ゴーストシップの歌姫
夜が来ると、ヴァーダ海域は霧に包まれる。
そんな夜霧の中を風の力も無しに漂う帆船が在った。
元の船名は何だったか。もう誰も覚えちゃいないさ、ただの幽霊船。
だから呼び名はまんま、ゴーストシップ。
ボロボロの帆はしなびたまんま、黒い船が霧を泳ぐ。
ゴーストシップの乗組員は当然、幽霊――だけではない。
ほとんどが幽霊である事は確かだが、中には動く腐乱死体や邪悪な妖精に海の怪異、果てはどこから流れ着いたか不死身の吸血鬼やら、その他にも陸や空の者どもまで。バラエティに富んだ怪物どもが乗船していた。
今宵も怪物どもは宴を始める。
酒は盗品、肴も盗品。
すべてこの霧の中で一期一会、運命的に出会った船から略奪した代物。
中には肴として、盗品と一緒に捕らえた人間をつまむ者もいる。宴の笑い声の中に悲鳴が混じっているのはそう言う事だ。
酔っ払いの笑い声、カワイソーな弱者の悲鳴、血の気の多い連中の怒号、喧嘩を見て「良い余興だ」「もっとやれ」と上がる歓声、そして、それらの乱痴気騒ぎに紛れて微かに聞こえるピアノの音色。
「……良いねぇ」
血黒の髪を夜風になびかせて、軍服風の黒衣に身を包んだ青年がフッと笑った。
黒衣の青年はその髪色から「ブラッド」と呼ばれているが、本名不詳。「ウインク一つでクソ真面目な聖女もイチコロ」なんて評されるイケメン・インキュバス。要するに下半身が本体。イケメン・フェイスはチョウチンアンコウの提灯。「同じレディと二度は寝ないぜ☆」とか普通に言っちゃうタイプなのだ。
陸でオイタが過ぎて、海の上に逃げて来たのだとか。
船べりに背を預けたブラッドが見つめる先には、甲板の中央に設置されたボロッちいピアノ。
当然のように盗品だし、すぐ側で宴の犠牲者が解体されてりするのでそこかしこに血染みがべっとり。
そんな禍々しいピアノらしく、音色も酷いものだ。まぁ、周りの怪物どもは普段から下品な笑い声や阿鼻叫喚で鼓膜が腐ってる。むしろそのピアノの音を心地好くすら思うだろう。
だが、ブラッドは違う。
彼はそのピアノの音についてはぶっちゃけ、せっかくの美顔がぶちゃいくになってしまうくらい嫌いだ。
しかし、今、ブラッドの表情は心地好さげな微笑。
ブラッドが今、聴いているのは――【彼女】の歌声だ。
小さな、必要最低限の動きでピアノの鍵盤を押す少女。
白骨の様な色合いの長髪。血の気を感じさせない白すぎる肌。白目の無い深い瞳。
不思議な声を持つ『セイレーン』という海の怪異、らしい。
この船に乗る何名かのセイレーンと区別するため『微かな波音』と呼ばれている。
彼女は今、自身の演奏に合わせて楽し気に歌っている。
その歌が、声として鼓膜を揺らす事は無い。
素人には、ボロピアノの奏でる不愉快な音色のみが聞こえるだけ。
その歌が、声として空気を揺らす事は無い。
ただただ周囲の水面に微かな波を起こすだけ。
普通に聴けば、声としては認識されないもの。
ただの音波。
そう、無粋な評価を下すのは簡単だ。
その評価を下す事に感性は必要無いから。
ブラッドは確かに感じている……彼女の美しい無声を。
「あー……良い歌声だ。リップル。今日も最の高」
「そーか? おれにゃあピアノの音しか聞こえないぞ」
……ガキとは無粋な物だ。
傍らで略奪品の小鳥を踊り食いする少年の感想に、ブラッドは溜息を吐いた。
少年はボーイと呼ばれている。少し前にゴーストシップが襲撃した船から略奪した奴隷だ。今ではゴーストシップのマスコットキャラ……だろうか。食う所が少な過ぎて放置されている内に馴染んでしまった。今ではしっかり健康的な肉付きだが、船員の怪物どもはすっかりこの子を食糧として見なくなった。
「やれやれ……まぁ、ボーイもオトナになりゃあ分かるかもだよ」
本来、セイレーンの歌と言うのは怪物ですら昏倒させる強烈なものらしいが……微かな波音と称されるほどに、リップルは声が控えめ。だから程よく脳を揺さぶられ、心地好く感じるのかも知れない。
ブラッドは船べりに頬杖を突いて彼女の歌を楽しみながら、軽く鼻歌を乗せてみる。
「是非とも俺のベッドの上で歌って欲しいもんだ」
「ブラッドってさぁ。イケメンだのにリップルたちは全然、相手にしてくれないよな」
「相手にされないどころか蹴り倒された事もあるよ……ま、それも燃える要因のひとつだ。これまた子供にはわからないだろうけど」
