春時雨の霞の先に
四月の半ばにも関わらず、冷たい雨が降り注ぐ夕暮れ時のことだ。
青年は、自宅の前に見知らぬ黒い車が停まっていることに気がついた。
雨は豪雨と呼んでいいほどに強く、視界は酷く悪い。それでも、見慣れた家の前に停る見知らぬ車と、その前に立つ黒いスーツに身を包んだ数人の大人達、そしてなぜか項垂れた様子の母親とその肩を支えるように抱く父親の姿は、雨のカーテンに遮られながらもしっかりと青年の瞳に映った。
黒い車、喪服のような大人たち、泣いている両親。その光景はまるで、大きな事故に巻き込まれて亡くなった方のご遺体が遺族の元に届けられる、そんな映画のワンシーンのように青年は感じた。
しかし、あの家に住むのが父と母、そして自分の三人であることを知っているがために、その光景は何とも不可解なものであった。
青年と自宅との距離はわずか二十メートル程度。それでも、激しい雨のせいか両親も他の大人達も、青年の存在に気づく様子はない。
あの中に入る勇気はなぁ……。
形容し難い雰囲気から、青年は止めたままの足を踏み出せぬまま、豪雨に晒され立ち尽くしていた。
そんな時だ。
――――――ばしゃん。
明らかに雨音とは違う水音が青年の真横を通り過ぎた。
「…………っ!」
家の前にばかり気が取られていた青年は、驚きのあまり零れ落ちそうになった悲鳴をなんとか飲み込み、音の方へと視線を向ける。
その先には、烟るような視界の中でも目に刺さるほど艶やかな赤い色の傘があり、その傘の主はするりと青年の横を通り抜けて行く。それと同時に雨音に交じって微かに聞こえたのは女の声。詳しい内容は聞き取れなかったが、後ろ姿からも女であることは間違いなかった。
一般的な感性ならば外出するのも戸惑われる程の豪雨の中、軽い足取りで雨の中に消えて行く女の背中を青年は呆然と見送り、そしてその姿が見えなくなった頃、奪われていた視線を自宅へと戻し、また様子を伺った。
「……可哀想に。」
そうしてどのくらいの時間が経過したのか。青年の体感で三十分近くの時間が過ぎた頃、喪服の大人達が車に乗りこみ去って行く。
青年が安堵の溜息を漏らしたのも束の間、至近距離から見知らぬ男の声が降ってきた。
この短時間で二度目になる悲鳴を飲み込む行為をした青年は、慌てて自身の横に視線を向けるが既に声の主は歩き出しており、黒い大ぶりの傘が見えただけだった。
「可哀想にって、何が……。」
青年にとってこの十数分余りのことは、理解し難いことしかなかった。
黒塗りの見知らぬ車も、それに乗っていた喪服姿の大人達も、異様な様子の両親も、土砂降りの中上機嫌に歩く赤い傘の女も、そして青年の家の様子を見て可哀想だと呟く男も、何もかもが理解の範疇を超えている。
――――ぐちゃり。
撥水仕様のビジネスシューズもさすがにこの雨では意味をなさず、靴下まで濡れた不快感に青年は我に帰る。
一先ず、家に帰ろう。それから母ちゃんに何があったのか聞けばいい。
ずぶ濡れになったビジネスバッグを握り直し、青年は帰宅した。
香月は、勉強が嫌いであることを理由に進学を選ばず就職を希望した。
成績は中の下、ビジネスマナーといったものには疎く、敬語は苦手。運動神経がいいわけでも体力自慢なわけでもない、あるのは愛嬌のみ。そんな少年は同級生と共に卒業こそすれ、進路は決まらないままでいた。
担任が、就職先が決まるまで面倒を見てくれると申し出てくれたため、卒業後も進路指導室に通い、勧められた会社の面接を受けてはお祈り申し上げられる毎日。
偶然駅前で出会った同級生がスーツを着こなし、仕事が大変だと話して去って行った後ろ姿を見て、香月は初めて自身が高校生という立場の少年ではなく、少年の気持ちのままの情けない大人になってしまったのだと自覚せざるを得なかった。
父親と母親はそんな香月に対し、咎めるようなこともなく、優しく応援の言葉をかけ続けた。
慌てなくていい。自分のペースでいいのだ、と。
しかし、既に社会人となった友人や大学生活が始まった友人達とSNSで交流する度に、自分だけ取り残されているような気持ちを感じざるを得ず、次第に連絡する頻度も減ってしまった。
コミュニケーション能力があることは強みだと担任は言う。
しかし、担任も分かっていたはずだ。
確かに香月は初対面の相手にも気を遣いながら適切なコミュニケーションがはかれる。しかし残念なことに敬語はおざなり。しかも、ここぞという場面では人の影に隠れることや、他人の意見に流されてしまうこと、しまいには逃げ出してしまうこともある。
香月自身にとってもコミュニケーションとは、自分を守るための壁であり、ある種の他人との線引きでもあった。
そのため、接客や営業なんて仕事も一次面接は通るが最終面接は必ず落ちてしまう。
面接官にはそんな香月の逃げ腰の姿勢が見えているのかもしれない。
兎にも角にも、四月もそろそろ終盤に差し掛かるという時期にも関わらず、香月は今日も就職活動に勤しんでいた。
「ちょっと今いい?」
そんな折、母親に呼ばれてリビングでくつろいでいた香月は顔を上げた。
