無痛の体
雨季を脱し夏が到来した。
リーベ平野には雨季のなごりのジメッとした湿気をふくみ、草原を翔け抜ける風はどんよりと重かった。雨季の湿気を飛ばしている最中の草原は朝露すら振り落とせず、その身に水玉を伴っていた。
一陣の風が吹いた。草花が揺れ、虫たちが転がった。そして、血に染まった私は笑っていた。
身体の内側も外側もぐちゃぐちゃであるにも関わらず、私は仰向けに倒れてゆっくりと過ぎていく白い雲を眺めていた。
「できた!できた!!」
恐怖の向こう側への到達。私はようやくその段階に立つことができたのだと理解した。幾度も無く自らの意思で行われた拷問に近い大怪我の連続に耐え続けた結果、私の意思が肉体の拒絶を凌駕し、身体が恐怖することをついに諦めてくれたようだった。
私は、自分の複雑に折れた左腕にボロボロになった歯で噛みついてみた。痛みはなかった。
「凄い!全然痛くない!ていうか、どこも痛くないよ!」
自分の身体の変化に驚きつつも、壊れた体を私の意思によって無理やり立ち上げる。一切の躊躇もなく立ち上がった体の身軽さに私は感動した。墜落した直後で身体は重体でもはや動ける状態ではないにもかかわらずこの身軽さは、まさに私の命の軽さを表していた。
「おい、リリャ!!」
ブロティーナさんが急いで駆け付けて来た。
「見てください、ブロティーナさん、私ついにやりましたよ、痛みを克服しました!」
私は実験のためここはひとつ自分の折りやすそうな左手の小指右手で掴むと、反対方向にまげて折って見せた。
「お前………」
ブロティーナの顔は青ざめる。
どうして、そんな具合の悪そうな顔をしたのか私には分からなかったが、ちょっとだけ、彼女のその態度にはがっかりした。だってせっかく邪魔だった痛みという壁を克服することができたのに、彼女は私を非難がましい目で見ていたのだ。
「私、これでもっと速くなれます。私、死の淵に近づくほど速く飛べるって知ってたんです。だから、今、この痛みを感じられない身体になった私は無敵です。きっと誰よりも速く飛べるはずです!!!」
「………」
ブロティーナさんは身じろぎせず、その場に立ち止まっていたが、我に返るとすぐに白魔法で私の身体を治療してくれた。
「痛みがないってどういうことだ…」
「え、言葉の通りですよ、身体のどこを触っても、感覚が無いんです。痛みを感じない身体になってんです!私、凄くないですか!?」
「何やってんだよ…」
ブロティーナさんの目にはなぜか涙が溜まっていた。
「ど、どうしたんですか…」
「おい、リリャ、痛みが無いってことは、接触の感覚もなくなったってことか?」
「まあ、そうなりますね」
「お前、頭おかしいだろ…」
「え、なんで?」
「これはどうだ?」
ブロティーナさんが私の頬に優しく手を当てた。
「何か感じるか?」
「いえ、何も感じません」
「お前、本当に何やってんだよ…」
「ああ、そっか…」
そこでようやく私はブロティーナさんが言いたいことが分かった。私は痛みを忘れると同時にひと肌に触れる温かさを失ったと悟った。
「今ならまだ間に合う、今から白魔導協会の本部にいって、お前の感覚を取り戻させる。まだ日が浅い、その症状が定着する前にもっと高位の白魔法で治療してもらうんだ」
「それはダメですよ。だって、そしたら、私の試したいこともできなくなっちゃうんで」
「ふざけるのもたいがいにしろ!それなら、私はもうお前を治療しない」
「わかりました。それなら、ルサさんをここに呼びますから、もう、ブロティーナさんは帰ってもらって構いません。ありがとうございました!」
私は心から感謝を込めて笑顔で言った。
ブロティーナさんの顔が酷く歪む。それがどうしてなのかは分からない。ただ、私は間違ったことを言っていない。
「なあ、私は、お前の為を言っているんだ。痛みがないってことは加減ができなくなるってことなんだぞ、痛みは死なないための予防線なんだ。それが無くなるってことは、自分の死に際のラインが分からなくなるってことなんだ。それが一体どういう意味かお前も分からないわけじゃないだろ…」
速度をあげ限界を超えた飛行魔法の飛行は、その魔法自体が持つ保護機能が失われた。それによって傷つきすぎた体は、そのたびに何度も繰り返し蘇生された。やがて体が区切りをつけて来た死に対する線引きはあいまいになり、その防衛機能は麻痺し、死が発する恐怖を不感症にした。
私はそれを死の克服と定義した。死の克服は生物としての欠陥であると同時に、それは人間からの離脱を意味していた。
「もう、大丈夫ですよ、ブロティーナさん」
私は彼女のことを抱きしめてあげた。彼女は治療しながらも、私が抱きしめてきたことに戸惑っていた。
「私、前から痛みっていうものが嫌いだったんです。だって、強くならなくちゃいけない時に限っていつも痛みが私の邪魔してくるんですよ。そういった意味で言うと、痛いのってない方がいいのに、とは思ってたんですよ」
至る所から血が流れ、骨も折れ、内臓もぐちゃぐちゃであるのにもかかわらず、私はブロティーナさんに安心を与えることができていると確信していた。
ブロティーナさんが白魔法を使いながらその場に崩れ落ちた。
「うわ、大丈夫ですか?」
抱きしめていた私も一緒になって崩れ落ちる。
「もう、私、あなたをどうしたらいいかわからない…」
ブロティーナさんは項垂れそれでも手だけは白魔法を発動し私の治癒を続けていた。
私はそんな彼女の頭を優しく撫でてあげた。
「白魔法で私を治し続けてくれれば、それでいいんです。それがあなたの役目じゃないですか、だから、あなたは何も間違ってませんよ」
私はブロティーナさんの頭を撫でつつぐずる子供のような彼女をあやし続けた。
「私はあなたを化け物にしてしまった」
「化け物?私、別に化け物でもいいよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
ブロティーナさんは何度も謝りながら白魔法を使い続けた。私の身体はゆっくりと傷口が塞がっていく。
「いいんだよ、私はブロティーナさんには感謝しかしてないし、ありがとう。だからね、最後まで付き合ってね。私、もっともっと速くなりたいから」
「ごめんなさい…」
その後、ブロティーナさんは、私に壊れたように謝り続けるようになってしまった。けれど、私の練習にも最後まで付き合ってくれたし、口も挟まなく素直で従順な子になった。
私は、そのおかげか、現状の自分の中で最高の状態で、ゴールデンウィング杯のスタートラインに立つことができた。
そして、これから始まるのは決してただの学生のレース大会などではなかった。
ゴールデンウィング杯、百一年目。
死と約束が入り混じった譲れない戦いの幕開けであった。




