しいチャイムが鳴る。
──午前九時。
定時、開始
SIG-MIRRORが自動で戦闘モードに移行する。
レンズがわずかに光を放ち、梓の視線が新たな照合構文に沿って再配置される。
照合対象:なし
承認対象:不明
──それでも、見る価値はある。
その思いだけが、彼女のなかで確かなログとして残った。
静かに、まばたきを一度。
起動音とともに、透過レンズに都市の空が映り込んだ。