7
「フレイ……」
返すように名を呼べば、頬に手が触れる。
「やっとお前に触れられるな」
私を見て細められた瞳。柔らかで穏やかな黒に。図々しくも懇願する。
私のせいでねじ曲げてしまった人達の次を。
「その者達の魂はこの世界が戻るまで私の元へ留めよう」
これでスルトもいつかの、その先で、
ノルンに出会える未来にたどり着ける。
そして続けるように降った言葉は。
「お前が幸せであることが私の幸せだ」
――私の半身。
溢れた涙は男の手のひらへと消えて。
「だから罪とわかっていてもそれを止めなかったのは私のせいでもある」
寄せた額と間近になった瞳。その奥の微かな傷。
フレイはラーウに、私の罪でエゴだと言った。それがそのままの意味。
「……それで、お前はどの幸せを望む」
促す眼差しは光に跳ね傷を隠す。
「私は……っ、……私は…。ラーウとしてここで、この世界で、母さんの側で暮らしたい」
そこにはキリアンもアルブスも、そして彼も――、カイディルいる。
「そして、いつか来る終わりに――。フレイ、貴方の元に戻りたい」
何処までも、何処までも。最後まで。
そう――、私は彼から別れた半身。繋がりは完全には消えない。
「それまでは」
「―――ああ」
合わせた額から感じる温もりは、私の中へと溶けた。
フレイの手を取り立ち上がり、少し離れたところにいる同じ顔の少女を呼ぶ。
おずおずと近づくラーウ。
目の前に来た少女をぎゅっと抱きしめれば、
驚き、身を引こうとしたけれど、母さんに肩をポンポンと叩かれ抵抗は止めたようだ。
まぁ、信用がないのは仕方ないか。と苦笑が浮かぶ。
「ごめんなさい、ラーウ。 私は、貴方へと戻りたい」
「別に――、……いいんだけど」と、拗ねたような声。そして続いた言葉にやはり苦笑。
「でも、カイへの気持ちが消えるのはイヤ!」
「大丈夫――。私は貴方の無くした過去の記憶の一部となるだけだから」
「…………?」
「私の罪は私のもの。貴方に背負わすつもりはないよ」
「………そ、う」
わからない為りにも、何かを納得したのかラーウは頷き、私はフレイを見上げる。釣られてラーウも見上げ、二人の視線を受けてフレイはとても嬉しそうだ。
フレイは本当に私達を愛している。
彼の闇が私達へと広がり、包み込む寸前で慌てて駆け寄るカイディルの姿が見えた。それを母さんに止められる様子も。
大丈夫だから、安心して。
そう告げる声はもう届かないけど。
私の、たどり着く先を間違えた想いは残さないから。今度は失敗しないためにも。
深く優しい闇に身を委ね、フレイヤの意識はゆっくりと微睡みへと沈んだ。
身を、包んでいた闇が離れる。
空間を支配していたはずの黒い瘴気も光に押されるように徐々に薄くなってゆく。そのどの色よりも深く濃い闇色の男も同じく。
ラーウは男を見上げ口を開く。
「フレイ――、……またね」
想いを込めた言葉はきちんと届いたようで、怖いくらい整った顔に笑みを浮かべ、フレイの姿は霞んで消えた。
湧き起こる寂しいという感情、でも「またね」だ。その果てでまた彼には会える。
ラーウは振り返る。
背後にいた母さんが、お帰り。と口にしてわたしの頭を撫でた。いつの間にか、見慣れた森へと戻って来ていたようだ。
見慣れたといっても、その様子は見る影もない。酷く荒れた様子にエルダに向かって首を傾げれば、
「色々あったんだ……」と、遠く視線を向けたので尋ねることは避けた。うん、何となく。
そして。
「ラーウ……?」
おずおずと掛けられた声に、ラーウの心臓がびくんと跳ねる。
くるりと、方向転換をし、その声の主に顔を向けられないでいると、何しているんだ?とエルダが覗き込み小さく吹き出す。
「母さん!」
怒るラーウに一頻り笑ったエルダは、
「まぁ、頑張れ」とよくわからない声を掛け、背後にいるカイディルの肩でも叩いたのか、パシパシと音がした後に気配は離れてゆく。
しまった……。二人きりじゃないか。
「ラーウ?」と、また窺うような声。わたしの意識の在り方を、行方を確かめる為か。
ラーウは心を決め、振り向く。
先にあるのは、少し戸惑ったカイディルの顔。
ああ―――。
やはりわたしはカイディルが好きだ。
カイが、とても好きだ。
変わらない、変わりようがない。
それはわかっていたけど、振り向けなかったのは。
カイディルから伸ばされた手が頬へと届く寸前。ラーウはがばっと、今度は俯く。
( だって、恥ずかしいじゃない!! )
思いっきり告白したことを、されたことを。改めて思い出して、ただただ恥ずかしい!
