2
カイディルは思う。善も悪も結局のとこ、それを見る者の主観でしかないと。立場が変われば善も悪へ、悪も善へと変わる。
自分の行いは正しいと思っている者にとっては、それはすなわち正義なのだ。だからその行いに迷いはない。
「――で、その魔女とは?」
魔女エルダの尋ねる声に、
「公妃ミネリア」
カイディルが発した名は、エルダにとっては意外だったのか、僅かに眉が寄せられた。
公妃ミネリアはヒルトゥール公国大公マクシム二世、カイディルの父親である男の二番目の妻。
最初の公妃であった母は、カイディルが幼き頃に亡くなった。10年程前に新たに迎えられた公妃、それがミネリアだ。
母は国民と近い人だった。皆とふれあい笑い合えるような。大公である父よりも民に好かれる、そんな公妃だった。
なのでミネリアを第二公妃と揶揄する者もいるが、母が亡くなった現状では、ミネリアは正式な公妃なのだ。
ただ今となっては全てが無き国の話。
ミネリアは、ヒルトゥールとは友好国であるテファシアから来た第三王女。カイディルとは歳も近く、大公からすれば娘と呼ぶ方が正しいような。
所謂、政略結婚ではあった。国と国を強固に結びつける為の。
だけど実際にそれを仕掛けてきたのがどこかなどは、今のヒルトゥールの情勢を見れば一目瞭然だろう。
率先して帝国の元へと忠誠を誓ったテファシア。そして戦うこともなく帝国に陥落したヒルトゥール。
たとえそれだけが原因でないとしても、結局二つの国はいとも容易く帝国――、ラドラグルのものとなった。
美しく可憐で、清楚な鈴蘭の花のようなミネリア。
プラチナブロンドの髪に緑の瞳。繊細な白磁の人形のように整った顔には、柔らかく弧を描く小さい赤い唇が目を引いた。
だけどその根に毒を隠して。
まだ男盛りであった大公を落とすこなど容易かっただろう。そして10年の歳月もあれば国を落とすことも。
ただその中で、ミネリア自身の利が何処にあったのか?
簡単に手折れそうな白く細い指先が、
あの時、求めていたものは…。
「公妃と言ったが、あの者は魔女ではないだろ…?」
怪訝そうなエルダの声で、カイディルは現実へと戻る。そして肯定も否定もせず、ただ笑みを浮かべる。きっと少し歪んだ。
カイディルを見つめるエルダは、僅かに目を細めて。
「…お前の真意はそこではないのだな」と。
「――ふっ」
やはりカイディルは笑うしかない。魔女に隠し事など土台無理なのか?
「いや、彼女は魔女だ。美しく、他の者の心を奪うのに長けた。でも――、」
ふいに切った言葉。
落とした沈黙。
「………」
エルダも声を発しない。
一旦開けた口を、でも閉じて。
「………ラーウと、同じ年頃の両目尻にホクロのある魔女を知っているか?」
小さく吐いた息と共にカイディルは話を再開し、
急に飛んだ話に、一瞬目を瞬かせたエルダ。
「――ん? それは……、」
「ミネリアの側でよく見かけた。瞳の色が片方ずつ違う、黒と金の」
「―――――!!」
「もしかしたら、性別も違うのかもしれない。一度同じ色彩の男を………、」
カイディルは言葉を止める。
急に時を止めたように固まった魔女を見つめ、
「………知ってるのか?」
そう尋ねれば、エルダは酷く顔を歪める。まさに苦虫を噛み潰した顔。
「………最悪だ…」
告げるその声まで苦々しい。
「知り合い、なのか…?」
再び尋ねたカイディルに、ちょっと待てと言うようにエルダは手のひらを向けると、瞳を閉じた。暫くそのままで。
「………城には結界を張っているのか?」
瞳は閉じたまま、だけどそれは自分に向けての。
「いや……、俺は聞いていないが」
――ちっ!という、舌打ちの音と共に立ち上がったエルダは、瞳を開け宙に声を上げる。
「―――おい!アルブス! もう戻ってるだろ! 直ぐここに来い!」
けして大きくはないが、苛立ちを含んだ魔女の呼び声に、
瞬間―――、風が駆け抜けた。
焚き火の火を掻き消した突風に、カイディルは視界を庇うように手を掲げ、
再び開けた視界の先には、エルダの横に並ぶ――巨大な狼。
輝く白銀の毛並みを持つ狼は、紅玉のような瞳でカイディルを眺め、威嚇するようにグルルと喉を鳴らした。
( これは……っ、フェンリルか…! )
驚き目を見張るカイディル。
「……本当に……、いたのだな…」
あの古ぼけた書物にも書かれていた、狼の幻獣。
竜や一角獣や他の幻獣のように、それは史実を彩る為だけの偶像だと思っていた。
魔女に会いに、この『黒き森』へと来てみれば、そんな幻獣の姿に。そして、愚かな行いのせいでもうほぼ見ることのなくなったダークエルフの青年。
「………――はは、これは凄いな…」
ただ、感嘆しかない。
( ……なるほどな )
と、カイディルは思う。
( ヤツらが求めているのはこれか )
魔女エルダは威嚇するフェンリルを一瞥し、
「この男のことは放っておけ。――で、ヤツはいたか?」と尋ねる。
フェンリルはカイディルから視線を逸らすこはなく魔女へと喉を鳴らし、
カイディルには分からない会話の中、予測してたのだろうが、魔女は微かに目を見開くと、次にはきつく眉間にシワを寄せた。
「……そうか…、まさかこんな近くにいてたとは……。
――くそっ!」
深い、深いため息。
それを眺めながら、カイディルは口を開く。
さも当たり前のことのように淡々と。
「帝国ラドラグルはこの森へ兵を送るそうだ」
「……………は?」
眉間のシワそのままにこちらを睨むエルダ。
「……お前…、わざと言わなかったな?」
弁明はしない。
この森に対しては、カイディル自身なんの感慨もないのだから。寧ろその為に、帝国はヒルトゥールを手にいれたのだという事実。
あの夜――、あの夏至の夜に、カイディルはミネリアを殺そうとした。
全ての元凶であるあの女を殺せば、何も戻らないとしても、少しは気が晴れるのではないかとそう思った。
それがただの私怨だとしても、どうせ自分は聖人君子ではないのだ、構いやしないと。
そして城を出る前に忍び込んだ女の私室には、ミネリアと最近よく共にいる黒目金目の魔女がいた。
魔女は言う。
「さあ、準備は整った。次はやっとあの森だな」と。




