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命の源である水は枯れ人は去り、朽ちて砂に還るのを待つだけの忘れられた砂漠の街。
そのまだ形を留める建物の一室。
微睡みの中から覚めれば、まだ自分を捉えている暖かい腕。起こさないようにスルトのその腕の中から抜け出すと、ノルンは外が見える窓へと向かう。
まだ夜が明ける前の、だが空は漆黒からは色を変え深く青い夜空に浮かぶ細い月。もう一刻もすれば砂漠の地平線は赤く色付き出すそんな時刻。
吐く息はまだ微かに白い。だけど日が昇ればそんなことも忘れる程のまた灼熱の世界へと変わるだろう。
窓に寄り掛かり、合わせた手に息を吐き空を見上げる。体感的な温度、寒さや暑さなどは簡単に調整出来るが、この静寂の中の冷たさが好きなのだ。
見上げた空には薄くなりゆく二日月。それを囲むのは紺碧の空、見覚えのある色。
指先をスッと上げると、小さな球体がその先に現れる。今の空と同じ色の藍晶石。そして思い出すのはヒルトゥールでノルンが逃がした彼。
カイディルと言った、彼のその瞳と同じ――。
聴こえた微かな吐息と自分を呼ぶ声に、ノルンはスルトの元へ。
「もう、起きるのか……?」
まだ横になったままのスルトの、自らの視界を覆う手の下から漏れる少し掠れた声。真夜中の花を探す散歩からは幾ばくも経ってはいない。
「ううん、まだ早いよ」と伝えれば、伸ばされた腕に絡みとられて。存在の有無を確かと感じられるようにか、また胸の中に閉じ込められる。そして耳元に聞こえる小さな声はいつもとおなじ言葉。
「……ここにいるよ」
ノルンは囁くように答える。定期的に交わされる言葉はもはや合い言葉のように。
わたしがノルンであると、スルト自身が信じこもうとする為に。
だけどスルトももうわかっている。
わたしがノルンでないと知ってることを。そしてこの茶番劇の虚しさを。
だけどスルトがそれを終えることはきっと出来ない。自分の愛する者の存在を自分自身が否定することなど。
憐れで可哀想な魔法使い。
愛した人間はフレイの元へと、優しく暖かい混沌の闇へと還った。全てを忘れ、いずれまた新たな命の核となりこの世界に戻るだろう。
でもスルトはそこには行けない。
シナリオに記された者は死を迎えれば無へと還る。ねじ曲げた理の波紋の余波が、至るところに歪みを与えた。これもその一つ。
理をねじ曲げ私が作った台本。彼のいた世界を、起こった出来事を、影響を及ぼすであろう強き者達を忘れないように。
いつの間にかそれも失ってしまったが、これが最後なのでもう構わない。
私自身の願いの為に、私が犯した罪の代償をこの世界に負わす。繰り返す度に深くなる罪に、何れ報いをうけるだろう。
――……いや、むしろそれはもう近いのかも知れない。彼という存在が現れたということは。
ノルンである体は窓の外へと視線を向ける。
まだ太陽は昇らず空は藍晶石の色。
彼とは違う色。
姿も声も話し方も歩き方も。その眼差しも感情も。何もかもが、違う。
だけど、私が魂に無理やりつけた傷が、呪いが。彼がそうだと言っている。
けど、今は―――。
今はまだスルトに付き合おう。その抱える痛みを私はよく知っているから。
でもそんな私の、まだ新しい表層の意識が、一人納得いかないとばかりに空へと舞った。自分が一番求めている場所へ向かって。
まだ一度も終わりを迎えていない彼女にとってはこの空の色を持つ瞳の彼が全てだから。
それは仕方がないことか。と少し苦く、
そして少し羨ましく思った。
( ………あれ? )
気づけば目の前の空には細い月が見えた。それが微かに透けて見えるのは夜が明けかけているからだろうか?
その通りに、砂漠の地平線は紫と赤のグラデーションに染まっている。
( ん? 砂漠? )
( ……わたし、何でこんなとこにいるんだろう?
いや、そもそもわたしって? )
自分が誰であるかわからない。そしてなんでこんな砂漠の真ん中に立ち尽くしているのかも。
本来なら恐慌状態に陥りそうな状況なのだけど、何故かとても落ち着いている。
それは明確な目的がハッキリしているから。
誰かがわたしを呼んでいる。
声が聞こえる訳ではない。けどわたしはそこを目指さなければならないのだということ。
むしろわたし自身がそこへ行くことを望んでいる。
彼に会いたいと―――。
( ……彼? )
彼って誰だろう……?
わからないことだらけだ。
でも何にせよ、早く行かなければ。そこはまだ少し遠い。
早く!と願えば体がふわりと浮く。足元を離れた赤く染まり始めた砂漠を不思議に眺め、でもそれよりと先を急ぐ。
何もない砂の海に、疎らに見え出す緑の草木。空を映す湖面の回りに木々が繁り、それを囲うように広がる街。その外れへと降りる。
登り始めた太陽に圧され薄くなりゆく月を迎える砂の山の背に立つ人影。
その人影へとゆっくりと近づく。
背格好からは男性だとわかる。それに初めからわたしは『彼』と認識していた。
背を向けているので顔は見えないが、外したフードから赤銅色の髪が風に揺れている。
あの夜の森でもこんな風にそっと彼に近づいた。あの時はフードを被ったままだったし、直ぐに気付かれてしまったけど。
それに、あからさまな殺気まで向けられたよね。と思わず笑う。
少し強い風が吹いた。
舞い上がった砂を避ける為に反らした顔が、その細められた視線が、わたしを捉えた。
見開かれた瞳は深い深い青。わたしを見つめる美しい藍晶石。
込み上げてくるのはただ嬉しいという気持ち。
彼がいる、彼に会えた、彼がわたしを見ている。他の何もかもなどどうでも良い。わたしが誰であろうともそれさえも。
彼が――、カイがいる。それだけで。
彼の口が開く、わたしを呼ぶ。
「…………、ラーウ……?」と。