ブラッドはかつてリップルにしつこく言い寄り過ぎて、ドロップキックをお見舞いされた事がある。
他にもヴァンパイア堕ちした女騎士のクッコロには死なない程度に斬り刻まれ、呪を極めた亡霊女王キャルメラには強烈な呪術で昏倒させられた。
どれだけ口説いても、決してなびかない……この船には、そんなレディがたくさんいる。
移り気なブラッドがゴーストシップに乗り続けている理由のひとつがそれだ。
「臆面なく言おう。俺の当面の目標は、この船のレディ全員を食う事だ」
「食う? ゴーストとかゾンビっておいしいのか?」
ボリボリと小鳥の骨を噛み砕きながら、ちょっと興味有りげにボーイが問う。
「……これもまた、子供にはわからない、か」
「なぁなぁ、どうなんだよブラッド? ゴーストって美味いのか?」
「試してみればいいだろ。丁度イイのがそこにいる」
「おう!」
通りかかったゴーストのマイケルに襲いかかるボーイを放って、ブラッドは意識を歌に戻す。
レディを惚れさせる事はあれど、決して惚れないブラッド。
そんな彼を魅了する、不思議な無声。
…………全員を食う、か。
ブラッドの女癖の悪さは、満たされない何かが根底にある。
きっとそれを、世間は『愛情』と言うのだろう。
……俺の中には、愛が足りない。
自覚したブラッドは、それを満たすだけの愛情を与えてくれるレディを探している。
積み上げれば霧の向こうで煌くあの星にまで届きそうな程、多くの女性に愛されてきたブラッド。
今もなお、彼の胸の内は満たされていない。空虚なままだ。
でも、ある一時だけ、彼の心は満たされる。
それが今、彼女の無声に耳を傾けている、この瞬間。
何故かはわからない。
彼はまだ、気付いていない。
彼はひとつ、勘違いをしている。
確かに、彼に足りない、彼の胸の隙間に収まるのは『愛』と呼ばれる物だ。
だがそれは、注がれる愛では無い。
彼は、彼女の歌に惚れている。この歌を愛している。
だから、彼女の歌を聞いている時だけは、満たされる。
自らの内から溢れる愛情で、満たされる。
彼の空虚が求めているのは、自分に愛情をくれる相手では無い。
自らの内に愛情を溢れさせてくれる相手なのだ。
その事に、彼は気付いていない。
この満足感は何か、気にはなる。熟考しようとも思う。
でも、しない。
そんな事を考えるよりも、今はこの歌を楽しんでいたい。
そして今夜も、歌が終わる。
「…………」
胸にまた、穴が空いた様な感覚が戻る。
「やれやれ」
また、彼女が気まぐれに歌ってくれる日を焦がれる生活が始まる。
それも、良いだろう。
良い酒というのは、たまにしか飲めないから美味いんだ。
かぷっ。
「……痛いわ」
「……美味しくない」
歌い終えたリップルの足に軽く噛み付いたボーイ。
咀嚼する前にマイケルに逃げられ、代わりのゴーストはいないかと探し回るも見当たらず、楽しそうに歌っているリップルに噛み付くのはどうだろうかと迷っていた。
そんな頃合に丁度リップルが歌い終わったので、ちょこっと味見してみた訳だ。
「ブラッドの嘘つき」
「……そう、よくわからないけど……ブラッドが差金なのね?」
海を眺めて夜風を感じているブラッドの背を睨みつけ、リップルは静かに立ち上がった。
「ん?」
熱烈な視線にブラッドは振り返る。
リップルが、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
「お、何だ何だ?」
珍しい事もある物だ。
今までどれだけ口説き倒しても無視か「……うるさいわ」の一蹴。
しつこく言い寄りすぎるとドロップキックで海に落とされるなんて事もあったのに。
向こうから来るなんて、本当に珍しい。
「どうしたんだいリップルちゃん、やっと俺の…」
直後、リップル渾身のドロップキックを受け、ブラッドは夜の海へと投げ出された。
「うごぇ!? ど、どういう事ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…」
ジャッパーン、とブラッドの落下音が響く。
「……ボーイ。ブラッドはダメなオトナだから……彼の話を間に受けてはダメ。今度、噛み付いてきたら……蹴る」
「う、うん、わかった……っていうかブラッド、大丈夫かな?」
「……大丈夫……初めての事じゃない……」
「そ、そうなんだ……」
誰かに無闇やたらと噛み付いてはいけない。
ブラッドという犠牲を払い、ボーイはひとつ賢くなった。