番外悪霊10
日差しが少し和らいできた。
私は追加のデザートを頼み、追加のコーヒーを取りに行く。
やはり、克也は来ないようだ。
客もまばらになり、私もそろそろ、長居が気になり始めてきた。
剛はゆったりと椅子に座り、天井を見て「ふぅ…」と、吐息を吐いた。
私は、ここに来て、ドイルが見せてくれた意外な事実によい気持ちになった。
私には、推理作家 江戸川乱歩の気持ちも、平井太郎の気持ちも、正確には分からない。
自分がそうだったら…
乱歩がネット作家なら…を想像して書いていた。
何だかんだと達観しているようで、私もまた、承認欲求を失っては無かったのかな?
ホットコーヒーの薫りに癒されながら、新たに見つけた物語を考えた。
コナン・ドイルのオカルト好きは有名な話だ。
妖精に囲まれるドイルの写真は有名だが、彼がオカルト…特に、降霊術に興味を持ったのは、第一次世界大戦で沢山の知人を亡くしたからだと言われている。
剛に会えずに…その骸に別れを告げることすら出来なかった私もまた、ドイルの気持ちは、少しだけ理解はできる。
私の心の中には、どこかの現場で仕事をしながら、たまに、牛丼を食べている剛が生きている。
あまりにも、呆気なく、なんの形跡も残さずに亡くなられると、よく分からない気持ちを整理できずに戸惑う。
亡くなった剛を悪魔に変えて話なんて書くのは不謹慎だと思う。
でも、どこか、心の中に剛は生きていて、
『モーニングを食べにいこう』
と、囁くのだ。
何万文字を費やしても…500円を…モーニングの代金を小説で手にして…名古屋に行かなければ…と、そんな気持ちがつき上がるときもある。
ドイルもまた、ヨーロッパの戦場で、呆気なく、亡くなった友人への気持ちの整理が上手く出来なかったのかもしれない。
もう一度、そう、もう一度、それが、幻でも…友人と会えた気がしたら、
亡くなったのだと…気持ちが納得できるなら、
幽霊でも…会いたいと考える気持ちは、わからなくもない。
さあ、そこでコナン・ドイル。降霊会で調べてみる。
すると、ひとつの物語が浮かんでくる。
『霧の国』
これは、1925年イギリスで発表されたドイルの小説だ。
この物語の主人公はチャレンジャー教授。
ジャンルはSF。
冒険ものなのだ。
奇しくも、乱歩が名探偵 明智小五郎の登場と共にプロ作家として、副業を持たずに小説家として一歩を踏み出した年の事だ。
ドイルは、逆に、ホームズと距離を取り、オカルトの世界に足を深く踏み入れようとしていた。
そして、遠く離れたこの2人の推理作家を『霧の国』が結びつけるのだ。
このドイルのオカルト作品を翻訳した人物に横溝正史先生がいる。
ついでに、改造社のドイル全集は1933年の出版らしい!
1933年…この年を軸に横溝先生の年表を重ねる。
横溝先生は1932年、編集を担当した雑誌が廃刊になり、作家一本で生活する決意をする。
が、悪いことに、病気にかかり、1934年肺結核でサナトリウムでの治療を余儀なくされるのだ。
この、横溝先生に降ってきた不幸…
当時は、結核は不治の病と恐れられていたのだ。
乱歩先生が、急ぎごしらえで『新青年』に本格ミステリーを連載するにあたって、この辺りの事情が関係はなかろうか?
仕事を失い、プロとして歩き出した後輩を襲う不治の病。
小説家なんだから、サナトリウムでも執筆は可能だろう。
が、フリーになった横溝先生が、ホイホイと仕事をとったり、作品を作れるかは謎だ。
彼の発表の場を安定させる…そんな意味も、『悪霊』には込められていたのでは無いだろうか?
1933年
横溝先生が、フリーになって翻訳した…故ドイルの物語。
何か、乱歩の心に広がるものがあったのでは無いだろうか?
深いため息がこぼれる…
そう、連載は、どんなに考えて、結末をつけようと、とんでもない所に新たな分岐が隠れているのだ。
けれど、こんな乱歩を想像できるなら、少し位の寄り道も悪くない。
 