誤解される行動かも知れないけれど、きっとバレてる。隠せるとは思わない、だって耳まで真っ赤なはずだから。
その通りに、伸ばされていた手がわたしの熱い耳に軽く触れ、そしてゆっくりと顔を持ち上げらる。
一瞬抵抗を試みようとして、……諦めた。
時刻は夜へと向かう時間。
深い青に染まった空と同じ瞳がラーウを見下ろす。薄暗い今ならば多少顔が赤くてもわからないかも知れないと思ったけど。カイディルの顔を見れば、完全にバレバレだ。
ラーウを見て嬉しそうに笑う。微かに甘さが滲む笑顔で。
「……反則だと思う…」
「何が?」
その声もどこか甘い。
「その、顔…。 好きな人の笑う顔とか、反則だと思う…」
一瞬見開かれた瞳が細められる。
「なら――、ラーウも笑って、俺の名を呼んでくれ」
甘い、けれど少し懇願の混じった。
ラーウはむぐっと口元を結ぶ。
この状況でそれって難しくない?
恋を始めたばかりのラーウには全てのことがハードルが高過ぎる。顔の火照りも取れていないのに。
でも、いつまでもラーウを見つめたままのカイディルに小さく息を吐き。
「何かズルい……」と呟きながらも、彼の瞳を見返して。
「あのね、カイ。わたし、カイが好きだよ」
言葉ほど笑顔は上手くいかなかったと思う。でも告げたと同時にラーウは攫われた、カイディルの腕の中へと。
「――カ、カイ!? ちょっ――、」
「このままで――……っ」
耳元に響いた掠れた声は、ラーウの抵抗を止めた。
そもそも抵抗の必要などないではないか。この腕の中はわたしにとっては一番の場所なのだから。
ラーウは瞳を閉じる。
聞こえるのはとくんとくんと刻む、カイディルの心音。心地よい音。
母さんのこともそうだが、全てが、何もかもが解決したわけではない。
わたしの時はもう止まることはないけれど、カイディルとの間に流れる時間は同じではない。
この規則正しく刻む音は、確実にわたしよりも早く止まるだろう。
ラーウはカイディルに閉じ込められていた腕を外し、その背へと回す。さらに隙間のなくなった二人の体は同じ熱を育む。
何れ訪れる別れは、ラーウを悲しみの底へと、打ちのめされ立ち上がれない絶望の淵へと沈めるかもしれない。
けどもう間違えはしない。
この世界がある限りまた会える。
それがいつかわからなくても、必ず会える。
もう歪めることはない。
微かに離された体に上を見上げる。額に、優しく落とされた唇。
それは目尻に、鼻先に、そして唇に。
ラーウは直ぐに限界がきて、更に赤くなっただろう顔をまたカイディルの胸に押し付ける。
上から降る笑いを堪える声に、背に回した手で抗議するように叩けば、再び強く抱き締められた。
「俺もラーウが好きだ」
その先もずっと。
その言葉は約束。全ての終わりまで続く。
「―――っ、………うん…っ!」
ラーウは埋めた胸の中、見えはしないけれど、ありったけの笑顔で返事を返した。
そして。
急に下がった気温と季節外れの雹。慌てたように叫ぶ男の声と、もふっとした毛並みに押し潰されラーウが抗議の声を上げるまで。
抱き締め合う恋人達が、二人が――、
互いに離れることはなかった。
引き続き最終話アップします。