「ん?なに?」
「あのね、実は今役所でね、求人が出てるの。」
普段はきはきと話す母親にしては歯切れの悪い話し方であったが、求人の言葉を聞いて、母親が言葉を選んでくれているのだと香月は思った。
「役所ってことは公務員だろ?おれ、公務員試験とか受かる気しないけど……。」
「……そんなことないぞ。役所でも臨時職員や雇用期間が決まっている人とかいるしな。全員が公務員の資格を持っているわけじゃない。」
香月と母親の話を聞いていた父親が口を開く。
「え、じゃあ、もしかして、俺でも役所で働けるってこと?!」
会話の流れから察するに、そういうことだろうと香月は驚きを顕にした。
そんな香月を見て母親は眉根を下げて笑う。
「所属は役所になるんだけど、勤務地は別なのよ。ほら、ここから15分くらい歩いたところに大きなお屋敷があるでしょう?あそこの新しい管理人さんを探しているんですって。」
「漫画とかでお嬢様が住んでそうな、あのお屋敷?」
「父さんが子供の頃は立派な日本家屋だったよ。お前が生まれる前辺りじゃないか?洋風な建物に建て替えたのは。」
へぇー、と香月は声を漏らす。
「それでね、実はあそこのお屋敷の管理は三十年近くお隣の角野さんがやられていたらしいの。でも、さすがにお歳でしょ?もう難しいってことになって、急募の求人が出たんだけど、角野さんがアンタがまだ就職先が決まってないって役所の人に話したらしくて――――」
「角野のじいちゃん!神様じゃん!!」
「――――やっぱり、やる、わよね……?」
母親の声はどこか沈んでおり、歯切れも悪い。いうならば、引き受けて欲しくなさそうな、そんな含みのある言い方だった。
しかし、今の香月にとっては自分を採用してくれるのであればどこでもいい、というのが正直な気持ちだ。
「ち、ちなみに、給料とか勤務時間は?」
「シフトは自由。八時から十七時勤務。残業はなし。日給月給制だが日給五万。社会保険など完備。」
「やらせていただきますっ!!!」
母親の代わりに答えた父親の言葉を遮るように、香月は食い気味で返答していた。
そんな香月を見て、父親は笑い、母親は溜息をつく。
「明日役所の受付で特異保護観察課に行きたいと伝えればいいらしい。」
「とくいほごかんさつか……?それって何やってるとこ?」
聞き覚えのない単語に香月は首を傾げる。
「神社仏閣や文化的・歴史的に価値のあるものの保護をしているって話だ。」
「へぇー!すげぇじゃん!そこの管理人やれるんだ!」
香月は純粋に喜んだ。扱いは完全な公務員では無いにしろ、役所の所属で役所が管理する大事な建物の管理人、なんて誰に言っても見劣りしない職業だろう。
「ほら、そうと決まれば早く寝なさい。」
父親にそう促されて時計を確認すれば、短針が深夜二時に差し掛かかる目前だった。
「母ちゃん、仕事紹介してくれてありがとう!おやすみ!」
ばたばたと慌ただしくダイニングを後にした息子の後ろ姿を見ながら、香月の両親は深いため息をつく。
母親は両手で顔を多い、泣いている様にも見えた。
「…………約二十年前に建て替えられた建物がなぜ神社仏閣や文化的・歴史的に価値のあるものの保護をしている課の管轄なのか、なんてアイツは考えないよなぁ……。」
外は依然として雨足が強く、窓に当たる雨の音のせいか香月の父親の声は酷く頼りない。
まだ激しい雨は続くようだ。
――――リリリリリリン。
ローテーブルの上に置かれた携帯電話が初期設定のままの着信音を響かせた。
ソファーでうたた寝をしていた男は、不機嫌そうな顔をしながらも携帯を手にする。
「お世話になっております。特異保護観察課です。」
電話口からは、聞き馴染みのある凛とした若い女の声がした。
「……あぁ、シグレか。久しいな。」
それに応える男はソファーに寝そべっていた姿勢から渋々ながら起き上がり会話を続ける。
「えぇ、有難いことにそちらにご連絡するほどの案件がありませんでしたので。今回ご連絡したのは、依頼ではなく、そちらの管理人の件でして。」
「……それなら昨日の夕刻、選ばれた家の両親を見た。偶然だが、あぁも泣かれてしまうとこちらも申し訳ないと感じるな。」
話しながらも、男は立ち上がりキッチンへと足を運ぶ。
「……あなたにもそんな感情があるんですね。少し驚いてしまいました。」
シグレと呼ばれた女はそう答えるが、その声に感情の起伏があるようには感じられない。
「そんな前置きはいい。結局のところ、管理人は代わるのか?」
「結論を言えばイエス、ですね。現在の管理人であるカドノ氏はもう長いこと業務に対してのクレームや退職を希望されていましたから。今回、隣の家の若者が就職難なのをいいことに身代わりとして提案してきました。こちらとしても若い方の方が助かりますから。ご本人の了承の元、既に今朝方契約を締結しています。ただ、一つ不安要素がありまして――――――。」
キッチンでインスタント珈琲を淹れ終えた男は、既に通話が切られた携帯を苛立たしげに放り投げる。
「ふふふ、可哀想にねぇ?」
そんな男の背後で、暗闇が嗤った。