契約の箱の行方
大小さまざまな裸電球がぶら下がるダイニング。温かみを帯びる淡い灯りに照らされた四人掛けのテーブルの上には、割れたティーカップとソーサーが散らばっていた。
――――ぽたり、ぽたり。
部屋は華やかな甘い香りに包まれ、香りの源と思わしき液体は割れたティーカップを起点に広がり、テーブルの縁を伝って床へと滴り落ちている。
「少しは落ち着いたか?」
ペンダントライトに照らされた晴乃は、さも退屈そうにテーブルに肘をついていた。
――――ぽた、ぽたり。
晴乃の対面では、先程客人に振る舞った紅茶を床が飲み続けている。
「……別に。私は最初から冷静です。」
足元が紅茶で濡れているのも気にせず、晴乃の向かいに立つ女は答えた。
時計の短針は十一時を回り、夜の帳はとうに下りている。
時刻のせいか外界は静まり返っており、まるでこの家の中だけ時が進んでいるようだ。
そんな静寂の中、晴乃の鼻にかけた声はやけに大きく響いた。
「冷静な人間が、人様の家で出されたカップを投げるとはな。」
「冷静だから、捨てたんです。こんなものを口にできる神経が理解できません。」
女は吐き捨てるように言った。
その視線は退屈そうに座る晴乃ではなく、テーブルから滴り落ちる琥珀色の液体に注がれている。
――――ぽた、ぽたり。
どこか不規則な水音だけが響く中、暗闇は嗤う。
「あら、このお茶はお口に合わなかったかしら?」
誰をも魅了するような、美しい女の声。嘲笑を滲ませた、本来ならば不快であるはずの、しかしなぜか憎めない愛らしい声。
「ふふっ、返事くらいしてくれてもいいのよ?」
声の主は晴乃の背後、その暗闇からぬるりと顔を覗かせ、首を傾げた。
亜麻色の髪に、陶器のように滑らかな肌。夕暮れを思わせる瞳を細め、目を引くほど艶やかな紅色の唇は弧を描く。
絵から抜け出したような、という言葉が似合う女は仄暗い闇から現れ、耳の中に残る粘り気を感じさせる声で嗤った。相対するもう一人の女は、この世ならざる光景に息を呑むと同時に、得体の知れない気味の悪さと言いようのない嫌悪感に襲われ、肌が粟立つ感覚に襲われる。
高位の隣人は人を魅了する。
視える者ならば誰もが知る常識が、女の脳裏をよぎった。
「あなたなんかと話している暇はないのっ!」
心の底から湧き上がる恐怖を振り払うかのように女は叫ぶ。
しかし、本能がその脅威から逃れようと腰が引け、足はじりじりと後退していた。
「……だ、そうだ。樒、話がややこしくなるから下がっていろ。」
その様子を見ていた晴乃は盛大にため息をつくと、背後にいるソレを振り払うように片腕を上げて言う。
「せっかく美味しい紅茶を淹れてあげたのに、残念ねぇ。」
樒はたいして残念そうでもない声色で嗤うと、晴乃の背後の闇にどろりと溶けて消えていく。
一連の様子を見ていた女は、荒くなった呼吸を落ち着かせるように深呼吸をすると、しばしの沈黙の後口を開いた。
「…………配慮に、感謝します。」
女の声には不本意が滲み出ていたが、晴乃は特に気にしていないのか視線だけで続きを促す。
「……今回の案件ですが、口頭の報告だけでは不十分です。お手数ですが、書面での提出をお願いします。」
眉上に切り揃えられた前髪をかきあげながら、女は自身がこの家を訪れた目的をようやく口にした。
言い終えた安堵からか、女はそっと胸をなで下ろしている。
しかし、打って変わって女の言葉を聞いた晴乃の顔には不満げな表情が浮かんだ。
「それは特異保護観察課の仕事だろう。今更その取り決めを破る必要がどこにある。それは誰の命令だ?」
「個人ではなく、全体での決定です。異常事態であることを理解していないんですか?篝屋が隣人なんかと契約するなんて!」
かき上げた前髪を強く握りしめながら、女は再び声を荒らげる。
「こちらも不本意であったことは既に報告したはずだ。そもそも、その報告を聞いたのは他でもない。シグレ、お前だろう。」
女――時雨は、ぐっと下唇を噛み締めた。
時雨は特異保護観察課に配属されて間もなく、目の前の不遜な態度の男の連絡窓口係に任命された。
最初こそ憧れの篝屋と直接連絡できる誉れある仕事だと思っていたが、前任者と挨拶をしに神野邸を訪れた際に厄介な仕事を押し付けられたのだとすぐに悟った。
