黄金翼杯 死を想う
第三十五レース場。大会の中心でもある第一レース場からは、ずいぶんと離れた場所に私が初めて飛ぶレース場はあった。
ランクが無い選手たちが飛ぶレース会場で、観客という観客はほぼゼロに近く、選手たちの関係者ぐらいしかいなかった。寂れた場所、それでもここが私の出発地点だった。
私は目の前に広がる、これから自分が飛ぶレース会場を見渡した。
コースはいたってシンプル。円周上の1000メートルのコースを五周すればいいだけ。コースには、それぞれ重要な箇所に、【柱】が立っており、それは選手たちが飛ぶ、目安にもなっていた。
最初のスタートラインに第一柱があり、そこから最初のカーブコースの始まりに第二柱、そのカーブの終わりに第三柱、そこから直線コースの中腹に第四柱、そして、二つ目のカーブの始まりに第五柱、その終わりに第六柱であった。
空というあいまいな空間の線引きを、そのポールたちが担っており、これは全コース共通であった。
柱は高さ35メートルと試合での高度上限を表す重要な役目もあった。この柱よりも高く飛ぶとそのレースでは失格で、最下位が確定した。反対に下限はなく、地面に接触しても再出発は許可されていた。
コースの輪郭についていえば、魔法で25メートル付近に線が引かれ、これもまた選手たちが飛ぶ目安となっていた。そして、この線より内側で飛べばこれもまた失格で最下位だった。
そして、もちろん、故意な妨害行為が発覚すればその時点で失格あるいは、出場停止もあり得た。暴力行為などもってのほかであった。
「こちらは無ランク選手の会場となっております。レースに参加される方は、こちらの登録台にオーブをかざしてください」
試合参加たちは、黒い台座の上に自分のオーブをかざしていた。台にオーブが触れるごとにその黒い台はかざされた部分から血管のように青白い光が流れるように、全身に広がっていた。
私もそこで初めて自分のオーブを、その黒い台に登録した。
登録した後は、レースに出て飛ぶだけだった。
「よし、あとは自分の出番が来るまで待ってな、職員さんの指示に従ってればいいから」
ラウル先輩が私の背中を押して、レース会場の入り口へと押し出してくれた。
私は、ちょっとだけ、不安を感じていた。
「リリャ、俺は観客席で見守ってるから」
そんな不安を見抜いていたのか、私の後ろからラウル先輩が言った。
私は振り向いて、ラウル先輩の顔を不安げに見つめる。
「なんだ、緊張してるのか?なに、いつも通り飛べばいいんだ。練習通り、なんだったら練習通り飛べなくったっていい、なんってたって一番最初だから気楽に飛べ。順位何て気にするなよ?」
「はい…」
「おいおい、いつもの調子はどうした?」
「いや、その…なんか、いざ本番ってなったら、ちょっと緊張しちゃって…」
緊張、初めて行うレースを前に私の足はすくんでいた。競い合いなら、ラウル先輩とこの数か月で嫌というほどした。そして、当然、勝ったことなど一度もなかった。だから、本当に私は、レースで勝てるのか、とても不安だった。
「そうか、ただ、ひとつだけ言っておくが、きっと、拍子抜けだぞ」
ラウル先輩は得意げに言った。
「なんってたって、リリャ、お前はずっと俺と飛んでたんだから、そのことを忘れるな」
そうだ。私はずっと先輩と一緒に飛んでいた。魔法学園アジュガのエースと、雨の日も風の日も、私は、ずっと彼の背中を追いかけていた。それは並大抵のことではない。
「そうですね、私、ずっと先輩と飛んでたんですもんね…」
ゴールデンウィング杯で優勝を狙える選手と共に飛んでいたのだ。その実力が、最初のランク帯で敵わないはずがない。
「いつも通り飛んできます!」
私の緊張はほぐれ、笑顔まで見せることができた。
「ああ、その調子だ。気楽にいこう」
「先輩、ありがとうございます!」
私は、ラウル先輩にお辞儀をして、レース会場へと向かった。
***
第三十五レース場で、第一レース目となる、七人がスタートラインに着く。
まず、選手たちが地面で所定の位置に並び、そこから、一回目の笛が鳴る。それは選手が飛行魔法を行使し、一速に切り替える合図であった。飛行リング一つで、スタートラインである25メートルのラインまで浮かぶ。
そこからは、二度目のスタートの合図の笛が鳴り、レース開始という流れだった。
私は、第七列目で一番外側だった。
足元はリーベ平野の草原が、優しい風になびいていた。私はそこに吹く風を感じ、大きく深呼吸をした。
たった、数か月、それでも、できることはやった。今は、精一杯飛ぶだけ、後のことは何も考えなくていい。
『私は、飛べる、飛べる、誰よりも速く飛べる。飛べる…』
何度も繰り返し自分にそう言い聞かせる。
