特別な絆の終わり
部屋に戻ると、私はひとりベットに飛び込んだ。
補習ということもあり、飛行部の練習よりもそちらを優先しなければならず、こうして、今日は彼女よりも早く帰って来ることができた。
私は目を閉じて、ただ、真っ暗な瞼の裏を見つめて呟く。
「キア、大丈夫かな…」
キアの豹変ぶりを目の当たりにして、少しばかり驚いて、それがまだ印象に残っていた。何かに怒っていた彼女のその怒りの炎がまるで、誰かに吹き消されたように、冷たくクールなキアという女の子へと戻したが、それがあまりにも突然で見ていたこっちからするとそれはあまりにも不自然な感情の変化だった。
私はそんな急激な感情の起伏には、ある心当たりがあった。
『あれって、たぶん感情制御だったよなぁ…おばあちゃん、軍人がよく使うって言ってたっけなぁ…』
キアの家が軍人の家系というのは聞かされていた。けれど、彼女自身がそういった技術を学ぶ必要があるとは思えなかった。それはあくまで、キアの周りの軍人さんたちが習得していればだけで、守護対象であるキアがそんな技術を学ぶ必要はないはずだった。
「なんでキアが…?」
私は考えても、考えても答えの出ないモヤモヤが頭の中にいっぱいになり、もう、何も考えられないほど疲労した頭を休めようと眠ろうとしたが、日課だった日記を書き忘れており、机に向かって今日あったことを書き留めた。
「久々にキアに会えて嬉しかった。だけど、キアは何か問題を抱えているかもしれない。私にできることがあるかもしれないので、少しずつ彼女との距離を縮めて、何とかしてあげると、それとどうやら、キアが言うには、パースの街で夏祭りがあるようなので、それに彼女ともいくと」
声に出しながら、今日の日記を書き終えた。キアのことを書けたことで、久々に白紙続きだった日記に、退屈じゃない有意義な内容を書くことができた気がした。
そのうち、辺りもすっかり暗くなってくると、ルコが部活から帰って来た。私がいつもルコがやってくれているように、おかえりと出迎えると、彼女はとても嬉しそうな顔でただいまと返事をした。その時のルコの嬉しそうな顔は、まるでこの世で一番幸せ者のようにすら見えた。
ルコが戻って来てからすぐに、私が彼女の机の上に置いておいた日記に目を付けた。
「リリャちゃんこれ、かけたの?」
「ああ、久しぶりに筆が走ってね、まあ、最近ずっと白紙だったでしょ?だから、何か書かなくちゃなとは、思ってたんだけど」
そこでルコが私の今日の日記のページに素早く目を通したあと、自分の分も書き始めた。
「キアさんに、会ったんだね」
「そう、それでなんかそこに書いてある通り今日のキア様子が少しおかしいところがあってさ」
「おかしいってそれって病気とか?」
ルコが振り返って、ベットで横になっていた私の方を向く。
「いや、多分そういうのじゃないと思う。本人いたって元気そうだったし、どちらかというと何かに悩んでるみたいだったかな…私のみたてでは」
「それって、リリャちゃんも同じじゃないかな?」
ルコがゆっくりと机に向き直り、日記を書きながらそう言った。
「え、私!?」
突然、話題が私のことになったので、私はむしろ机に向かっていたルコに目をやった。
「うん、だって、最近のリリャちゃん、なんかずっと様子がおかしいんだもん」
「私は、そんなこと…」
そこで私は全く同じ心配をそれこそ今日キアにもされていたことを思い出す。
「リリャちゃん、こそ、何かに悩んでるんじゃない。だって、そうじゃなきゃ、リリャちゃんが、あの夏季テストを落として補習受けるわけがないよね?私よりずっと頭がいいのに…」
ルコがこちらを振り向きもせず、ずっと日記を書いていた。彼女は目も合わせてくれなかった。
「いや、それは、ていうか、ルコも勉強は得意じゃん…?」
「いま、私のことはどうでもいいよ。それよりも、私はリリャちゃん、が何かに悩んでいるのにその力になれないことが、嫌なの、とっても…」
するとルコが急に椅子から立ち上がって、ベットに座っていた私の前に来た。
「私、リリャちゃんといつも一緒にいるからそういう変化も分かるんだよ、最近のリリャちゃんずっと何かに悩んでるとか…」
