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一番新しい表層の意識、ラーウが空へと消えてから暫くして。馴染みのある気配を感じノルンは再び瞳を開けた。
そして直ぐに、自分を包んでいたはずの腕がないことに気付き眉をひそめる。スルトがノルンを一人にすることなど今までなかったから。
( まさか…、スルトが彼に…? )
目覚めを伴なわせた気配の他はない。
物騒な考えがちらりと頭の中をよぎったが、まぁ、それはないかと。
いくら魔力の量が膨大だとは言え、まだ、彼では本気になった魔法使いに勝てるとは思えない。ましてや私に気付かせることなくそんなことが出来るなど。
放って置くことが最善であることは承知ではあったが、表層を統べるラーウという存在が居ない今、私には培ってきた記憶だけが残る。繰り返し紡がれてきた暖かな記憶が。
それは本来ならばあり得ないことだけど。
だけどカイディルがいて、そしてラーウは出会った。きっとそれが全て。
ノルンはもう一度スルトの姿を探し視線を巡らした後 、喉の乾きを覚えて水を湛えた甕へと向かい漸く悟った。
手で掬い上げると水鏡は乱れる。
喉を潤してから小さく嘆息すると、そのまま今度は窓辺へと向かう。見えるのは相変わらずの砂の世界。姿は見えないが感じた気配は遠くはない。
ノルンは窓からフワリと地に降りた。太陽に照らされた砂はまだ早朝だと言うのに、既に焼けるように熱い。その上を裸足のまま歩く。
薄い布地から伸びた白い――、透けるように白い足が焼けることはなく。躊躇いなく進めていた歩みは、でも不意に止まる。
太陽に向かい見上げる。掲げた手の隙間から陽光を背に徐々に近づく黒い影は馴染みある気配。
逆光の眩しさの中からやっと逸脱した彼は、ノルンから少し離れた地に浮かんだままこちらを見下ろして。その顔に浮かぶのは――。
「――キリアン」
ノルンは微かな苦笑を滲ませ彼へと声を掛けた。
見上げた先にいるのは暗い色を持つエルフの青年。助けた幼い命は、小さき手はいつの間にか私を包む温かく大きなものへと変わり。エルダやアルブスとは違う、彼が私に向ける感情は、それを端に発しただけのものと言うには酷く重く。ただ真っ直ぐで、それ故に歪む。
キリアンもまた、積み重ねてきた想いに狂わされた者。
そんな彼の名を呼べば、元から怪訝と微かな驚きに支配されていたダークブラウンの瞳はゆっくりと見開かれた。
「母さんは森にいるの?」
エルダではなくキリアンがここに来たことでそう尋ねるが、まだ宙に留まるキリアンは沈黙を落としたまま。
「……やっぱり…怒ってるよね?」
状況から考えればそれは必然で。若干沈んだ声で尋ねれば、キリアンは地へと降り足早にこちらへと近付き目の前で足を止めた。
「…………―――ラーウ…?」
伸ばされた腕が、私の肩で揺れる白い髪を一房掬う。キリアンのダークブラウンの瞳と見つめ合うのは、薄いグレーの2対の瞳。
そう、今の私にはノルンであった時の色素はひとつもない。顔も体もそのままであるが、髪は白、両の瞳は薄いグレー、ラーウである色。
いや――、正確にはフレイヤである色。
スルトが、私を置いて姿を消したのはきっとそのせい。
「私だけど、わたしじゃない。って感じ?
そしてこの体の名はノルンって言うんだけど…」
これ以上どう説明すべきかと困ったように見上げれば、見下ろすキリアンも複雑な表情で。
その理由は理解している。
「キリアンは………、ノルンを殺しに来たんでしょ」
もはやノルンとは言い難いが、作られた体はそうであるので、やはり私はまだノルンだ。
だけどキリアンはその中にあるラーウを取り戻しに来たはずで。簡単で手っ取り早い解決、それは器を壊すこと。
スルトが消えた今、私がこの体に固執する必要はない。母さんに一度会わせてあげたかったが、それも要らぬお世話だろう。
エルダの中のノルンは、きっと思い出の中に綺麗に昇華されているはずだから。
( ……母さんはそういう人だ )
私が犯した罪に一番深く巻き込んだ魔女。私が真実を話しても、叱られはすれども最後は受け入れてくれるはず、だ―――。
ノルンは俯く。口の端に浮かぶ自嘲。
( ………………本当は、そう思いたいだけ…… )
私の罪は重い。沢山の人を巻き込んだ。それは目の前のキリアンも。
再び上げた瞳に映るキリアンは先ほどから表情は変わらない。迷いと葛藤に蝕まれた瞳が揺れる。
「ラーウを……、…俺が……?」
そうであるはずで、その為に来たはずなのに。
形にされた言葉に、キリアンはあり得ないと首を振る。
「ラーウとしての記憶があるのに、俺がそんなこと出来るはずがないだろ…」
「だよね…」
普通に私だと話している時点で、キリアンならそうなるだろうとはわかっていたけど。
誰よりも誰よりも、母さんよりも私に甘いキリアン。培ってきた記憶全て見れば直ぐに分かる。彼が私をとても大切に想っていることなど。
誰もが、誰かを想う。だからと言って、その想いが自分へと返るとは限らない。ラーウはやはりカイディルを好きになり、キリアンの想いが報われることない。
「――うん、仕方ない」
今でさえ苦悶の表情を浮かべているキリアンに更に苦痛を与えるのも酷だ。
「ラーウ?」
呟いたノルンにキリアンが問かける。
「この体って大半が魔力によって出来てるみたいで、今の私は力が使えるの。凄いよね」
急な話の展開に、脈絡がわからないままでも何故か少し不満そうに顔をしかめるキリアン。
「……………力なんて、いらないだろ」
「そう? でも便利だよ。 だから後は自分で始末は着けるね」
「は? ……それは…、」
その話の流れにキリアンは微かに目を見張る。そして指先を鋭い刃へと変化させ、自らの首筋へと当てたノルンを見て更に目を見開いた。
「キリアン、側に居ててね」
ノルンは眉尻を下げ言う。繰り返しの中では、終わりを迎える時にはエルダが、アルブスが、そしてキリアンが常に側に居た。
独りで迎える死ほど寂しいものはない。
だけど相変わらず驚いた表情のままのキリアン。それはこの行為がラーウらしからぬものだからか。
ラーウは命を軽んじることを是とはしない。だけど今の私にそんな感傷はない。きっとそれはフレイヤに近い。
生を司るもの。無数の命を生み出すもの。
この命も膨大な生命の渦の中のひとつでしかない。そしてフレイの手で、幾つかは流れに戻り、幾つかは無へと還る。ただそれだけのこと。
キリアンは何か言おうとして口を開けたが、結局それは音には鳴らずに。俯けられてしまった顔からは表情も読めない。
暫しの沈黙の後、顔を上げたキリアンは「わかった」と告げる。
「大丈夫、側に居るよ。いつでも、いつまでも。
君の望む限り…望まなくとも、俺は側でラーウを見送る」
どこか壊れそうな、脆く透明な笑みを湛えた。それは彼の本心からの告白。




