#740A00
この国には八百万の神々がおり、百鬼を超える妖が存在する。そんな魑魅魍魎の存在を信じる者は、今の時代どれほどいるのだろうか。
想像してほしい。
深夜二時過ぎ、街灯がまばらな住宅街を歩いていて恐怖するものは何か。
人によっては幽霊の類かもしれない。もちろん、それもあるだろう。
しかし本当に怖いものは、刃物を持った不審者や変質者などの人間ではないだろうか。
自分の命が脅かされるもの。そして、日常的に誰かの命が奪われているという事実を把握しているもの。それらの方が、目には見えない不確かな存在よりも恐ろしいことは至極当然のことだ。
現代の日本は科学の発展により、昔よりも飢饉や疫病などに脅かされる事が少なくなった。
神は、全てのものに不平等であるという平等性を持つが故に、この国においての信仰性は薄まるばかりである。
つまるところ、現代日本において神や妖の類は全て御伽噺の一部になりつつあり、心からの信仰が少ないのが現状だ。
しかし、残念なことに神のようなモノや妖のようなモノは存在する。
もしかしたらソレらは幽霊なのかもしれないし、はたまた悪魔だとか吸血鬼だとか、西洋のものなのかもしれない。とにもかくにも、魑魅魍魎と呼ばれるソレらはこの科学の時代に存在していた。
篝屋である男の祖父はソレが視える人で、ソレらのことを隣人と呼んでいた。ソレらは常に人の傍にいて、側にあり、それ故に支え合う存在である、と。
その言葉の真意を男は知らない。
しかし、残念なことに男もまたソレらを視ることができたがために、篝屋を名乗る羽目になった。
――――ちりん。
来客を伝える鈴の音が鳴り、篝屋は目を覚ました。
本日は来客予定が無かったはずだが、ここ来て二人目の来客である。
一人目の来客である気味の悪い蛙が出ていったのが十三時近かったことを考えると、一時間ほどうたた寝をしてしまっていた。
「…………だ、い。」
扉を挟んだ廊下の向こう。玄関の方角から、女の声が微かに聞こえる。
玄関は内鍵を閉めていたはずだが、ソレらには意味を成さない。
人間に近い考えをもったモノは、玄関扉に備え付けられたドアノッカーを鳴らすという常識を持っていることを篝屋は今までの経験から知っていた。それを踏まえると昼間の蛙のようにノックどころかリビングにまで無許可で乗り込んでくるモノは同じ言語を介していても、人間とは別の存在であることが明白であった。
「…………ださい。」
だからといって、お行儀良く玄関で篝屋を待っているソレが人間に近いモノかどうかは知る由もないが。
「ごめんください。」
年季の入った扉の、蝶番が嫌に軋む音に眉を顰めながら廊下に出ると、玄関には一人の女が立っていた。
女は土砂降りの中訪ねて来たにも関わらず、靴の先ほども濡れていない。しかし、左頭部から出血しているのか、赤とも黒とも表現し難い色の液体を垂れ流し、その顔をてらてらと輝かせながら、土間に小さな染みを幾つも作っていた。
「……如何様で。」
篝屋の無愛想極まりない問いかけに、女は赤い紅を引いた唇の端を上げるだけだ。
だがその視線は篝屋を値踏みするような、不躾なものであった。
「ごめんください。」
態となのだろうか。
女は今一度同じ言葉を口にする。
目尻を下げ、口角を上げ、艶やかな赤色に塗られた爪先を口元に寄せながら話すその姿は一見優雅にも見えるが、ぽたりぽたり、と女の頭部から溢れ出る赤い液体がその光景が異常であることを物語っていた。
「用がないのであれば、お引き取り願いたい。」
確固たる意志を持ったその言葉にも女は動じず、更に目尻を下げただけであった。
その間にも赤い雫は土間に染みを広げていく。
ふ、と鉄錆のような臭いが篝屋の鼻先を掠めた気がした。
