4話祈り
こんな作品を書きはじめて、不思議と呪文使いとツヨシの事を思い出していた。
沢山の未完を抱えているから、たまに、何かの拍子で、別のアイディアが溢れてくることがある。
私は完結への意識を高めるために、イベントや公募によく出展する。
そこでは、私は、選ばれる側なのだが、そんな私の下には、作品にすらなっていないキャラクターがいて、必死にアピールしているかと思うと、なんだか少し切なくなる。
2年を経て、作者に思い出され、読者の前に少しでも晒される機会を必死にアピールしているかと思うと、少しは書いてやりたくなるのだ。もう、後回しにしていたら、出番が永遠に来ないかもしれない。
そこで、ツヨシを思い出してしまうのは、名古屋のモーニングを夢見たまま叶わなかったツヨシと、なんとか物語を始めようとするキャラが重なるのかもしれない。
私も、いるか、いないか分からない誰かに語りかけているようなものだから、呪文使いの少女がどんな気持ちで精霊に語りかけているのか想像できる。だから、文句を言われ、呆れられながら、モーニングを語ったツヨシにも自分を重ねてしまうのかもしれない。
思えば、いつも私はツヨシに文句を言った。
文句を言いながら、それでも、なんとか実現しようと努力はした。
こうして、小説を書き続けていた動機の1つでもある。
私は、人にものを頼むのは苦手である。
親は貧乏だ。彼が少年の頃、国が破綻する…なんて、歴史的に飛んでもない事を経験したのだから、父が精神的にやられていたのは仕方ないと思う。
父は、夜中に心配になるのか、母に生活についての不安やダメ出しをしていた。
興奮すると声がでかくなるから、私もそれを聞きながら育っていった。
胸をつくような…悲しげな話を聞かされて育った私は、親の懐を考えて発言するようになった。
少し高いものを…誰かにねだるのは、苦手になった。
誰かの懐を心配しながら娯楽の道具を買うなんて気疲れするし、気がつくと、欲しいものは自分で、出来るだけなんとかする事を覚えた。
子供の頃は、不用品を使って工作をし、その達成感と空想力で何とかしてきた。
そんな私には、なんの行動もせず、ボヤき続けるツヨシの事が良く分からなかった。
どうして、何もせず、だからと言って、諦める事なくボヤき続けるのか、理解が出来なかった。
助けるにしても、少しは努力するのと、全身で乗っかってくるのでは負担が違う。
ツヨシが貧乏なのは知っている。けれど、それだって、少しは我々に気を使うなり、何か行動する気力を見せるべきだと思った。
名古屋のモーニングなんて、自作で評価3桁貰うより遥かに楽だと考えていた。
ついでに、フリマなどの小銭もためていた。
少しでも、足しになるように…
だから、気ままなツヨシの態度には、なんどか腹がたって喧嘩になった。
喧嘩と言っても、一方的に私が喚くだけなんだが。
去年、ツヨシが突然亡くなって、夢が叶わなくなった時に、アイツはこの結末をはじめから悟っていたのかもしれないと考えた。
どうせ、叶わないと知っていたら、あんな態度になるかもしれない…
そう考えるとつらかった。
と、同時に、当初の予定通り、ツヨシの馬鹿話を書かずに、変な話を書き続けた自分を責めた。
私は、ほのぼのとしたツヨシのコメディーを…『寅さん』見たいな話を書こうと考えていたはずだった。
でも、ネットの世界を知らない私には、ただ、身バレが怖かった。
そして、調子にのってオーバーに書きすぎて、炎上しないかを心配した。
が、キャンプファイヤーもネットの記事も、炎上させるには、コツと火だねと燃やすものが必要で、大概の場合、そうそう素人が炎上なんて出来ない。
ただ、ある日、自分の記事が削除されて終わるのみだ。
コメディを書く場合、その距離感が大切だと、何かで読んだことがある。
ちかすぎれば悲劇になるし、
とおすぎたら、見えなくなる。
良い感じにピントを合わせないと笑いがおきないのだ。
特に、笑われる側も愉快になる…上質の笑いを作るのは、とても難しい。
でも、プロのそんな意識を考えすぎずに書いていれば良かったのではないかと、あれから随分と考えた。
私の話なんて、喫茶店でたまたま聞こえてきた、声の大きなオバチャンの日常の馬鹿話クラスだったのだから。
少しくらい、大袈裟で、多少、下品なところがあっても、聞き流されて終わりだったのかもしれない。
なんにせよ、初めの予定では、ツヨシの良い部分、楽しげな所を人に知ってもらい、評価してもらおうと考えていたのだ。
そして、気分良く旅行に行く予定だった。
私とツヨシは正反対なところがある。
特に、努力の価値について考え方が違っていた。
人に甘える事が下手な私は、自分の努力に価値を見いだし、人を混乱させる…願望を垂れ流すツヨシの気持ちが理解できなかった。
そんなに行きたいなら、どうして頑張ろうとしないのよ?
今考えると…無駄な努力を嫌うと言われる、なろう系ファンタジーの読者が最も嫌う人物が私なんだと思う。
なにしろ、私のファンタジーの主人公、ツヨシに嫌われてるのだから、仕方ない。
でも、当時は理解できなかった。
ツヨシだけでは、空想するだけで何も経験は出来なかったろうし、
私だけでは、そもそも、行動目的が…誰かと協力して同じ願いを一緒に叶える…と言うことが出来なかったから。
私たちは、そこのところで波長があったのだ。
ツヨシが願望をみんなに宣伝し、私が、それを実現する…
確かに、叶わない夢もあったけれど、私は、身の丈に合わせて希望の方を変える事にたけていた。
書籍化がダメなら、2万円、2万が無理なら、500円…
だから、努力が無駄になることは無かったし、
いつも、それなりに楽しかった。
でも、今回は何もかも上手くは行かなかった。
500円も稼げなかったし、旅行も行けなかった。
ツヨシは、ダメ人間のまま死んでしまい、誰に知られることもなく、この世をあとにした。
ツヨシが私に残したことと言えば、沢山の『借り』と、ボヤきだけだ。
でも、それでも、奴のボヤきは私の中で生き続けている。
だから、私も誰かに願望をボヤこうと思った。
同情で評価をくれる人もいない、私のエリアだから、逆に気兼ねなく喚けると思った。
ただ、願いを言い続けること…
その価値を…ツヨシの価値を証明したかった。
でも、昨日、突然気がついた。
願いがかなわなくても、努力に価値が無くても良いと言うことに。
私は、やったことに何がしらの価値をつけたがる。
だから、叶わなければ目標のほうを現実に合わせてゆく。
自分が納得出来る価値を手に出来るところまで。
でも、ツヨシの願いは、叶わなくても良い願いなんだと、気がついた。
名古屋にいる友人に会いたい。皆で旅行に行きたい。
いつも、そう思っているよ…
あのボヤきの意味は、多分、そんなものなんだと思う。
ただ、『大好きだよ』と、それだけで、
だから、価値が出るまで夢のほうを変える必要がないし、変えられないと言うことを。
そう言うものを、人は『祈り』と呼ぶのかもしれない。
私は、下品な人間なんだと思う。
そして、ツヨシは本当に『お坊ちゃん』だったのかもしれない。
『祈り』を知らないで、西條先生の詩を解釈なんて出来なかったのかもしれない。
私も、気負わずに書いて行こう。
私は、ただ、『トミノの地獄』の私なりの解釈と、そして、今、思う謎の部分を知るための力が持てることを祈るのだ。
Siriが読みやすい文章にしました