さすがに何も手につかない状態になっている現状を放置しておくのも自分でもまずいとは分かっていた。そして、それがルコに筒抜けになっているのも、けれどもこの私が抱えてしまった問題にはなんともいえないタイミングというものがあるとも思っていた。この悩み、まさに、ルコにも関係することで、私の頭の中はここ最近ずっとそのことでいっぱいだった。
「もしも、よかったら、私にも話して欲しい…リリャちゃんが嫌じゃなければ……」
ルコが私の前でそこまで啖呵を切っておいて、それでもどこか自信なさげだった。おそらく、彼女は自分にできることがあるだろうかとか、そんな、相手想いのことを今になって考え始めてしまっているのだろう。ルコはそういう子なのだ。どこまでも利他的で、いつも相手のことしか考えてない。ただそれは、彼女のとっても凄いところだし、私が少しは見習うべき点でもあった。
「ごめんね、ルコ、なんか心配かけさせちゃってて、でも、安心して、私のこの悩みっていうの、全然、辛いとかそういうのじゃないんだ。むしろ、幸せすぎてとかそっちけいなんだよね」
「そうなの?」
「うん、まあ、実はね、ルコにも言いずらくて、いつ言おうか黙ってたことなんだけど……」
私は決心して打ち明けることにした。いずれは言わなくちゃならないことだったし、けれど、ここまで私は独りで苦しんでいたことを評価して欲しいくらいには、ある意味で本気の証拠でもあった。
「私、好きな人ができたの」
「すきなひと…」
「そう、あの図書館トロンの司書のフルミーナさんって人なんだけど…」
今彼女のことを思い出すだけで、私の頭の中はもうフルミーナという女性のことで頭がいっぱいだった。
「リリャちゃん」
「なに?」
私がそこでちらりとルコの顔を見ると、彼女はとても真面目な顔で私のことを見つめていた。
「その人とはいつであったの?」
「え、ついこの前だよ、それこそ図書館にいった帰りの時、その人が図書館に戻って来てそこであったの。あー、でもそれから、私、なんだか、その図書館に恥ずかしくていけなくなっちゃってさ…」
ここ数日の間、何度か図書館に足を踏み入れようとしたけれども、私は、その図書館トロンに近づく勇気すら無くなっていた。もしも、フルミーナさんと会ってしまったら?その時は一体どうすればいいのか?おそらく、見惚れ緊張するばかりで、ろくなことにならないことは、すでに私の中で分析済みだった。
「私、一目惚れだったんだよね…」
その時の私の顔は、誰から見ても頬を真っ赤に染めた、恋する乙女だったと思う。
「リリャちゃん、今回は、本気みたいだね…」
「え、あぁ、うん、もちろん、そう本気も本気、凄い本気なんだ!」
私の声は上ずって、調子を外していた。
そんな私の舞い上がった姿を見ていたルコが私の隣に座って、私の手を握って言った。
「ねえ、リリャちゃん」
「な、なに?」
「私じゃ、リリャちゃんの好みに合わなかったかな?」
「え?!」
「もしも、そのフルミーナさんと、私だったら、リリャちゃんはどっちを選ぶのかな…」
その質問が、私に与えた衝撃は生やさしいものではなかった。冗談で言っているのだろうと、私は、様子を見るためにしばらくルコの顔を見つめたが、彼女は私の口からその答えが出るまでずっと、真剣な表情を崩さず口をつぐんでいた。ルコの手が私を手放さないと深く絡みつく。私はルコのその突然の愛情表現の圧に、屈してしまい完全に思考停止してしまった。
しかし、やがて、ルコは私が固まってしまったことがある種の答えだと解釈したのか、その後さっきの真剣な氷のような表情が嘘のように溶けて、うっとりした顔で微笑むと、彼女は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、その、試すような真似して」
安堵させるように話しかけて来るが、私は以前固まったままだった。それもそのはずだ、ルコからそのようなアプローチを受けるとは思ってもいなかった。それは私が、フルミーナと出会った時の衝撃とほぼ同じくらいの不意打ちをくらったようなものだったのだから、思考が追い付かないのも無理はない。
「だけど、リリャちゃんが本当にその人のこと本気で好きかどうか、知りたかったから…その私は……」
