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ラーウの上機嫌は、森の木々が途切れた先、家を取り囲む池が視界に入った時点で急速に萎んでいった。
( ……あー……。 ヤバいかも? )
ラーウの足取りは段々遅くなり、森から出る手前で完全に止まった。横にいたカイディルはそんな彼女を不思議そうに眺め、後ろから来た魔女は呆れたように。
「だろうとは思ってたけど…。
これは仕方ない。無断で出たお前が悪い」
エルダは娘にそう言うと先に森を出て、
池の前で腕を組んで立つ青年へと声を掛ける。
「帰った。――アルブスは?」
「昨日の夜から出たままですよ」
こちらをちらりともせずに告げられる報告に、そうか。と頷いて、
「………うん、まぁ、ほどほどにな」
エルダは苦笑混じりに言うが、青年――、キリアンは眉間に微かにシワを寄せただけで。それに対しての返事はない。
ラーウ自身はまだ森の中にいて、そんなキリアンを眺めモジモジしたまま。
その視界の中、キリアンは一度深くため息を吐くと、組んでいた腕を解きこちらへと歩いて来る。
一瞬どうしようか?と考えたラーウだったが、けど直ぐに諦めて。
ラーウの目の前に立つと、無言で見下ろしてくるエルフの青年を上目遣いに見る。
「……キリアン、あのね…」
躊躇いがちに名を呼んで、
「………ごめんね。心配掛けた、よね?」と、小さく呟けば、再びため息を吐いたキリアン。
「………怪我は?」
「ないよ…」
「ちゃんと寝れた?」
「うん…」
そう…。と、キリアンは安堵のような息を吐く。
「ラーウが無事ならいい。だけど、俺にはちゃんと言って、お願いだから」
そしてキリアンから伸ばされた手は、寝起きのままで乱れていたラーウの髪を優しく梳く。心配をかけたのだと思う、暗い焦茶の瞳には焦燥による微かな疲れが見えた。
「うん……、ごめんなさい」
今度は素直に謝るラーウ。
キリアンはやっと瞳を和らげて、
「もういいよ。お腹すいたろ? ご飯にしよう」と。
「――――はっ!? おいおい何だそれは?
甘過ぎだろ!?」
とは、魔女から。
ラーウの肩に手を掛け、促すように家へと戻る途中のキリアンは、魔女へと済ました顔を向け。
「俺はラーウに何もなければそれでいいんで」
「お前がそんな態度だからこの子も調子に乗るんだ」
逆に魔女は苦い顔。
「別に調子に乗ってなんかないもん!ちゃんと悪いと思ってるもん! ――あっ、それより…、
――カイ!」
魔女に対して異義を唱えたラーウだったが、
でも急に思い出して。勢いよく振り返りキリアンの手をすり抜けて、まだ森の境で興味深げにこちらを見ている男の元へと向かった。
当然、置き場の失った手は落ちる訳で。
「…………」
音にならないほど小さく、忌々しげに舌打ちをしたキリアンに魔女は半眼を向ける。
「お前……、あえて無視しようとしてたろ?」
「…………なんで、あんな男をここに…」
「言っとくけど、わたしは反対したからな。望んだのはあの子自身と、氷室に眠るラーウだ」
「………どういう意味ですか?」
「さあ、な…」
と、魔女は肩をすくめた。
「カイ! ほら! ここがわたしの家だよ。キリアンにも紹介するね!」
駆け寄り男へと話し掛けるラーウ。だけどカイディルの耳には届いていないのか、彼の視線は池の方へと固定されたまま。
「……珍しいな。彼はダークエルフか…」
「キリアン? そうだよ?」
「そうか――。……それは良かった」
「………?」
カイディルの呟きがどういう意味を持つのかラーウには分からなかった。何故キリアンが人前では姿を変えるのかと同様に。
二百年以上も昔に、この国で起こった蛮行など、今のラーウには知る由もない。
そしてカイディルの言葉に、苦渋が滲んでいた理由も。
ラーウはカイディルをキリアンへと引き合わせたが、当のキリアンは。
「俺は…、その人間と馴れ合うつもりはない」
と、ひどく冷たい声。ラーウも初めて聞くような。
「キリアン……?」
困惑するラーウに、魔女はポンと肩を叩く。
「ラーウ、こればっかりはどうしようもないよ。強要出来るものでもないしね。
それに言ったろ? 私達と人間は垣根を越えるべきてはないと、距離を持てと」
「……でも」と、カイディルを見るが、
カイディル自身も、全て了承してるかのように頷いて。
「彼と魔女殿の言う通りだ。それに俺は魔女殿に用があるだけだしな」と。
少し不満を感じながらも、今までにないキリアンの態度にラーウもそれ以上何も言えない。それならばと。
「じゃあ、家に来てよ!」と言えば、カイディルは苦笑して。
「それも遠慮しよう。結界内に入れて貰えただけで充分だ」
そう言って荷手解きを始めたカイディルは、もうその意志を変えなさそうだ。
ラーウは渋々と。
「……ご飯とかは持ってくるから…、それくらいはいいでしょ?」
少しふて腐れたように。
手を止めたカイディルは、ラーウを眺め、
「………。――ああ…、有りがたく戴くよ」
仕方ないというように、微かに目尻を下げた。
後で話を聞くと、母さんはカイに言った。
「ついでに渡しとくよ」
用意した食事を抱え、池の小道を再び渡るエルダの姿を窓越しに眺め、
「……ちぇっ…」と小さくラーウは舌打つ。
「ラーウ?」
コトンと目の前に置かれたカップの音に視線を戻せば、こちらを見ているキリアン。
「やっぱりもうちょっと眠った方がいいね」と、少し瞳を眇めラーウの横へと座る。
伸ばされた手はまた優しくラーウの髪を梳き、かかる前髪を分ける。
覗き込んで、「少し目が赤いよ」と。
「うん、後でちょっと寝る」
ラーウは答えて、机の上のカップを抱え一口。入れてくれたお茶は安眠効果のあるハーブティー。
今のキリアンは、ラーウに向ける眼差しも、声も仕草も全て優しい。いつもの彼だ。
確かにラーウ以外の人物、アルブスとはよく言い合うし、時々会う外の人間に対してもキリアンの態度は優しいとは言い難いけど。
先ほどの、カイディルへの言葉は、ラーウも驚くほど冷やかであった。まるで憎い敵であるかのように。
「その人間」とキリアンは言った。完全にカイディルだけをさして。
( キリアンはカイのことを前から知ってる…? )
カイディルにそんな素振りは見えなかった。
だけどそんなキリアンの態度を、彼自身もそれが当然のことのように受け止めていた。
考えたってラーウは分からない。きっとまだ、私には知らないことが多すぎる。
夜空に上る豪快な火柱も、暗い森を飛ぶ蛍の群れも。今心を占める、胸のもやもやの意味も。
小さく吐いたため息に、
キリアンが「ラーウ?」と気遣うように名を呼ぶが、
ラーウは、何でもない。と首を振った。