章幕「君がいる美しい世界」
エルダもまた厄介なものを。と、スルトは目にした小さき命に対して思った。
そして必死に泣き叫ぶ声が自分を視界に入れてもまだ続くようなら、その力をもって無理にでも口を閉ざせて貰おうとも考えた。
なのに―――。
赤子は泣くのを止め、涙を貯めたままの瞳でキョトンとこちらを眺めると、何故かきゃっきゃと小さな手を合わせ笑った。
人間を奴隷のように扱う同種の者もいる。だけど本来付かず離れず、深く関わらないのが鉄則。
それを破りエルダは赤子をノルンと名付け受け入れた。
人の成長は早い。赤子は瞬く間に変化した。
巡り来る四季を愛し、日々の移ろいを楽しみ、美しい女性へと変わるノルンの姿は、閉じた世界に生きる自分にとっては目を見張るものであった。
春の柔らかな陽射しの中、薄いピンクの花びらを髪に絡ませ、はにかんで笑い。
夏の緑深い木陰で気持ちよさそうに眠る睫毛に落ちる影。
秋の黄金に輝く森で、それを映す湖水を眺める、同じ色に輝く瞳。
冬の身を切るような冷たさに暖を取ろうと指先に白い息を吐く、その赤くなった頬。
ただ過ぎ行くだけだった季節は、ノルンと共にスルトの中で色づき、意味のあるものへと変化した。惹かれるのは必然であったのだと思う。
何となく生きて来た日々はノルンの為に割くようになり、それを眺めていたエルダは、「ミイラ取りが――」とはよく言ったものだと呆れたように笑った。
だけどそんな日々は突然終わった。
二人がたまたま家を開けていた時だった。
その日偶然、暴動が勃発した。不穏な空気など一切なかったと言うのに。
つい先日まで側にあった暖かい温もりは、冷たく乾いた赤黒い汚れにまみれ、他の遺体と共に道端の片隅へと放置されていた。
それはまるで現実感を伴わず、ただそこにある物のように。
何かが自分の中で弾け飛んだ。
気付いた時は辺り一面が業火の渦の中にあり、エルダの声が遠く聞こえた。
何か言っているのは分かるがそれを言葉として捉えられず、不意に感じた腕の中の冷たさに、それをもたらすものがノルンの体であることを思い出す。
……二度と戻ることのない。
そうだ。二度と戻ることなどない。
あの美しかった季節は、日々は、ノルンは、
消え去ったのだと。
再び色を無くした世界は、少しずつ狂っていく。
あの暴動はかの国の継承権を持つノルンを無きものにする為に起こされたのだと知ったのは遥か後のこと。
その国も、既に一人の魔女によって壊滅したのだということも。
でももうどうでもいいことだ。
ゆらゆらと揺らぐ柔らかな光の中にノルンはいる。
そして彼女の瞳を通して見る世界はやはり美しく。その体を抱きしめる為には偽りであろうと構わなかった。
……そう、偽りなのに。
なのに君は、やはり美しい世界を見たいと望む。
七色に輝くオーロラの下で息を止めて見入る君は。
容以外の全てを失なった君に一度は離れたけれども、消されようとした命に衝動的に体が動いていた。
共に終ろうという誘いは優しい毒。
だがまだ君と美しいものを見ていたというのもまた、甘美な夢の続き。
押し退けようとする腕を封じ閉じ込める。
どちらの選択もそれは真実。
だから、まだもう少し―――。




