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「10年も掛かってしまったわ」
「………? 上々ではないか?」
「ああ…、あなた方の時間の流れではそれさえも一時なのね」
ミネリアの微かに皮肉を込めた声。
カイディルは闇へと身を潜め時を待つ。
「で、帝国はいつ動くの?」
「さあ――、国として動くのだとしたら直ぐには無理だろうね」
「そう……」
カチャリと音が聞こえ、バルコニーへと出て来たミネリア。腰まで届く艶やかな白銀の髪が月明かりに美しく映える。
長い睫毛に縁取られた緑の瞳が街を見下ろし、遠く祭の喧騒に目を細める。そして――、
「さっさと滅べばいい、こんな国」
憎しみの込められた低く静かな声。
「――全部…」
脆く美しく玻璃が砕け散るような。
その言葉にカイディルはぐっと拳を握る。――が、直ぐにそれを解く。
姿を見る度、声を聞く度、胸の奥が燻るが、
まだだ。まだ、今ではない。
まぁ、時間のうちだ。と部屋の中の魔女は言う。
「その時間の概念が既に当てにならないのだけど」
ミネリアの苛立ちにふふっと笑う少女の声。
姿もその声も十代くらいだろう少女のもの。だけど魔女は魔女だ。いつか見たこの魔女は、色彩そのままに男の姿であった時もある。
ただ、左右色の違う瞳の横にホクロを持つのは、少女の姿の時だけだったが。
その少女である魔女もバルコニーの入り口へと姿を現す。魔女としては珍しく肩先で切り揃えられた黒い髪揺らして。
繊細にして整ったその顔。魔女は総じて見目が良い。
小さな顔の横で揺れる髪の長さは、色は違えど初めて見た時のミネリアを思い出させた。
銀の髪を揺らしカイディルを見て微笑んだ、美しい少女。曇りなく向けられる輝くような笑顔を。
( …………っ! )
カイディルは思わず目を瞑り小さく頭を振る。
そう――、失った物はもう戻らない。
ゆっくりと、再び開けた視線の先には、魔女へと振り向いたミネリア。
少し大人になったその顔には、もうあの時の輝くような明るさはない。夜空にただひとつ浮かぶ、寂しく冷たい月のように静かに佇む。
「あなたが、手を下すのではないの?」
( ――!! )
思わず、自分に突き付けられた言葉かと思い、カイディルは驚く。
が、そのはずなく。話の続きは魔女が引き継ぐ。
「――わたしが?」
「その方が目的の為には早いのでしょう?」
「ははっ、どうしても急がせたいみたいだね。でもわたしは動かないよ、国も人間も興味はない。
ああ――でも、君は少し…に似ているから、興味はあるよ」
魔女は可笑しげに、そして囁くように言う。
ミネリアは少し声を落として。
「……あの、森に何があるというの…? あそこは恐ろしい所でしょ?」
「ふふ…、そうだよ。恐ろしく、そして美しい魔女がいる」
思い出すように魔女はうっとりと目を細める。
「だけど彼女は怖い人だからねぇ、たとえ手に入れたいものがそこにあっても迂闊には手を出せない。犠牲になってもらう者が沢山いてもらわないと」
「それで、兵を? でも余計混乱するのでは?」
「混乱こそ重畳だよ。この国の人ほど、帝国の人間は森について知らないからねー。どんどん瘴気を浴びて混乱して貰わなくては、彼女の目は逸らせない」
くつくつと魔女は可笑しそうに笑う。
「……楽しそうね…」
何故か段々と饒舌になってゆく魔女に、
少し距離を置いたミネリアの言葉を、でも魔女は気にすることなく。
「ああ、楽しいよ。この身体は見るもの全てが楽しい。だから早く魔力を集めないと」
「………?」
「ふふ。いいよ、分からなくても。
君は気に入っているけど、やはりただの駒でしかないもの」
「こま………?」と少し首を傾げたミネリア。でも直ぐに理解したのか自嘲の笑みを浮かべる。
「………そう、駒ね。確かにその通りね…」
「でも、気に入っているのは確かだよ?
