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「おお。これはかわいらしい。用意した甲斐があったというものだ。どうだ、ジェルマン。これなら文句はないだろう」
真新しい騎馬服をお披露目したリュシーに伯爵は大いに喜んでくれた。伯爵に話を振られたジェルマンは、表情を変えることなく、
「はい。大層お似合いだと思います」
と平板な声で答えていて、リュシーはがっかりしたが、よく見るとその耳が赤かったので、許してやることにした。
「じゃあ、二人で裏庭でも散歩してきたらどうだ。これなら木登りも安心だろう」
父の提案に、みんなに注目されて居心地の悪かったリュシーは、一も二もなく飛びついた。すがるような目でジェルマンを見つめると、ジェルマンとテリーがそろって苦笑いした。
「では、行こうか。リュシー」
「はい!」
王都の流行最先端だという騎馬服は、驚くほど動きやすかった。いつもの木にもするすると登れる。
いつもの枝に座ってジェルマンを振り返ると、既にすぐ後ろにいて驚いた。いつもは、リュシーが上り終わってから登ってくるのに。そしていつものように、リュシーの座る枝のすぐ上の枝に足をかけた。
二人っきりになって、木の上で風に吹かれていると、リュシーは何故だか、気恥ずかしくなってきた。今更ながら、騎馬服と髪飾りが「ジェルマンの色」であることが気になってきた。
だから、ジェルマンの言葉を必要以上に意識してしまったのかもしれない。
「その……、似合ってるな。その服も、――髪飾りも」
「え! は、はい。ありがとうございましゅ!」
突然そう言われて、リュシーは激しく動揺した。思わず裏返ってしまった声が、動揺をますます高まらせた。
「――大丈夫か?」
そう言って、ジェルマンが上半身を折るようにかがんでリュシーの顔をのぞき込んできた。
びっくりしたリュシーは、赤い顔を見られたくなくて、枝の上で体をよじった。
その瞬間、強い風が吹いてバランスを崩す。
「あぶない!」
あれ? 斜め上にいるはずのジェルマン様が正面に見える――と思ったら、驚いた顔でこちらに手を伸ばすジェルマンがどんどん遠ざかっていく。あ、私落ちてる。そう思ったリュシーはとっさに体を丸めて頭を守った。
強い衝撃が背中に走る。地面には木の葉が積もっていて柔らかかったけれど、座っていた枝は、それなりの高さがあったので、リュシーはしたたかに背中を打ち付けた。あまりの衝撃に目をつむって痛みに耐える。
「大丈夫か!」
ジェルマンの声がすぐ近くから聞こえる。おそらく飛び降りたのだろうという早さだったが、息が詰まって声が出ない。でも、自慢じゃないが、木の枝から落ちるのなんて日常茶飯事なリュシーは、大きな怪我はしていないのはわかっていたので、目をつむったままうなずいた。
が、そのまま体がふわりと持ち上げられて、驚いて目を開けた。すぐ目の前にジェルマンの顔があって、別の意味で息が詰まる。
「待ってろ! すぐに屋敷に戻る!」
そう言ったジェルマンは、リュシーよりよっぽど酷い顔色なのに、人ひとり抱えているとは思えない速さで屋敷にたどり着いた。
大きな音を立てて戻ってきたジェルマンと抱えられたリュシーを見て、大人たちは目を丸くしている。
「落ちた! 木から!」
息を切らしながら、ジェルマンが叫ぶ。
まあまあとお母様がいい、アミイとエリがソファに下ろされたリュシーの様子を確認する。
「お嬢様、どこから落ちました?」
「いつもの木から」
その頃には、背中に鈍い痛みがあるだけで、声も出せるし動けるようになっていたのだが、いたたまれない気持ちに涙がにじんでくる。
「痛むのですか?」
心配そうに聞くエリに答えられず、唇をかむ。
その様子を見ていた母が手をパチンと叩いた。
「リュシー。部屋に戻って、怪我の様子を確認してもらいなさい。必要なら医師を呼びましょう。ジェルマン様、驚かせてしまって申し訳ありませんでした。ジェルマン様にはお怪我はないでしょうか」
「はい。……助けられず、申し訳ありません」
ジェルマンの声が低い。
「まあ、この子が木から落ちるなんていつものことなんですのよ。なんせこんな田舎ですからね。王都のご令嬢では考えられないような暮らしですの。今日も大きな怪我はなさそうですし、お気になさらないで。多少の傷がついてもジェルマン様は気になさいませんでしょう」
なんてことを聞くんだ。うちの母親は。リュシーはそう思ったが、ジェルマンの方を見る勇気はなかった。
「それは。それは、もちろん」
そう言うしかないですよね。
確かに、令嬢が傷を作らないように言われるのは、将来の夫に忌避されることを恐れてのことだ。婚約者であるジェルマンが多少の傷は気にしないというなら、気にする必要はない。というのは建前で、普通は令嬢は怪我などしないようにおしとやかに過ごすものだと思うけれど、母はそれを見事に逆手に取って見せたのだ。
母は満足そうに笑うと。リュシーを部屋へと促した。立ち上がるとやはり背中に鈍い痛みが走る。顔をしかめたのが見えたのか、ジェルマンが
「部屋まで送ります」
と言ってくれたが、リュシーだって年頃の乙女なのだ。人前で婚約者に横抱きにされて運ばれるなんて御免だった。
「大丈夫です。ありがとうございます。ジェルマン様」