「……おい、聞いているのか。それとも会話は出来ないのか。出来ないであれば、首を動かすなりなんなりしろ。」
ソレらの中には人間と同じ言語を話せないモノも少なくはない。人間との関わりが深いものほど流暢に言葉を交わし、その逆は独自の言語で暮らしているのだ。
目の前にいる招かれざる客人は、人間と見間違う程の姿をしており、言葉を交わせないとは考えにくい。
それに、先程からの反応や視線は篝屋の言葉を理解していなければ難しいものだろう。
からかわれている、というのが現状に一番当てはまる言葉だった。
――――ぽたり、ぽたり。
張り詰めた静寂の中、女の輪郭を伝って滴り落ちる赤い雫の音だけがはっきりと聞こえる。
よく見れと、女の左前頭部はひしゃげているだけに留まらず、左目も潰れてしまっている。
これが人間であるならば、生きているのは難しい程の大怪我だ。
「本当に用がないのならば、俺は部屋に戻らせてもらう。」
そう言って篝屋は女に踵を返すと、先程までいたリビングへ向けて歩き出す。そんな篝屋の後ろ姿を見た女が、くすくすとこれまた上品な笑い声を上げた。
「ごめんなさいね。貴方がどんな人なのか知りたくて、少しばかしからかってしまったの。悪気は無いのよ?」
悪気無くして、他人の言葉を無視出来るわけは無いのだが、いちいちそんな事に引っかかっていては会話が進まないため、篝屋は大きな溜息をついてから玄関へと逆戻りする。
そうして、先程よりも濃厚になった鉄臭さにどうしようも無い嘔吐感を覚え、慌てて口元を抑えた。
「あぁ、ごめんなさい。これ、体は人の子のものなのよ。」
「…………は?」
暫くの沈黙のあと、篝屋は女の言葉の意味が分からずに声を漏らした。
「あら?初めてかしら?死骸を使うモノに会うのは。」
なんてことの無いように女は言った。
「力の弱いモノは無理でしょうけど、私みたいに力のあるモノはね、死骸ならなんだって入り込めるわ。まぁ、生きているものにも入れなくはないのだけれど、それは少し面倒だから。」
女は篝屋の反応を楽しむように微笑みながら、言葉を繰り返す。
「だからね、この体は人の子のものなのよ。」
ばたばたと雨水が窓に打ち付けられる音が篝屋の耳を覆う。
篝屋は一瞬、視界が真っ白になる感覚を覚えた。
――――ぽたり、ぽたり。
では、なにか?女の頭から頬を伝い、土間へ落ちてゆく赤い水滴は本物の――――――。
状況を理解した篝屋は、考える間もなく激しい勢いで脱衣へと走り出した。
そうして、両手いっぱいにタオル抱え、慌てた様子で玄関へと戻って来た篝屋を見て女はくすくすと嗤った。
「ふざけるな!笑っていないでそこへ座れ!!」
女の胸ぐらを掴み、上がり框に座らせると篝屋は出血する女の頭に無造作にタオルを乗せようとし、その傷口にギョッとする。
酷いなんてものではない。少しどころか頭蓋骨が陥没している。
素人目でもわかるほどの重症。相手の言葉通り、この体の主が既に他界しているのであれば、即死であったと断言出来るほどの傷だ。
頭頂部にかけて皮が剥がれ、脳みそらしき肉塊と骨が見えている状態のそれをどう処置すればいいのか。
当たり前だが、医療知識など持っていない篝屋は暫し悩んだ後、結局手にしていたタオルを無造作に女の頭に乗せることしかできなかった。
「痛いわ。」
苦痛を滲ませた声が女から発せられた。
器が人間である以上痛覚があるのか、はたまた口だけなのかは定かではないが、篝屋にとってそんなことはどうでもいいことだ。
「貴様、人の家を血塗れにしといてよくそんな口が聞けるな。いいから、そのタオルを押さえてじっとしていろ。」
怒気を孕んだ篝屋の言葉に女が怯むことはない。
「ふふふ、そんなに怒らなくてもいいじゃない。私のお願いを聞いてくれれば、後片付けはしっかりするわ。」
