婚約破棄される直前に聖女の力で誰かと入れ替わって現実逃避しようと思った.....だけなのに。
見慣れた天蓋。
白を基調とした部屋には、寝具以外に何も置かれていない。
そんな殺風景な景色を見て毎朝少し寂しくなってしまうのも、今日で終わり。
——聖女エスメラルダ。
私がそう呼ばれるようになったのも、こんな寂しい生活が始まったのも、つい数日前にめでたく二周年を迎えた。
平民だった私がシグルド・ウェルスティナ公爵令息と婚約を結んだのも、それと同時期だった。
貴族と関わる人生じゃないことは生まれた時に決まっていた。
私は小さな辺境の村で生まれた。
何不自由なく、村の人たちと過ごしていた。
そんなある朝、目覚めると私の右手の甲にその印は現れていた。
『聖女の印』
つまり、私は神様に選ばれたらしい。
その事実はすぐに国全体に広まり、私と婚約を結びたがる貴族たちが村へと訪れた。
もちろんそこに本当に私のことを好きな貴族なんていなかった。
けど、そんなことより悲しいことがあった。
それは平民である私やその家族、そして村人たちを見下す発言ばかりの貴族がほとんどだったことだ。
でも、我儘は言ってられなかった。これはチャンスだと思った。
私は家族のためにお金が必要だった。それに、貴族の中でもまともな人はいた。見下す発言もなく平民である自分の家族や、村にもしっかりとした支援をすると宣言してくれたウェスティナ公爵家と婚約を結んだ。
婚約を結んだその日き、私はウェスティナ公爵家の屋敷へと住む運びとなった。
そこから二年経った。
私はすごくすごく頑張った。
貴族のマナーも、聖女として与えられる仕事もこなし、他の貴族からの面倒事も圧に押され全て私がやる羽目になった。
でも、結果として。
私は婚約破棄されることになった。
厳密には、昨日シグルドとの婚約が、正式に破棄された。
薄々私も気付いてはいたが、家族のため村のために見て見ぬふりをしていたシグルドの浮気癖。
別に私も家族や村人のために頑張っていただけ。そこに愛なんて微塵もない。
浮気されて悲しみも浮かばない。
けど、婚約破棄で支援が無くなることに、私は頭を悩ませた。
仮に私のような平民がシグルド様の行為を咎めたところで、あちらは公爵家様だ。
シグルド様の両親もその浮気癖や仕事のサボり癖を知っているし、黙認している。
私が仮に反論したところで、それに何の意味もないことは分かりきっている。
でも、耐えられなかった。
二年間、平民なりに頑張ってきた。貴族としてのマナーを学び、シグルド様のご機嫌を取った。
どこか、私の全てを否定された気持ちになるから。
婚約破棄されるであろう日を受け入れなかった。
——だから聖女として神に授けられたもう一つの能力を、婚約破棄される日のために。現実逃避のためだけに、私は使ってしまった。
多分、聖女失格である。
『入れ替わり』
ただ、婚約破棄を言い渡されるだけ。
それでも直接言われるより、結果だけを知る方がマシだと考え、二日前にそれを決行した。
複数の人間をお金で雇って、路地裏で盗賊の演技をさせた。
私は襲われているフリをして、誰かの助けを求める演技をした。
ほとんどが見えないフリをした中、ようやく助けてくれた青年に私は狙いを定めた。
神に授けられた力をこんな風に使うのもきっと罰当たりだと思う。
けど、これからは聖女ではなく平民として生きるんだ。もう私に神様は関係ない。
青年にも罪悪感はあるけど、今度探しに行ってしっかりと謝ろうと思う。
こうして巻き込んでしまったことを。
「おはようございます、聖女様」
「おはよう、ネリア」
起床に気付いたメイドのネリアが駆け寄って挨拶をしてきた。
それに軽く返事をして、ネリアに聞いてみた。
「ねぇ、ネリア。今日は何日?」
「? 今日は26日になります」
「そう、よかった。終わったのね」
どうやら、入れ替わりは成功したらしい。
この部屋やネリアに変化がないところを見ると、あの青年はうまくやってくれたのかな。
「落ち着いた、みたいですね? 昨日は少しテンションが高かったようでしたから」