私はそこでようやく彼女の行動の意味を理解した。ルコは、私がルコのことも結局はそういう目で見ていたことも見抜かれていた。そして、おそらく、ルコは私がルコのことをどれくらい好きなのかも彼女は把握していた。なぜなら、ルコは私のことをなんでも知っているから。ルコは私以上に、私のことを知っている。私の知らない私を彼女は見ている。
だから、私はルコのことが好きだったのだ。友達は止まらない関係になりたかったと、心の奥底では思っていた。けれど、ルコにとって私はそういった恋愛対象ではない。そこが私が彼女にいっさい手を出さない理由だった。
しかし、ルコの次の言葉が、私の感情を狂わせた。
「リリャちゃんのことなら、恋人としてみれたから…」
なんだそれはと思った。そんないまさらずるい言い方されてもこっちは、迷惑どころか、悲しいだけだった。
気が付けば私の頬には、知らず知らずのうちに一筋の涙が流れていた。
「ルコ…それは、ずるいのよ………」
私は自ら進んで失恋していたことになる。そして、選べたはずの選択肢はもう潰えていた。いまさら、ルコは選べない。それほど、私はフルミーナという女性に魅せられてしまった。だから、私は、目の前の大好きな人のことをもう、恋愛対象としてみることは…。
できなかった。
「ずるい?ううん、全然ずるくない。なんだったら、私は待つよ、いつまでもね」
ルコが愛おしそうに私と繋いだ手を見つめる。
私は、ルコという女性の深淵に渦巻く感情を垣間見た気がした。
「そんなことしないでよ…」
身体の震えが止まらなかった。
ルコはそんな震える私の身体にそっと寄り添った。彼女が頭を傾け私の肩に預ける。
「私ね、リリャちゃんが思っている以上に、リリャちゃんに救われててね、だから、私、リリャちゃんが喜ぶことなら何でもしてあげたいんだ…私にとって、リリャちゃんは救世主で、神様みたいな人で、私のすべてなんだってこと、忘れないで欲しいの…」
そこにいるのはいつものルコじゃなかった。友情や愛情を超越した奥深くにあるはずの感情を前面に押し出しているそんな感じだった。
「ずっと私のこと覚えておいてほしいなぁ…」
ただ、なぜ、ルコがここまで私の気を引くのか、それは、ルコの足が小刻みに震えていることに気付いて、ようやく分かったことだった。
『あぁ、そっか、ルコも…』
ルコがそこまで、私を深く特別に思っているということは、その逆もまたしかり、私だってルコのことを特別扱いしていた。ただ、私とルコの関係はもはや普通とはかけ離れたものであるということは、二人の間でそんなことは分かり切ったことだった。
『怖いんだ…』
私の恋は、ある意味でこの私とルコの異常な状態からの離脱であり、彼女は私を引き留めようとしているだけだった。
『私たちの関係が変っちゃうこと…それがルコは嫌なんだ……』
それでも、ルコからのそういった表立った積極的な好意は、初めてで、私に衝撃を与えたこともまた事実だった。
「ルコ、私は何があっても一生あなたの傍にいる」
私の震えは止まり、今度は、あからさまに震えているルコのことをそっと抱きしめてあげた。
「心配しないで…」
「リリャちゃんは、私のこと、すごくよく分かってくれてるよね…」
ルコが私の腕の中で、すすり泣いていた。
そう、私とルコの間にはやっぱりどう考えても特別な絆が芽生えていて、私がそれを壊してしまった。きっと、私がここ数日の間、一歩も前に進めなかったのは、ルコと私の二人だけの間にあった特別な絆が本当の意味で、消滅してしまうからであった。その絆は、私もルコも、恋愛的立場から自由だったから自然と成り立っていたもので、私が本当の意味で好きな人ができてしまったばっかりに、その互いに通じ合っていたからこその特別な絆は、私の方から途切れさせてしまう形になった。
私たちは、語らずとも、それが分かっていたし、それはいつか必ず来るものでもあると、薄々感じてもいた。
「私たちは、何があっても最後まで一緒だから」
ただ、今すぐに、目に見えて何かが変わるわけじゃない。私とルコは明日もきっとこれまでと同じように仲良く過ごすし、お互いのことを大切に思っているし、尊敬だってして、常にお互いの幸せのために生きていくのは変らない。
だけど。
私とルコの間に確かに存在した特別な絆は、ここで終わりを迎えた。
そんな絆を端的に言い表すとするならば。
それはきっと、わずかな選択肢の先にある。
二人が結ばれる可能性のあった。
未来だったのかもしれない。




