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「――おいっ、ちょっと待て!」
ふいに捕まれた腕を振りほどこうと、
「離せ!!」と、カイディルは声を荒げる。
ネヴァン・クリオズナ。ラドラグルの皇帝。
ヒルトゥールを滅ぼした、今の自分の現状
を作り上げた男。その笑みを刻んだ顔に、思わず頭が真っ白になった。
剣を掴み駆け出そうとした。だがそんなカイディルを止めたのは――。
「少し落ち着け、人間」
場違いなほど麗しい声と、声と同じく麗しい姿。白い髪と赤い瞳の見たこともない男。
「その剣を手にどうする気だ? あの男を倒すとでも?」
その前にお前が死ぬだけだ。と、当然のことのように言う。
それはその通りだと自分でも思う。皇帝をあれだけの少人数で守る。それはそれだけの自信があること。だけどそれより。
「………お前は誰だっ…?」
自分へと当たり前のように話し掛けてきた男に、カイディルが浮かべていた怒気は少しの苛立ちと困惑に変わる。
今自分の側に人の気配などなかった。共に居たのは男と同じ色彩の狼、…であったはずだ。
でもその疑念は確信で。
「私はアルブスだ。――ああ、この姿は初めてだったな」と、
そうさらりと告げた男はカイディルの腕を外す。
確かに力ある幻獣であるフェンリルなら人型にも成れるだろう。
だがそれが今で、初めて目にして。カイディルは勢いを削がれた感を禁じ得ない。
なので一旦剣を納め、それを見たアルブスは頷き言う。
「それでいい。お前に何かあるとラーウが悲しむ」
その言葉に、それはそれで複雑な気持ちとなる。彼らは一体何を求めているのか? ただの人間でしかない自分に。
それはそのラーウに対しても。そしてそれを心地よいと感じ出している自分にも。
カイディルは小さく頭を振る。
彼らは人の理には縛られない。相容れない存在なのだ。
だから彼らには分からない、この理不尽とも取れる感情を。
「ああ、やはり。魔女殿が君達をここに?」
階段を、伴を連れゆっくりと上がって来た男の。妙に明るいその声に行き場のない怒りが再び向かうのを。
納めた剣に再び手を掛けた――。
「だから待てと言ってる!」
慌てていても麗しい声は、そんなカイディルの動きを完全に止めて。
「術を解け!!」
本来ならそんな口も聞けないだろう上位存在であるアルブスに強く叫ぶ。
「話を聞いてたか!? あの子が――、」
「うるさい!! 今はそんな話などいらない! 早く術を解け!」
ただ声を荒げるカイディル。その雰囲気に、金褐色の髪の男一人を守るべく前へと出る兵士達。その向こうでヘーゼルの瞳がカイディルを見つめ。
「――ん、なんだ? この男は私を殺したいのか?」
興味深げにそう問う男を、カイディルは兵士達を眼中から省き睨み言う。
「ネヴァン……クリオズナ、ラドラグルの皇帝!」
強い感情の込められた自分の名を呼ぶ低い声に、そんな当たり前のことを何だ?という顔を向けた皇帝は、カイディルをマジマジと眺めた後、
「ああ――、そうか…。君はヒルトゥールの…」
なるほどな。と小さく頷く。
その言葉がカイディルの怒りを煽る。
「お前が…っ! ……ヒルトゥールの名を口にするな!」
例え遠ざけられていたとはいえ、その国の立場ある一人であった者として征服者である男の口から征服された自国の名が語られるのは聞きたくなかった。
だけど男は淡々と告げる。
「全ては受諾されたよ。ヒルトゥールはもう無い」
「…………っ! それも全部お前のせいではないか!」
「………私のせい…?」
と、不思議そうな顔。
ネヴァンは囲む兵士達に手を上げ横へと引かせると、黒を纏う男だけを傍らに置いたままカイディルに近付く。
戸惑う兵士達を余所に、アルブスがカイディルの拘束を解くことがないと分かっているのか、皇帝はギリギリと睨み付けるカイディルに自ずと向き合うと、「勝手なことを言うね」と微かに笑った。
「確かに。最初の原因は私かも知れない。でもその先の経過など私とは関係ないと思うが?」
「その最初だけで充分だろうっ! 他に何が必要だ!」
カイディルの言葉を聞き、何故かひどく詰まらなそうな顔をして、
「ふん……、なるほどね。そこを運命と諦めたか…」
ネヴァンは踊り場の片隅に乱雑に置かれていた木箱をひとつ取り上げるとそこへと座る。
「何を、言ってる…っ!」
皇帝であるはずの男が、とても皇帝らしからぬ場所に腰かけている。だけどもこの男はラドラグルの皇帝であると分かる。飾り付けられた玉座でなくとも。
細められたヘーゼルの瞳が静かにカイディルを見る。
「マクシムは…お前の父親は自ら死を選んだよ」
「…………………は?」
「自分の望まなかった運命に、それでも抗おうとして歪んで行った男は、でも最後を選んだ。
そしてミネリアも。自分が出来るの中の最良を選ぼうとしていた」
「何を急に……」
( この男は何を言っているのだ? )
カイディルは僅かに目を開き戸惑う。
父親が死んだと。それは何れそうなるだろうとは思っていたが、自害したと?