そう言うと、ぎこちなくカーテシーをして部屋に向かった。父がそれなら僕がという顔をしたけれど、恥ずかしいので目で制す。
部屋に戻って服を脱ぎ、背中の様子を確認してもらう。大きな青あざができていたが、骨には異常がなさそうで、お医者様に来てもらうまでもないということになった。
その日は、ベッドでうつぶせのまま食事をとったリュシーを除いて、皆で夕餉を囲んだそうだが、次の日、お見舞いに来た兄のテリーからジェルマンが大層リュシーのことを気にしていたと聞いた。それは目の前で年下の女の子が木から落ちていったら恐怖だろう。申し訳ないことをしてしまった。リュシーは反省した。
三日後、ジェルマンが一人で我が家にやってきた。距離を考えても実家に一泊程度してとんぼ返りしてきたんだとリュシーにもわかった。
その頃には、強く押さなければ痛くない程度に回復してきていたリュシーは、体を締め付けないドレスを着てジェルマンを出迎えた。
「いらっしゃいませ」
まさか、三日前に木から落下した当人が普通に出迎えると思っていなかったのかジェルマンは目を丸くしている。
「もう、大丈夫なのか?」
「はい。ジェルマン様も馬から落ちて背中を打った程度では、何日も寝込みませんでしょう?」
「いや、まあ、そうだけど。でも、俺は鍛えているから……」
そう言いながらも心配してくれているのか、探るようにリュシーを観察している。
「私も、日夜畑仕事や木登りで鍛えていますから」
胸を張ったリュシーを見て、しばしぽかんとした後、ジェルマンはぷっと吹き出した。
「ならよかった。これ見舞いの品。母上が選んだからヘンテコではないと思う」
「きれい! ありがとうございます」
お見舞いの花と一緒に差し出されたのは、きれいな刺繍を施したリボンだった。
王都で買い求めたものなのか、洗練されたデザインだ。大人っぽいがリュシーがつけても不自然でないデザインで、とてもきれいだ。
リュシーの反応に満足したのか、ジェルマンは表情を緩めた。
「あの、ジェルマン様。私が突然落下して驚きましたよね」
「ああ。活発な娘が良いと言ったら、おてんば娘だと紹介されたのが君だったけど、貴族令嬢のおてんばなんて大したことないだろうと思っていた。見くびっていたよ。悪かったな。今後は一緒にいる限り、君が痛い思いをしないようにきちんとフォローしようと思う」
まっすぐにそう言われて、顔に熱が集まるのを感じた。優しくされるとなんだかくすぐったい。
「あ、ありがとうございます。私も、怪我には気を付けます」
「ああ、そうしてくれると助かる」
そう言うと、メイドが用意したお茶に手を伸ばす。そこへ、テリーがやってきた。
「やあ、ジェルマン。わざわざ悪かったな。見ての通り元気だろう。人づてに聞くより実際に見てもらった方が安心するかと思ったんだ」
どうやらジェルマン様を呼んだのはテリーらしい。
テリーは持ってきた書物をジェルマン様に差し出す。どうやら本の貸し借りの約束もあったらしい。そのまま、リュシーにはわからない難しい歴史の話を始めたテリーとジェルマンを見ていたリュシーとジェルマンの目があった。
退屈は顔に出さないようにしていたつもりだったけれど、失敗しただろうか。
「君は普段なんの勉強をしてるんだ?」
「私ですか?」
「ああ」
「マナーが多いです。あと楽器とかダンスとか。農業や経済はお父様とお兄様のお手伝いができるくらいに」
「そうか」
「ジェルマンが継ぐ予定の領地も農耕地なんだろう?」
横からテリーが話しかける。
「まあな。だけど……」
「――決めたのか」
「ああ」
そう言うと、ジェルマンはリュシーをまっすぐ見た。
「今日はその話をしに来た。――来年の春になったら、領地で伯爵家が持っている騎士団に入るつもりだ。もし、そこで実力が認められれば、王都の騎士団に入れるかもしれない。そうでなくても、領地でまずは、父と兄の役に立ちたいと思っている」
――春までは、これまで通り会いに来るよというジェルマンに、リュシーは自分でもびっくりするくらい寂しい気持ちになった。騎士になったら、領地から早々気軽に出ることはできないだろうということはリュシーでもわかった。
さらに王都に行ってしまったら、もう会うことはないのかもしれない。
「……春になったらお別れですの?」
思わず口をついて出た言葉に、思ったよりも随分か細い自分の声に、リュシーは驚いた。ジェルマンと隣のテリーまで目を丸くしている。
「いや。俺は長い休暇がないとなかなかこちらには来られないが、その代わりリュシーが会いに来てくれたらいいと思っている。馬車で来るのは大変だろうが、冬でなければ危ないこともないからな」
まじめな顔で言うジェルマンとは対照的にテリーは笑いをこらえたような顔と口調だ。
「リュシー。ジェルマンがもし、頭角を現して王都にスカウトされたりしたら、その時はお前も一緒に行くんだよ。何のための婚約者だ?」
「王都に。私が?」
驚いて、ジェルマンを見ると、何故かジェルマンは少し顔を赤くしていた。
「まあ、まずは見習いからだし、運よく王都に行けるとしてもそれは何年も先の話だからな」
ぽかんと口を開けてジェルマンを見つめるリュシーを見てテリーが声を上げて笑った。悔しいので、リュシーはテリーをこづいてやった。
自分はジェルマンの婚約者なんだ。リュシーがそれを初めて実感した日だった。