それから五年。最小限の関わりに留めることでストレスを最低限に抑え、それなりの関係を築き上げてきたつもりだが、それでも篝火と篝屋の相容れぬ思考に悩まされることは多い。
そして今もまさに、目の前に座る自分とたいして歳も変わらないであろう男が何を思い、考えているのか、時雨には全く分からなかった。
「そもそも、本来であれば隣人案件の報告書作成は篝屋の仕事となっています。それをこの地区は貴方の異能による恩恵から、その見返りとして特異保護観察課が代わりを担う、そういう取り決めでした。それがどうです?人が二人も死ぬわ、目撃者も出るわ、しまいには篝屋が隣人と契約するわで、どれだけの人間があなた達の後始末に奔走したと思っているんですか!」
――――がしゃん。
時雨が怒声と共にテーブルを叩いた。
テーブル中央の花瓶が倒れ、床へと転がり落ちたがそれを気にする者はこの場には居ない。
「……後始末に関しては樒がしただろう?それに篝屋の後始末をするのも特異保護観察課の仕事だ。それを怒るのは職務怠慢もいいところじゃないか?」
顔を赤くし息の荒い時雨とは対照的に、晴乃は椅子に深く腰掛け、腕組みをしながら、抑揚に乏しい声色で淡々と告げる。
「あなたたちの痕跡だけが消えた状態を後始末をしたと言うならばそうなんでしょうね!遺体は二人とも残されていて、稲葉陽介の妻の証言は現場の状況と辻褄が合わない。あのままじゃ、あの奥さんが殺人犯にされるところだったって、分かっているんですか!」
テーブルの上で強く握りしめられた時雨の拳は、自身が割ったティーカップの破片をも掴み、血を滲ませていた。
「…………それで?」
その傷を見つめながら、晴乃は端的に返答する。
「そ、れでって……!何も思わないんですか?!」
そんな晴乃の言葉に、時雨は唖然としながらも言葉を返した。
「思うも何も、そうなってしまったのなら仕方がないだろう。何か勘違いしているようだが、俺の仕事はあくまでも隣人の相手であり、今回もその職務を全うしただけだ。それに、隣人と篝屋の存在を一般人に知られないようにする、という国の意向にも従っている。先程も言ったがそれ以外の後始末はお前たちの仕事であり、俺が態々時間を割いてまで対処する事ではない。
……それよりも、怪我をしている。手当てをした方がいい。」
――――ぽたり、ぽたり。
いつの間にか、琥珀色の液体に薄らと赤い色が混じり床へと滴っていた。
その様子を見て、晴乃は立ち上がろうと腰を上げるが、それを制するように時雨の怒声が響き渡る。
「私の怪我なんてどうでもいいでしょ?!人の人生がかかっているのに、何でそんなに無関心でいられるのよ!!」
晴乃ははっとして視線を時雨の顔へと向ける。
視線の先、テーブルに両手をついた状態の時雨は小刻みに体を震わせ、眉を顰めながら何かに耐えるように晴乃を睨めつけていた。
「……何よ。」
怒りからか、震える時雨の声に晴乃の肩がぴくりと跳ねた。
そして逡巡するかのように視線を彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。
「………………わ、かった。今回の報告書は俺が書く。だから、その、今日はもう帰った方がいい。そもそもここは、隣人が視える者であっても身体に良い場所とは言い難い。長時間居るべきではないのは、お前も知っているだろう?だから――――。」
普段の晴乃からは考えられぬほど歯切れの悪い物言いであったが、時雨は気にも留めずに晴乃の言葉を遮った。
「…………分かってくださったのなら結構です。取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。私の仕事は済みましたので、ご要望通り失礼します。」
時雨は乱れた髪を直そうとし、その手が汚れていることに気づき断念する。
それから、自身の手によって荒れされたダイニングの有様をしばし見つめた後、晴乃の脇を抜けて部屋を後にした。
その後ろ姿を中腰のまま見送った晴乃は、大きなため息と共に再び椅子へともたれ掛かる。
「いつの時代も男って女の涙に弱いのねぇ。」
暗闇から、感慨深げに樒が呟いた。
「………………不本意だが、今回はそういうことでいい。」