だから、ほら。君にプレゼントだ」
その声に――、ふいにぐいっと、身体が引き寄せられた。
バルコニーの死角に隠れていたカイディルは、油断していたせいか転ぶように二人の前へと引きずり出される。
目を見張るミネリア。
カイディルは小さく舌打ちをして、素早く剣へと手を掛けるが、魔女がそれを許すはずもなく。
剣は弾かれ、身体は見えない力に寄って持ち上げられた。
「くっ………!」
そして首を締め付けるのもまた、見えない力。ギリギリと締め付けられる。
それを行使した魔女は、カイディルの目の前へとゆっくりと歩いてくると、
「やあ、カイディル様。ご機嫌よう。
物騒なもの持ってるよね? どうするつもりなの、これ?」と、
弾かれ飛んだ剣は鞘から抜かれ、抜き身となった剣がカイディルの喉元に突き当てられた。
締め上げられているので声も出せない。カイディルはただ魔女見下ろし睨む。
黒と金の瞳がカイディルを見つめて、全てを見透かすような瞳が怪訝に曇った。
「前から感じてたけど、君少し変だよね。何だろう? 殺してから調べる? もうどうせ公子なんていらないし……」
「やめて!!」
「………ん?」
急に割って入ったその声に魔女の視線が逸れる。それはカイディルも同じく。
「やめて、彼を離して」
声を出せないカイディルの代わりか、それを発したのはミネリア。
「何で? 明らかに彼は君を殺そうとしてたけど?」
愉しげな笑みを浮かべた魔女。
「だとしても!」
カイディルはまだ魔女の拘束に縛られたまま、ただミネリアを見る。だが、こちらを見ない彼女との視線は会うことはない。
ミネリアは魔女から視線を逸らすことなく。
「構わないから…、彼を離して」
魔女はますます笑みを深くする。
「そう…、結局はそれが君の望みなの…?」
「…………」
ミネリアは黙る。
拘束は急に解かれた。
地に落ちて、膝を付き噎せるカイディルは、側に来た爪先に気付き顔を上げた。
月を背負いこちらを見下ろす緑の瞳。
「…………何故…」
掠れる声で尋ねるカイディルに、ミネリアは笑う。
「何故――?」
それはやはり昔とは違う、陰りのある笑み。
「………何故かしら…、」
ミネリアはカイディルを静かに見つめて、ゆっくりと笑みを消した。
「そうね、ここであなたに死なれては折角の舞台が台無しになるからじゃないかしら」
唄うように告げられた言葉を、理解する前に身体は動いた。足元に落ちていた剣を直ぐ様拾うと、ミネリアへと向かう。
彼女はただ静かにカイディルを見つめ、その身に剣先が届く――、前にそれは弾かれた。
「でもまだやっぱり困るんだよね」
との魔女の横やり。それに何故か眉を曇らせたのはミネリア。
「………っ」
やはり、魔女が側にいる限り今は無理だとカイディルは見切りを付け、バルコニーより身を翻す。
すぐ下のテラスに降り立つと、驚く兵士に顔を見られはしたがもう構わない。どうせここにはもう戻らないのだ。
次に戻る時はそれは――。
カイディルは走りながら、ちらりとバルコニーを仰ぐ。月明かりに照らされた銀の光が、手すりの上に瞬いた気がした。
別に気にしなければいいと思う。関わらなければと。だけど、胸に燻るものが消えない。
これは、本当にただの私怨なのだ。
美しく可憐な鈴蘭の花のようなミネリア。
少年だった自分の心を、一瞬にして奪った少女。
執着は形を変えて憎しみになる。戻らない遠き思い出を引きずって。
暫く走ったところで、カイディルは足を止めた。町にはまだ祭の明かりが見え城を囲む。
流石にここからでは、もうバルコニーの人影は見えない。
次に戻る時、
それはあの女を――、
……白銀の髪を持つ、自分の心を奪った魔女を殺す時。
瞳を眇めて、それでも姿を探した。
頭上にある月は全てを見ていて、
彼女と同じ光が、そんな自分を静かに照らした。