そして何故ミネリアの話が出てくるのか?
( 父親が……、死んだ… )
心の中で改めて繰り返す。だけどもその事柄が大して自分の心に痛みを与えないことに、ある意味胸が痛む。
カイディルは顔を歪め、ネヴァンは続ける。
「――では君は?
今の自分が置かれている状況を全てこの私のせいだと決めて楽になりたい?
国を建て直せる立場であったのに、彼女を救う手立てだってあったのに、諦めて逃げて。
………今更、矛先を私に向けるのか?」
呆れたように言う。
「――――っ!!」
全く、男の言う通りだった。反論さえも浮かばない程に。それは先ほど自分自身も痛恨していたこと。
「だがっ! お前が滅ぼしたという事実は変わらない! ラドラグルの介入がなければ全てが上手く進んでいたはずだ!」
―――本当に?
―――本当にそうなのか?
無理やり絞り出した言い訳のような答えに、疑問を投げ掛けたのは自分。
皇帝は否定することなく頷く。
「そうだね、全てが終わった後にはそういうことになるだろうね。私は非情な征服者である、それは確かに事実でその通りだよ。後半に関しては……まぁ、今は良いとしようか」
「………っ」
「ではまた聞くが、君はこれから何を選ぶ?
私を殺してそれで君は満足するのか? 国を奪った者を葬った、仇を討ったと?
だが人の営みは導く者が変わろうと留まることはない。私が死のうと君の国はもう無く、だけど人はまた新たな国で新たな生活を送る。そして君がここで私に手を掛ければ、周りの彼らが黙ってないだろうね。君も命を落とす」
「それはっ……!」
「―――本望だ。とでも?」
ネヴァンは背を反らし、座る自分より高い位置にいるはずのカイディルを見下ろすように眺める。
「全く無意味な死だ。自分の矜持を守る為の自己満足であるのならそれに殉ずるのも悪くないかもしれない」
愚かで馬鹿らしいことではあるが。と、皇帝は肩を竦め、「君は、中途半端なんだよ」とため息と共に言う。
「君はもう捨てたのだ、良かろうと悪かろうと。そこに何故また縛られようとする?
何故その先を選ばない?
……君のその行為はもはや何の意味もないんだよ」
ただ淡々と、淡々と告げ。
「一部の大義を掲げる者達は君を象徴として担ごうとするかもしれないが。
カイディル………君、権力など必要ないと思ってるでしょ?」
「!!―――…それは……。
……重い…枷でしかないから」
思わず漏れた本音に、「枷かー…、枷ね…」と男は苦笑する。
「後顧の憂いを断つとは言うけど、帝国としては…まぁ私としてはこれ以上君に関わることはないよ。君が生きようと死のうと構わないと思ってる」
ああ、象徴となるのだけは出来ればやめてくれ、面倒くさいから。と、ラドラグルの皇帝は言う。
「その上で尋ねたいのだけど?」
男のヘーゼルの瞳に浮かぶのは興味。
「全てを失い何もかも無くした君は、
それで、何を望み何を選ぶ?」
カイディルの全身から力が抜けた。アルブスの拘束も今なら解かれているのかも知れない。けど確かめる気概は最早なく。
力なくダラリと落ちた腕と、足元へと落とした視線。俯くカイディルからは、ネヴァンの問いに対する答えが返ることはなかった。




