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「お、ジェルマン。楽しんだようだね。リュシー嬢が噂通りでうれしいよ」
帰ってきたリュシーたちを見て開口一番にそう言ってくれたのは、ジェルマンの父である伯爵だった。さすが、気まずい雰囲気にならないようにとの伯爵なりの配慮だと思う。
リュシーの母は、にこにことしているけれど、父と兄は若干顔が引きつっている。
壁際に控えているメイドのアミイとエリに至っては、完全に怒っている。にこやかに気配を消して怒っている。
リュシーたちは、一言で言ってボロボロだった。
木登りと裏山をジェルマンに褒められてうれしくなったリュシーは、ジェルマンを屋敷への抜け道に案内した。
その秘密の抜け道は、藪を抜けて、崖をずりずりと滑り降りるものだった。
いつも、この道を通る時には汚れてもいい、質素な洗いざらしのワンピースを着ているのだが、今日は、メイドたちが腕によりをかけて綺麗な格好にしてくれていたのを浮かれたリュシーはすっかり失念していたのだ。
ジェルマンは、崖も足をかけただけで飛び降りることができたので、リュシーのように泥だらけではないが、髪の毛に木の葉をつけていたり、このまま帰ったら伯爵夫人が驚かれるだろうというくらいには汚れていた。
「ジェルマン様、テリーのものでよければお着替えになってくださいませ。リュシー、あなたはどうしても着替えが必要ね」
お母さまの言葉に皆が動き出す。テリーもリュシーには、呆れたような顔をしていたが、ジェルマンには申し訳なさそうに、部屋に案内している。リュシーも笑顔のまま怒っているメイドたちに一度部屋に下がらされた。
「お嬢様! どうしたんですか。今日のことは楽しみにしていらっしゃったのに。こんなに汚して」
部屋に入るなり、アミイが言う。エリも何か言いたげだ。リュシーは素直に反省した。
「せっかくきれいにしてくれたのにごめんなさい」
「そんなことはいいんですよ。ジェルマン様は大丈夫でしたか」
母親代わりのメイドは主のおてんばぶりにせっかくの婚約がうまくいかなかったらと心配してくれているようだ。
「うん。一緒に木に登れるなんて嬉しいって言ってくれたわ」
私がそう言うと、二人は顔を輝かせた。
「まあ、あんなにご立派な貴族様なのに、なんて心が広いんでしょう!」
「なんてことでしょう。こんないい縁談はないわ。お嬢様が貴族様と結婚できるなんて!」
微妙に、いや、かなり失礼な気がするが、リュシーは自分でも貴族として生活しているという自覚が薄いので、腹も立たなかった。
「じゃあ、動きやすい格好にしましょう。いつものお嬢様を見ていただいた方がいいですわね」
リュシーは、泥のついた顔や手足をぴかぴかに磨かれたあと、動きやすいシンプルな、でも、いつもよりは上等な生地でできたワンピースを着せられて、応接室に戻った。
応接室では、テリーの服に着替えたジェルマンとテリーが楽しそうに話している。すっかり意気投合したようだ。リュシーと話すより、ジェルマンは楽しそうで、リュシーは面白くない気持ちになったが、二人はリュシーが来たのに気付くと、近くに座らせて、リュシーにわかる話題に変えてくれた。
リュシーのいじけた気持ちを見透かされたようで、リュシーは少し反省して、笑顔で会話に加わった。
その日は、夕食をという子爵の申し出を断って、二人は暗くなる前に帰っていった。
「よさそうな方でよかったわね。リュシー。ゆっくり仲良くなっていけばいいわよ」
母にそう言われ、リュシーはうなずいた。
部屋に帰ると、お近づきのしるしにと小さなブローチが届けられていた。リュシーはそれを「宝物入れ」と呼んでいる小物入れにそっとしまった。
伯爵家から正式に婚約の申し入れがあったのはその後すぐのことだった。
その後も、ジェルマンは月に一度、リュシーの家を訪れた。伯爵領からは、馬車で丸一日かかるので、最初のうちは近くの村に一泊しながら伯爵と一緒に来ていたが、社交シーズンが始まると伯爵は王都に行ってしまうため、ジェルマン一人で来ることになった。子爵は、そんなジェルマンのために屋敷に部屋を用意した。高級宿とは言え、社交シーズンに入ったころは冬の真っ盛りだったというのもあり、まだ十三歳になったばかりの少年が一人で宿泊するのを心配したのだ。
ジェルマンはリュシーの相手を嫌がらずしてくれた。と思っていたのは最初のころだけで、実は自分が体を動かすのが大好きなようだった。来るたびに裏山をリュシーと共に探検したり、馬に乗ってテリーと領地を見に行くこともあった。
リュシーも馬には乗れたが、まだ仔馬にしか乗れなかったので、そんな時は留守番だ。
お土産をたくさん持って帰ってくれたので、それはそれで嬉しかったのだが、そんなことが何回かあったある日、いつもの木の枝の上で、ジェルマンにまじめな顔で、リュシーは馬にどれくらい乗れるんだと聞かれた。
「ええと。仔馬なら」
言っていてちょっと悲しくなった。季節は春を迎えており、木の上の二人に吹く風も今日は暖かさを含んでいる。リュシーは腰かけた枝からおろした足をぶらぶらさせてみる。何故か、最初に一緒に木登りをしたあと、ジェルマンが木に登るときは、下履きに男物のズボンを履くようにしつこく言うので、兄のおさがりの茶色いズボンがぶらぶら揺れた。