「それでは、皆さん、準備はいいですね。これから、一回目の笛が鳴りますので、鳴ったら、飛行魔法の一速で25メートル、あの柱の赤い部分まで上がってもらいます。そこから、二度目の笛がなったら、スタートです。いいですね?」
私を含めた選手たちは、ぎこちなくみんな頷いていた。もしかしたら、他の人たちも大会は初心者なのかもしれない。
「周回数の表示は、一位の人を基準に行われます。それでは、以上でレースを始めます」
審判の人がその場を去る。
すぐに、一回目の笛がなった。
選手たちが、一速で、真上の所定の位置まで上昇した。
私も、ゆっくりと、所定の位置についた。
胸の高鳴りが止まず、緊張は最高潮に達していた。二回目の笛がいつなるのか、それが永遠の時のことのようにさえ思えた。その一瞬の間に、私は、こういう時どうして来たか、
『リリャ、いいかい、よくお聞き、もしも怖いことがあったら…』
ここに来て、おばあちゃんの顔が浮かんでいた。
おばあちゃんは、私に、護身術という名の暴力を教えてくれる厳しい人生の師匠でもあった。それは、私という小さな女の子を見かけによらない強固な人間へと変えたのも事実だった。そして、それは人生の節々でしっかりと私の役に立っていた。
この時思い出していたのは、恐怖を乗り越える際に教わった、私のおばあちゃんらしい会話だった。
『死を想いなさい』
『死を?』
『そう、死を』
『死を想うって、どういうこと?』
私は首をかしげる。
『すべてのことには必ず終わりがある。始まりと終わり』
『始まりと終わり?』
『そう、死は、その終わりのこと。それを想うということは、どういうことか分かるかい?』
『わからない』
小さい頃の私は、おばあちゃんの言うことはほとんど分からなかった。だが、次の言葉は私には思いもつかなく、ショックなことだった。
『リリャ、あなたもいずれ死ぬということよ』
『え、私、死にたくない…』
『そうさね、だけど、それは誰にも避けられないこと。ばあばだって、いずれ死ぬ、それもリリャよりも先にね』
『それはもっと嫌だ!おばあちゃんも、死なないでよ…』
『フフッ、いい子ね、だけど、リリャお聞き。ばあばも、そして、リリャ、あなたもいつか必ず死ぬ……』
『………』
私はおばあちゃんの話しに黙って耳を傾ける。おばあちゃんから何度も叱られた人の話しを聞くということがどれだけ大事か。小さい頃からそれは叩き込まれたことだった。
おばあちゃんが続ける。
『そうやって、死は、私たち生者たちの中にあって、歳と共に大きく成長する。そんな死が表に顔を出したとき、私たちは死ぬ。それは決まっていること』
その時の私は絶対に死にたくないと思って聞いていた。しかし、今になれば、おばあちゃんの言っていることも分かる。人は死ぬ。それも必ずだ。けれど、おばあちゃんは大切なことを言っていた。
『だけどね、その死だって、私たちの中にあるなら、使いようによっては、私たちを助けてくれることだってある』
『死が、助けてくれるの?』
『そうさ、なんてたって、死だって自分の一部なんだから、力を貸してくれるさ』
私は自然と自分の胸に手を当てていた。生きている間は、死なんてどこにも持ってないと思っていた。けれど、違った。その言葉を聞いて、胸に手を当てた時、心臓の鼓動が鳴っているのを感じた。
ドクン、ドクン、とその命の鳴動は、生と死を育む音だった。
『死を想えば、この世のたいていのことは乗り越えられる。だから、これを知っているのと知っていないのでは、生きていくうえで覚悟が違ってくる。リリャ、あなたも、死を想えるような人間でありなさい。そうすれば、おのずと道は開けるから』
話しが終わると私はその時おばあちゃんに言ったことがあった。
『わかった、私、自分の死とお友達になれるように頑張る』
『ハッハッハッ!それも、悪くないね』
その時のおばあちゃんは、楽しそうに笑っていた。
死は己が中にある。おばあちゃんはそれを上手く使いなさいといった。死に対する感情は、自己の感情の中でも、もっとも強い分類に属するものだった。それは大抵の感情ならば、簡単に上書きできるほどに、自らの死を想うことは、効果的だった。
喧嘩のような闘争をするときなど、私は自然と死を想っては、ずば抜けた冷静さを獲得していた。
だが、それを闘争でもないスポーツなどで、発揮するにはいつもよりもコツが必要だった。
命の危機は無い、それでも、酷く緊張する。こんな初めての身体的負荷を解決したのは、やはり、『死想』だった。死ぬことに比べた時の取るに足らないという、一種の悟り、これは感情制御に値した。
「そうだ、死を想うだ…」
二回目の笛の音が鳴った。
レース開始。
選手たちが、一斉に前へと飛び出した。