「あら、寛大ですこと。」
面倒臭げに答えた晴乃に、樒はくすくすと笑う。
その小鳥の囀りのような愛らしい笑い声に、晴乃は心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
「そもそも、お前のせいでこうなったんだがな。」
「あら、そんなことを言うなら、わたしが晴乃さんの名前を知ったのは特異保護観察課からの手紙よ?でも、あなたはそれを伝えなかった。そのせいで、ぜーんぶわたしの責任みたいになったじゃない。」
随分と前に冷めてしまった自身の紅茶を見つめながら、晴乃は答える。
「……それを伝えるのは今じゃない。そう判断しただけだ。それに、諸悪の根源がお前なのは事実だろう。稲葉の嫁が犯人になるまでが、お前のシナリオだな?」
――――ぽた、ぽた。
冷えた紅茶は、いまだ緩やかに床へと滴り落ちている。
その微かな音でさえ、晴乃の耳にはやけに大きく聞こえた。
「ふふ、どうかしら?でも、それが一番美しい終わり方であることは確かねぇ。それに、後片付けはしっかりするという約束は違えていないはずよ?」
暗闇からぬるりと腕が伸び、晴乃の前のティーカップを手にする。
「あら、美味しくできてるじゃない。」
「……それは茶葉の問題だろう。」
コトリと音を立てて晴乃の前に戻された空のティーカップを見て、晴乃は眉を潜める。
「そんなことないわ。淹れ方次第で、苦くも渋くもなるの。」
「だからどうした。」
「どうもしないわ。ただ、事実を述べただけよ。
今回の件もそう。稲葉陽介とその愛人の遺体が見つかり、その二人は稲葉の部屋から転落していた。そして、その現場に居合わせたのは彼の妻だけ。妻は『急に愛人が押しかけて来て、自分に暴行を加えた。身動きがとれない間に愛人が夫を無理矢理ベランダへと連れて行き、一緒に落ちた。』と証言する。しかし、妻には暴行の痕跡はなく、また愛人一人の手で大の男をベランダから落とせたとは考えにくい。そうなると愛人と妻は共犯で、しかし必然か偶然か愛人も共に転落してしまったと考えるのが自然。
それが、私と晴乃さんを消したあの場所での事実なのだから、それ以上でもそれ以下でもない。それに――」
不自然に区切られた言葉に、晴乃は振り返る。
しかし、そこにあったのはあの畏ろしいほど美しい女の姿ではなく、キッチンへと続く暗闇だけだった。
「それに、なんだ?」
晴乃が仕方なく暗闇に問いかけると、樒はくすくすと嗤って答える。
「――それに、あのまま警察に連行されても罪には問われなかったと思うわ。」
予想を口にしているわりに確信めいた樒の口調に、晴乃は更に顔を顰めた。
気がつけば水滴の音は止み、部屋はしんと静まり返っている。
「なぜ、そう思う?」
「あら、簡単なことじゃない。だって、犯人じゃないんだもの。それどころか、彼女にとっては突然押し入って来た女に暴行され、目の前で最愛の夫が殺されたのが事実。精神状態は最悪で、取り調べを受けたってまともに受け答え出来ずに、精神鑑定に回されて病院行きでしょ。まぁ、そもそも物的証拠もないのだから、任意同行はあっても逮捕には至らないわ。」
ことの元凶がいけしゃあしゃあと正論を話すあまり、晴乃は思わず感嘆の声を上げそうになった。
しかし、最初からそのつもりであの場を収めた張本人であることを思い出し、出かかった言葉を寸でのところで飲み込む。
「…………最初からそのつもりなら、そう言え。そうすれば報告の時点でシグレに伝えられただろう。」
それに答える樒の声は呆れと嘲笑を孕んだものだ。
「まさか、事件そのものを揉み消そうとするなんて思わないじゃない。人間のやることって、美しさに欠けるわ。」
樒のその言葉になんと答えるべきか考えあぐねていた晴乃の鼻先を、ふっと甘い香りが掠めた。
――――ボーン、ボーン。
壁掛け時計が十二時を知らせる鐘を鳴らす。
晴乃が視線を戻すと、テーブルの中央には黄色いチューリップを生けた花瓶が置かれていた。眼前にはティーセットが二組。カップには琥珀色の液体が輝き、湯気を立てている。
「……時計が数秒遅れているな。」
晴乃は誰に言うでもなくそう呟くと、目の前で甘い香りを漂わせる紅茶へと手を伸ばした。