「あはは、なぜでしょうね」
婚約破棄を言い渡されるはずの25日。それを過ぎた今日は26日である。
エスメラルダとしての25日の記憶は存在していない。
つまり、婚約破棄される場面を、この私は知らない。
「では、聖女様。荷造りはもう済んでおります。あとお迎えの馬車も到着して……」
「うん、ありがとう」
シグルド様が婚約破棄後すぐに追い出す算段を立てているのはネリアから聞いていた。
だけど、こうも行動が早いと少し悲しいところはある。
この二年に未練など、一つもないのだと。
これからまた家族や村人たちにも苦労かけてしまうことも悲しい。
せっかく聖女として生まれ、村人たちも笑顔で見送ってくれた。
頑張ったけど、婚約者として、一人の女としての魅力に欠けていたからこんな結末になってしまった。
それに婚約破棄から現実逃避して、知らない人まで巻き込んでしまって……。
私は本当に最低な人間だと心底思う。
「お食事のご準備もできておりますので、ご支度が終わりましたら、部屋にお持ち致しますね」
そういってネリアが部屋を出た。
この二年間。私の味方はネリアだけだったなぁ。
シグルド様も貴族学院に通われてから、女癖に歯止めが効かなくなっていたし、そのせいで前よりも平民を見下す言動が増えていた。
頑張って耐えてきたけど、私もそろそろ我慢の限界だったし、この婚約破棄はありがたいとも思う。
どういう経緯であろうと、公爵家の令息を殴ってしまえば私はどうでもいいとして村や家族に迷惑をかけることになる。
どうやら婚約破棄は私の浮気、だということになっているらしいけど。
まぁ聖女を捨てた公爵家、なんてイメージが悪いどころか、信用も無くなるしね。
別にもういいかな、どうでも。
ふと、俯くと視線の先。枕の横に置いてある手紙に気付いた。
裏を向けると、そこには『聖女様へ』と書かれている。
ネリア?と思ったが、ネリアにしては少し字が汚い。
乱雑に書かれた文字から察するに、この文字は貴族ではない。
おそらく昨日入れ替わった青年からの手紙だと、思う……。
開けるのが怖い。すごく怒っているかもしれない。
けど、この手紙からは逃げちゃダメだと思うから。
私はさっと、手紙を開ける。
『聖女様へ
聖女様にこんな能力があったなんて驚きでした。
突然聖女様の身体になって目覚めた時も、大変驚きました。夢かとも思いました、あはは。
少しメイドさんたちへのテンションを間違えてしまったかもしれません。
あと、婚約破棄のお話を聞いてしまいました。酷い物言いでしたが、聖女様の身体で男の人に手は出せないので我慢しました。
ですが、いくつか情報を仕入れておきました』
その下には、箇条書きでシグルド様の秘密…いや、他の人にいえば信頼を失いかねないことがいくつか書いてあった。
浮気相手の本命はアンバーという名の子爵令嬢だったり、私を貶めようと他の貴族に触れ回っている嘘の内容など。
そこにはまだまだ書いてあった。
『これらの情報は証言も取れている事実だと思ってもらって大丈夫です。
こういった影で動くのは昔から好きなので。聖女の身体を借りて、動いてみました。
勝手にごめんなさい。
もしこれらの情報を広めたい、って思った時はもう一度僕に会いに来てください。
聖女様のお力添えをさせていただければ、と思います。 アルバート 』
手紙に数滴、透明な水粒が落ちた。
どうやら、私は泣いているらしい。
嬉しいのか、悲しいのか。
あるいは、この青年への罪悪感なのか。
今の感情が理解できないまま、私は涙を流してしまった。
その日、ウェスティナ公爵家の屋敷を出た。厳密には追い出された。
私は村に帰る前に、アルバートを探した。
ただ、お礼がしたかった。私なんかのために、こんなに頑張ってくれたこと。
元から謝罪はするつもりだったけど、会う目的が少し変わった。
日が暮れ、ようやく手紙に書かれていた住所に辿り着いた。
途中何度か迷ってしまったけど。
扉を小さく叩く。
出てきたのは青年だった。