疑いの眼差しを向ける篝屋に、女は綺麗な弧を描いた唇を再度開いた。
「さて、私の話をしてもいいかしら?――――篝屋さん。」
篝屋。隣人達は男のことをそう呼ぶ。
人が魑魅魍魎の類を隣人と呼ぶように、隣人たちは自分たちを視える人間を篝火と呼んだ。そして、特殊な条件を持ち、隣人達の願いを叶える職に就く者を篝屋と呼んでいる。
篝屋にはそれぞれ担当区画を決まっており、各役場もしくは役所の特異保護観察課と連携のもと、対隣人との共存の為の活動を行っている。
共存と言えば聞こえは良いが、相手は人間と同じ価値観を持ってはいない別次元の存在だ。
隣人には隣人の価値観やルールがある。それは人間と通ずるものもあれば、理解の範疇を超えるものも少なくはない。
しかし、隣人との共存を図るために定められた決まりごとの一つに"隣人の願いは叶えなくてはならない"というものがあるため、篝屋は到底理解の及ばない隣人の願いを叶えなければならなかった。
人間と隣人は別次元の存在である。
それを踏まえると、眼前の女の口からこれから発せられるであろうお願いとやらも、簡単なものではないことは容易に想像がついた。
篝屋は深いため息をついてから「……なんだ。」と小さく返答する。
「あなたって、もう少し感情を表に出さない人かと思っていたわ。」
女はこれまた可笑しそうに嗤った。そうして一息ついてから、先程よりは幾分か真剣な面持ちに切り替えてから口を開いた。
「お願い自体は簡単なことよ。一緒に傘を届けて欲しいの。」
「……傘?」
「えぇ、傘よ。
あなたも知っていると思うけれど、雨の日というのは稀に力を持たない人の子も私達のことを視えてしまうことがあるでしょう?」
雨の日や霧が濃い日など、一定の自然的または偶発的な条件下であれば一般人にも隣人が視えてしまうケースは多々見受けられる。そうでなければ、妖や幽霊または都市伝説などの類はこんなにも世の中に知れ渡ってはいない。
「さっきまで散歩をしていたのだけれど、偶然私が視えてしまった人の子がいてね。何を思ったのか慌てて駆け寄って来たの。こんな土砂降りで視界も悪い中、道路を挟んだ反対側にいる私に向かってね。私に傘なんて要らないのだけれど、でもきっと人の子には傘を無くした女にでも見えたんでしょうね。駆け寄って来て、そしてあっという間に大きなトラックに跳ね飛ばされていったわ。可哀想にね。」
まるで他人事のように、物語を語るかのような穏やかな口調で女は話す。
「普段だったら特に気にも留めないのだけれど、時間も持て余していたし、人の子の最後の願いを叶えてあげることにしたの。」
「…………それが、傘を届けること、だと?」
「えぇ、そうよ。」
眉間に深い皺を寄せた篝屋が頭を押さえながら問いかけと、女はすんなりと頷いた。
「私を視て死んだ人の子――この体の主は、この土砂降りの中、傘を届ける約束をしていたの。とても大切な約束よ。即死して魂が消えるところを態々引き留めて聞き出したんだから間違いないわ。」
余計なことを。
篝屋は口に出そうになった悪態をすんでのところで押し込めた。代わりに咳払いを一つして口を開く。
「一応聞くが、それは今から届けに行かなければならないのか?」
その問いに女はさも当然と言わんばかりの口振りで答える。
「えぇ、そうよ。だって、この雨だもの。相手はずっと困っているはずでしょう?」
連日続く激しい雨は未だ止む素振りを見せないでいる。
「………………わかった。支度をして来るから、そこで大人しく待っていろ。」
そう言うと篝屋は踵を返し、家の奥へと消えて行く。
「はぁい。」
女の粘り気を帯びた耳障りな声は、雨音に掻き消されて篝屋の耳には届かなかった。