透ける空、君の色
『仙道企画その1』
音源イメージはショートバージョンです。
ジリジリと、セミが夏を謳歌する。
遠く澄んだ青。大きな入道雲が、遠い青を目指して背伸びする。
髪をほんのり揺らす程度の風は、学校の屋上の扉を開けると一瞬だけ、前髪をかき上げるほどに強いものとなって。
ひらけた視界、降り注ぐ日差しに、自然と目が細まる。
フェンスにもたれて立つ彼女の背に、俺は近づいた。
「こら。サボるな」
そう声をかけると、彼女はきみどり色の棒を咥えたままに振り返った。
棒の先からふんわりとしゃぼん玉が離れて、空に流される。
「なんだ、バレちゃった」
彼女はきみどり色の棒を口から離し、手のひらに収まるピンク色の容器にトン、と入れた。
たっぷりとしゃぼん液をつけ、再び口に咥えて大きく吹き出す。
笛がかすれて鳴ったような音を立てて、小さくたくさんのしゃぼん玉が空へと浮かび上がった。
「仮にも生徒会長が、しゃぼん玉なんて持ってくるなよ」
「いいじゃん。夏休みだもん」
「部活や補講で登校してる生徒はたくさんいるんだぞ」
「癒しだよ、癒し。しゃぼん玉見て、みんな頑張れーって応援してるの」
「適当なことを」
彼女の隣に、同じようにもたれて立つ。
汗ばんだシャツの中を、ほんの少しだけ冷たい風が通り過ぎていく。
流れる彼女の髪から、わずかに花の香りが流れてきた。
しゃぼん玉を吹き出す彼女の頰がぷっくり膨れていて、つい、見つめてしまった。
風にのって舞い上がるしゃぼん玉を透かして、彼女は空の青さに目を細める。
「……遠いなぁ」
「何が?」
「空」
「遠いね」
「うん。遠い」
そう言って、彼女はまたしゃぼん玉を吹き出した。
かすれた笛のような音。
勢いよく吹きすぎなんだろうな。小さな小さなしゃぼん玉が、屋上から空へと旅立つ。
そして瞬く間にぷちぷちと弾けて消え、彼女は「届かないなぁ」とつぶやいた。
「そんなんじゃ届かないでしょ」
「そうだよねぇ」
「届ける気あんの?」
「んー……」
しゃぼん玉を吹くのを一旦やめて、彼女は空を仰ぐ。
遠く青。入道雲が少しずつ形を変えて、近づいてくる。
ふ、と目尻を和らげた彼女は柔らかに頬を染めて、空から目をそらす。
俺を見て、迷いなく笑った。
「迷ってる」
流れる風が冷たく、湿り気を含んだ。
❇︎❇︎❇︎
生徒会の仕事は多い。
会長である彼女はのんびりと、副会長である俺に急かされながら日のノルマをこなす。
仕事ぶりでいえば俺の方が上だ。
それでも彼女の方が『生徒会長』に選ばれたのは、ひとえに人望の厚さが理由だった。
のほほんとした彼女の周りにはいつも人が集まる。集まりたくなる空気がある。
それでいて飄々ともしているから、たまに掴めない。
それがまた、人を惹きつける。
彼女に惹きつけられない人などいないのだろうと、そう思っていた。
「……ん」
彼女に今日のノルマを終わらせ、お開きになった生徒会室。
窓際に残されたピンク色の容器ときみどり色の棒に気が付いた。
「置いてくなよ……」
水滴のつく窓を開けた。
少し前に帰った彼女は校舎から出たばかりで、傘をさして歩く姿をここから確認できた。
声をかけようと大きく息を吸って、雨の匂いを感じる。湿った空気がひんやりとする。
俺は口を閉ざし、彼女の後ろ姿を見送った。
彼女ごしに見える空は、すでに雨雲を払って日差しが漏れていた。
遠かった青が、さらに遠く見えた。
「迷ってる、か」
ピンクの容器のフタを開けた。
きみどり色の棒をさし、しゃぼん液をたっぷりとつけた。
ふぅーと、優しく吹く。
虹色を揺らすしゃぼん玉は大きく、だんだん大きく、やがて離れた。
小雨の中を緩やかに落ちていく。
「人気者の君でも手が届かないって、どんな奴?」
もう一度しゃぼん液をつける。
トン、トン、と遠慮なく、さっきよりもたっぷりと。
今度は、強く吹く。
かすれた笛のような音が鳴り、小さなしゃぼん玉が勢いよく飛び出した。
ぷちぷちと弾けることなく、小雨の中を泳ぐ。
「告白すら迷うって、どれほどの男なの?」
トン、と雑に。
それでもしゃぼん液はしっかりと付き、ため息混じりの俺の吹き出しに、ほどよい大きさのしゃぼん玉がふんわりと浮かび上がった。
彼女の後を追うように、ふわふわと流れて。
透ける空は、遠く遠く、夏の紺碧色。
「…………俺も、遠いわ……」
小雨の中をふわふわとさまよう。
届ける気もなく、届く気もせず、俺の気持ちそのもののような。
遠く青を映して、さまようだけさまよったしゃぼん玉は、ぱちんと弾けた。
呆気ない終わりに、虚しさが残って。
「遠いなぁ…………」
知りたくもなかった、彼女への距離を知る。