「すみません、エスメラルダと申します」
「あ…聖女様、でしょうか?」
「はい。アルバートさんで合ってますか?」
「はい! アルバートです!」
この青年が探している人だと分かったので、私は深く被っていたフードを上げた。
「その、なんといいますか…」
まずは、謝罪。
謝る内容は考えていたはいたけど、どう伝えるかは考えていなかった。
悩んでいると先にアルバートが口を開けた。
「やっちゃいますぅ?」
「え?」
「僕に会いに来たってことは、あのクズ男の正体を世間に知らしめるためですよね!?」
「あ、いや、その…」
そんなつもりはなかった。
浮気されるのも私に魅力がなかっただけだし、そもそも平民と貴族では住む世界が違っただけ。
こんな戦争も起きない平和な時代に、聖女の力なんて必要ない。
力を使うことのない私は、聖女ではなく、平民とそう変わらない。
だから、捨てられるのも仕方ない。
「一日だけですけど、聖女様の身体に入って僕は分かりました。この人、これに耐えてきたんだなって。それと同時に許せなくなったんです、あのゴミ男を」
「さっきクズ男って呼んでませんでした?」
「あぁ、別に変わんないですよそれは。あいつはクズでゴミです!」
アルバートの主張に、私も思わず釣られて笑ってしまう。
そうか、アルバートは少数派かもしれないけど、シグルド様をそう思う人はいるんだ。
「ありがとう。聞きたいんだけど、その…世間に知らしめるって、どういう風に…?」
別に邪な考えはない。
ただ純粋に興味を持ってしまった。
相手は公爵家だ。
しかも信頼が厚いと言われているウェスティナ公爵家。私もそのイメージに騙され、シグルド様の婚約者になった。
結果として。
アルバートの言うように酷い扱いは受けてきたのかな、なんて思うけど。
慣れてしまったから、その感覚も分からない。
「僕の知り合いにアストム商会の人間がいます」
「アストム商会って、この国一番とも名高い!?」
「はは、僕の力ではないんですけどね…でも、人の手を借りたい時もあるじゃないですか? 頼れるものは頼ってもいいと思うんです」
「頼れる…もの…」
「聖女様がいいと仰るなら、僕はいつでも動けます! ウェスティナ公爵家の中にも証拠集めに協力してくれた人もいますし、複数人の証言などもばっちり残してますので!」
「もしかして、その協力者の中に…ネリアって名前の子は…」
「はい、僕の作戦に一番協力の意を示してくれましたよ」
思わず涙が溢れてきた。
二年間の記憶が、一気に流れ込んでくる。
そうだ、ネリアはずっと支えてくれていた。
「きっと、あの人もこのままでは嫌なんだと思います」
「……やる」
「なんて言いました?」
「やってやる! 私はあのクズ男を正体を全員に教えてやるぅ!」
「はは、その意気です! やってやりましょう!」
三ヶ月後。
シグルド様の愚行が、アストム商会を始め、ほかの貴族を通して世間に広がることとなった。
公爵家の面倒な仕事を聖女に押し付けていた、ということも世間にバレて、その上いざ聖女が居なくなった途端にその本来やるべき仕事さえ手に負えなくなったらしい。
私が浮気をしたなんて嘘も信じたものは最初から少なく、逆にシグルド様の浮気癖、平民差別、仕事の押しつけ。それらは一気に証拠と共に広まった。
そして両親もそれらを知ってて黙認していた、という事実も合わせて広まった。
そこから国民の信用を完璧なまでに落としたウェスティナ公爵家は、すぐに爵位を返上し姿を消した。
私はというと、アルバートと結婚した。
ウェスティナ公爵家が姿を消してすぐだ。
プロポーズはアルバートからだった。
嬉しかった。
そのあと、アルバートと一緒に街の一角に大好きなお菓子のお店をオープンした。聖女の営むお菓子屋、ということもあり、すぐに人気になった。
その中でも、私が一番得意なチョコクッキーは大人気。
「ありがとう、アルバート」
「こちらこそ、君に出会えてよかった」
私は『聖女』としてではなく。
エスメラルダとして、この真実の愛を見つけることができた。