プティ子爵家は農耕を主産業とする平和な土地で暮らしている。騎士のように乗りこなせなくてもいいが、領内を見回るために交通手段として馬は必須だ。リュシーも練習していて、十二歳の誕生日を迎えたら仔馬を卒業してよいと言われている。でも、立派な馬で半日以上かけて騎馬で我が家まで来ることができるジェルマンから見たら子どものおままごとのように見えるだろう。
だが、ジェルマンは表情を変えずにうなずいた。
「じゃあ、今度一緒に走らせよう。仔馬でも行ける近場におすすめの場所はあるか」
「あ、近くにきれいな泉があります。私、いつも練習でそこまで乗っているので、行けると思うわ」
「決まりだな。次回はそこに行こう!」
リュシーは、すっかりうれしくなって、するすると木を降りた。
おい! という声を見上げて、ジェルマン様に叫ぶ。
「この山にもきれいな花が咲く場所があるんです。ご案内するわ」
「そうか!」
ジェルマン様は目を輝かせると嬉しそうに笑って、そしてリュシーの乗っていた枝に足をかけると、そのまま飛び降りた。
来るたびに高い枝から飛び降りるジェルマンにリュシーはいつになっても慣れない。そんなリュシーを見て得意げに笑ったジェルマンに、リュシーは、これまで誰にも教えていなかった秘密の抜け道まで教えて差し上げたのだった。
その先に有った花畑は、いつもより輝いて見えた。
社交シーズンが終わって、領地に帰ってこられた伯爵が久しぶりに、ジェルマンに同行して子爵家にやってきた。
「ジェルマンがたびたびお邪魔しているようで、仲良くしていただいてなによりです」
「ええ。リュシーもジェルマン様が来るといつも大はしゃぎですよ。息子とも親しくしていただいてこちらこそありがとうございます」
リュシーは、父が伯爵様にそんなことを言うものだから、ひどくきまりが悪かった。お父様ったら、そんなことを伯爵様に言わなくたっていいのに。
でも先日の誕生日にジェルマンからもらった髪飾りをつけているリュシーがなにを言おうと照れているとしか思ってもらえないだろう。現にそうなのだけれど。
「王都で、最近女性向けの騎馬服が流行っておりましてな。今日は、リュシー嬢にお土産でいくつか持参したのですよ」
「なんと。おてんばなうちの娘にはぴったりですな。リュシー」
「――はい。伯爵様、ありがとうございます」
なんと心の広い伯爵様。リュシーは感動した。リュシーのおてんばをとがめるどころか、それに合う服装をわざわざくださるとは。将来の義父として理想的ではないか。
「いやいや。ジェルマンも年頃でしてな。婚約者のまぶしさに戸惑うことも多いようで――」
「父上!」
黙って聞いていたジェルマンが慌てて割って入った。耳が赤いジェルマンを見て、気を利かせたらしいテリーがリュシーに声をかけた。
「リュシー、せっかくだ。着替えてきたらどうだ? 女性向けの騎馬服ならアクセサリーや髪形は変えなくてもよいだろうし、そんなに時間はかからないだろう?」
テリーの言葉に、メイド頭のアミイが力強くうなずいた。母も手を合わせて同意する。
「そうね! 私も見たいし、伯爵様やジェルマン様にもご覧いただいたらいいわ」
今日のドレスもメイドたちが、朝からせっせと選んでくれたものだったので、さっさと脱ぐのは少し気が引けたリュシーだったが、ちらりを目を送った先に控えているエリの期待に満ちた目を見ると、杞憂だったようだ。
「わかりました。では、少し失礼してお時間をいただきます」
「もちろん。しばらく見ないうちにすっかり立派なレディだね」
伯爵に褒められ、気分良く部屋に帰ったリュシーは、贈られた騎馬服を見てさらに目を輝かせた。
「すごい! お嬢様、男性の洋服のような形なのに、とてもかわいらしいですわ。しかも三着も。どれになさいます?」
隣で同じように目を輝かせるエリの言葉のとおり、動きやすい形なのにかわいらしく作られている騎馬服を前に、リュシーは少し考えた。
「じゃあ、これ」
選んだのは、ブラウンとワインレッドを基調とした落ち着いた色合いのものだった。夏とは言え、そろそろ秋も近いし、なにより、ジェルマンにもらった髪飾りがワインレッドなので、アクセサリーを変える必要もない。
「そうですね。ジェルマン様のお色ですものね」
「え?」
エリの言葉を不思議そうな顔で聞き返すリュシーを、エリも不思議そうに見返した。
「だって、赤みがかったブラウンって、ジェルマン様の髪の色ですよね。瞳は濃いブラウンですし」
アクセサリーだってご自分のお色をお嬢様につけてほしいということでは、というエリの言葉をリュシーは遠くに聞いていた。婚約者が自分の色を相手に贈るのはよくある習慣だが、リュシーは髪飾りをもらった時も、今もエリに言われるまでそんなことは考えてもみなかった。
リュシーは、ジェルマンのことをかっこいいと思っていたし、婚約者でうれしいと思っていたが、ジェルマンにとってのリュシーはテリーにとってのリュシーと大差ないと思っていた。いい友人だと思ってはいたが、相手が、自分のことを婚約者として意識しているなんて、十二歳のリュシーは考えたこともなかったのだ。
真っ赤な顔で固まってしまったリュシーに、エリは飛び切りかわいらしく騎馬服を着せてくれた。